「考えること」を特別視しないために

 「人間らしさ」を「考えること」にしないために

「人間」らしさを考える時、考え行動する能力に着目しがちだ。

しかし、全人口の内、どれだけの人が本来の意味で「思考」しているだろうか。

例えば食文化について考える時に、農業や水産業に一切携わったことが無い人がルールを決めるとどうなるだろう。

こみちは描くスピードが遅くて、一枚のイラストも数時間掛かる。

これを仕事にしようと思っても、採算が合わないし、相手にいくら請求すればいいのかと思ってしまう。

もちろんそれに見合った完成度なら良いが、そうもできないから「仕事」にはできない。

でも、国の政策で、「絵描き特別支援」が制定されて、コンテストで優勝したアーティストは補助金が受けられるというものがあったら、こみちは無理だとしても若い方々から生活に悩むことなく活動できるかもしれない。

「資本主義」の領域だけなら、常に採算性が求められるが、国や各自治体の政策を利用できれば、本来なら利益に結びつかない産業でも生き残ることができる。

絵でも農産でも、その知識や技術を持つ人は、その道で活躍できるといいだろう。

しかし、時には誰からの支援がないと継続できないこともある。

つまり「考える」と言っても、単に目の前のことだけをどんなに考えても解決しないのだ。

となると、人間の「思考」そのものにどれだけの価値があるだろうか。

考え方によっては「考えること」そのものではなく、全体としてその方針を実行できる能力に尽きるのかもしれない。

植物の中には、精力的に繁殖する種がある。

興味深いのは、そんな種でも周囲の環境に応じてその繁殖力をコントロールしていることだ。

人間は考えられる。

植物は?

自然災害を含め、人間の頭脳でも太刀打ちできないことはたくさんある。

その状況が好ましくないと理解していても、そこから抜け出せないなら、「思考」とはどんな意味を持つのだろう。

家族の関係がギクシャクしていて、でもこみちにすれば不思議に思えてしまう。

なぜなら、考えるべきことには目を向けないで、そうではないことにばかり着目しているように思えるから。

根本的な部分を改善しないと、結果を補足し続けても現状は苦しいままだ。

それこそ、「考える」ことが逆の意味で使われて、もしもすると人間以外の動植物なら改善できることにも改善できないでいるのではないだろうか。