大学生の日常。

思慮深さは人生を豊かにするか

「味なんてわからない方が、いつも食事を楽しめるんじゃない?」

 

そういう会話を何回かすることがあった。

頻繁に思い出すのは、小学校の給食。家の料理と差を感じてろくに食べない子がいる一方で、何でもおいしそうに食べる子がいる。

自分は、できれば後者に生まれたかったと思う。傲慢なんだろうか。

 

思慮深さは文学作品などで見る分にはひどく尊いものに見えるが、現実世界で相手の思慮深さを慮ることのできる人や相手に言葉として伝えられる人などそうおらず、中途半端な思慮深さは当人を豊かにしないのだろう。
「鈍感力」という言葉がいつか流行ったような気がする。その言葉はなんだか、世界がセンシティブになっていく中での思慮深いコミュニケーションへの「諦め」のようにも感じ取れる。

 

周りが恋愛について考えだした時、中には時間を掛けて恋愛をしている人もいたけど、ほとんどは生き急ぐように次のステップを求める人ばかりだった。そういう人たちは何を考えてそんな風にするのだろうと思っていたけど、きっと彼らは自分たちの関係性や距離感についてそんなに深く考えずに、直感的にやっていたんだろう。

思うに、自分は少女漫画のような恋愛を望んでいる。当事者たちや友人で思う存分話しあって、少しずつ互いに本音を打ち明けられるようになっていくような思慮深いものを。
現実では、そんなことをいちいち考えない方が様々なことを経験できるに決まっているのに。

 

現在の日本人の王道ルートである"大学卒業"からの進路選択へも「思慮深さ」は干渉してくる。
自身の心のままに選択できる人は「アーティスト」や「研究者」など、将来性の分からない職業に頭から突っ込んでいけるのだろう。私は、そんな風にしてとりあえず上京するような人を良く思わない。どうしてもこれからの生活や周りの人の心配などを考えてしまい、気づけば選択肢なんて多くは残っていない。これが正確に「思慮深さ」なのかどうかはわからないけど、結局「どれだけのことに考えを巡らしているか」と「幸せ」には正の相関はなく、むしろ負の相関なんじゃないかって思う事すらある。

 

 

私と間反対の性格の人は、きっとこの文章を見て困惑したり、怒ったりするのだろう。

隣の芝は青い。私は明日からも何かにつけて悩んで悩んで、少しだけ靄が晴れてまた悩んでをずっと繰り返していく。