多分「想像を超えられない」と思う

 自称「イラストレーター」として

皆さんの中にも「絵」を描くことが好きな人や描くことを生き甲斐としている人もいるでしょう。

こみちも好きで描くのですが、例えば「絵描き」とか「イラストレーター」と呼ばれる人とはかなりかけ離れています。

一時期、仕事として「イラスト」を描いていたことがありますが、でも自身をイラストレーターだとは思っていません。

というのも、彼らには共通して「絵に対する信条」があって、こみちには無いからです。

こみちにとって「絵」は「文字」とは異なる記述方法で、文字がより具現化しているとするなら、絵では印象や雰囲気を描き残したと思っていたからです。

しかし、技術の進歩によりスマホを持ち歩いていれば、絵など描けなくても、サッと一枚撮影することで「メモ」できます。

その意味では、もう「描く」必要もなく、継続する理由や目的も無くなったのです。

しかし、カメラで撮影するという感覚と、描くことは異なっていて、その1つが心に残った印象を誇張して描き残せます。

今のスマホは随分と改善されましたが、それでも5年くらい前モデルでは「色彩」と正確に写しとることができませんでした。

正確にはカメラの性能としてできたかもしれませんが、思うような色調で残せないジレンマが多分にありました。

それで一眼レフカメラを買って、スマホでは撮影できない限界を感じ取ることができました。

でも、普段使いではその領域よりも、「キレイ」が大切で、数%の色調のズレなど気にしている人などほとんどいないでしょう。

なぜそんな感覚を持ったのかというと、今では少なくなったカメラフィルムの現像機でお客様が撮影した写真を現像したり、プロのカメラマンから指示された色調に寄せてプリントすることを仕事にしていたからです。

今ではIPad で色ズレしても気にしませんが、本当に数%もズレてしまうと制作意図が変わってしまうのです。

「こんな雰囲気」で満足しているあたりを考えても、こみちはプロではなく、趣味として「絵」を楽しむ人だと思います。

プロからの要望

例えば「赤」という色も、印刷では「m 100y100」という記号で表記されます。

それは音楽での絶対音感みたいなもので、「色」を見てその構成された色味の割合がある程度予測できるようになります。

「色味」は照らされた光の反射で起こる現象なので、照射する光の色味によっても変化します。

その意味では「白」という基準値を得ることがとても大変で、カメラなどでも「ホワイトバランス」などと呼ばれていますが、数%の差を意識する時に、日光と蛍光灯の光は全くの別物で、日光でも朝と昼、午後3時、夕方でもかなり違います。

面倒に思える話ですが、プロとして色に関わる仕事をしている画家やイラストレーターなら、そこに妥協できる人など見たことがありません。

「もう同じだって」と思える僅かな違い長く考え込み、そこから渾身の「作品」は生まれます。

こみちが「プロ」だと感じる人たち

「プロ」とは、それを仕事にしている人ですが、ここで言いたいのは「創作」している方です。

こみちのように「絵」も「メモ」レベルではなく、何かのメッセージなどを込めて描こうとしている人たちです。

例えば「富士山」を題材に描いたとしましょう。

特徴的な稜線を正確に描くということも方法ですが、「富士山」ってそれだけでしょうか。

どんなにたくさんの人が集まっても、「富士山」を押すことはできません。

それだけ大きな存在で、時間的な意味でも我々よりも長くそこに居るはずです。

毛先の柔らかい筆でサラッと描いて、「富士山」を表現できるでしょうか。

一方で、ゴツゴツの硬いものを使って力強く色を乗せれば、それで「存在感」となるでしょうか。

これは人物画でも同じことで、静物画でも同じです。

実はこの前、久しぶりに石膏像のデッサンをして、正直、描くのが大変でした。

その理由は、「何も感じられない」からです。

描く前から、「面倒くさい」という感情があって、描きたいとも思えないまま、でも久しぶりのデッサンだからと始めました。

ネットで検索すると、美大の予備校講師などがサンプルで描いたデッサンがたくさん公開されていて、改めて日本人の美術に対する意識を感じました。

無機質な石膏像をより精細に描写していく。

制作時間はだいたい6時間から12時間程度。

つまり精細と言っても、程よく精細というレベルで、像の表面の僅かな凹凸まで描きとってはいない。

でもデッサンを形を写すための訓練とするなら、6時間程度で描くレベルで十分なのだろう。

むしろ、そこを超えて、その描写力で何をどう感じて表現できるかが問われてくる。

先の例で挙げた「富士山」でも、「こう描けばいい」というテクニカルな話が創作なのかと行き着く。

つまりデッサンの技法を学ぶことで、短期間に画力を上げて、希望する美大に入ることができるだろう。

しかし、その後何を創作するのかという段階になって、例えばこみちの場合には「目的」を見つけたいと思っていた。

「富士山」の100%を拙いこみちが描けるはずはない。

でも、あるストーリーがあって、そこに出てくる「富士山」なら、雰囲気くらいは描けるかもしれない。

つまり、「目的」というストーリーがどこにあるのかを探すことがとても大切で、多分「絵」を描くことしかできないままでは単なるデッサン上手な人になってしまう。

正直、絵を見てドキッとすることは少ないが、音楽では才能や音階の妙に激しく感動させられることがある。

高度にテクニカルなものでなくても、割と定番の中にも、「何これ?」と無意識に引き込まれる時がある。

そんな風に思った時に、例えばこみちは才能がない人だ。

なぜって、心から描きたいと思うものがないから。

気になる場面は時々あって、「この雰囲気描けるだろうか?」と思うことはある。

例えば油絵を間近で見ると、これほどかというほどに絵の具が厚もりされていて、平坦に思えた絵が立体だと気付かされる。

形さえ正確なら十分だと思うタイプはそんな厚もりを特に意味あるものとは感じ無いかもしれないが、人が自身の感情を動かして描いている以上、絵の具が厚もりされたり、筆のタッチが粗らしく残されていると、鑑賞する時に作者の心情を感取りやすい。

恐ろしく穏やかな絵なのに、その筆跡は段違いに荒かったら、「爽やかな絵」という感想ではなく、奥底に隠された「憎しみ」や「悲しみ」を感じ取れるはずだ。

もっと言えば、下絵や描く行程を見ることができたら、少なくとも作者が何を大切に描いているのかが分かる。

絵を含む美術という世界観が今後も続くために、見る側の洞察力も試される。

デッサンができれば、ある程度の絵を楽しく描くことができて、さらにそこに気持ちまで吹き込めたら、さらに作品としての価値も増す。

ここまで好きに話して思うけれど、やっぱりどんな世界でも「プロ」は凄い。

特に無駄を削ぎ落とし、必要不可避なものを見抜いた人は、どんなに時代が変化しても色褪せない。

風化していくのは、殆どが付け加えられた余剰な存在。

となると、日本画のように、線だけでその世界観を描くことに行き着くのだろうか。