「在宅介護」で分かる「介護」の根底とは?
介護福祉士の有資格者でもあるこみちですが、「介護」とは何かを何年も考えているように思います。
例えば、介護施設に入所者もさまざまで、自主的に入所された方、在宅では面倒は見られないからと、理由は一つではありません。
まず大前提として、24時間に自分が自分のためにしていることを、全て誰かに頼むとするなら、最低でも三名の介護スタッフが必要です。
「お茶を飲みたい」
「このゴミを捨てて欲しい」
「テレビをつけて」
日常生活では誰もが当たり前にしていることですが、それを誰かに頼むということがとても大変なのだと理解してください。
その意味では、「自分でできることをする」という考え方は、介護する人される人の負担を減らし、結果として「介護の行き届いた社会」がつくられます。
ところが、実際の現場では、「お茶を飲みたいなら自分でできるでしょう?」と答えた場面で、コップに上手く注げずに辺りを水浸しにしてしまうことや、腎疾患があって水分量を軽減しなければいけないのに沢山注いでしまったり、糖尿病の人が甘いジュースばかり飲んでしまうとことも起こります。
「注ぐ」ということ自体は大きな問題ではなくても、「注ぐ」の背景を理解していないと、実際には目的や意図が反映されません。
ゴミ箱にゴミは捨てられるけれど、そのゴミを分別できなければ、指定された日時にゴミ捨てできなければ、やはり社会生活は段々と難しくなってしまいます。
特に、複数の人が集まる場面では、個々の要望がより反映されづらくなります。
「なぜ、自分は後回しなのか?」
そんな印象を受ける人もいるはずです。
しかし、介護する人は、緊急性や安全性などを踏まえて、その時々で優先度を考えながら動いています。
それでも表面的に見れば、「損している」という感覚を生んでしまうのです。
正式な診断は受けていませんが、こみち家の父親はある意味で何らかの発達障害を抱えていると思います。
程度問題で言えば、こみち自身を含めて誰しもが持っているのですが、父親に関してはそれが「症状」なのか、「老化」なのかが微妙です。
例えば、自分の食器は洗えても、みんなで使った皿やフライパンを洗うことはできません。
それをお願いすると嫌々してくれるのですが、料理を準備してくれた人を労うことまで思考が働きません。
この時期、仕事を終えて汗だくで帰宅して室内が暑くて「エアコンをつけよう!」と言った時に、「さっきまで点けていたから寒い」と返って来ます。
何のために働きに出ているのか。
なぜ汗だくなのか。
その背景を理解することができません。
その度に、特に母親は別の部屋に逃げ込みます。
夕飯を終えると家族は父親をリビングに残して自室に戻ってしまうのですが、会話をしてもつまらないですし、テレビも室温も父親の気分次第で変わってしまうので、どうも居心地が悪いのです。
「介護」ができないことを支援すると定義した場合、父親にとっての「介護」はどこまでなのか悩みます。
冷蔵庫に冷えた麦茶を用意していないと、自分で用意できず、水を飲むか何も飲まないかになってしまうのです。
食卓にご飯を準備してあると、一人で先に食べてしまうということも当たり前です。
「自分で食べられる」という視点では問題解決です。
しかし、家族の団欒はありません。
段々とそんな生活になっていて、でも「こうしよう!」という提案を受けてはくれないので、父親が望む通りしかできません。
その意味では、認知症の利用者に接する時と同じスタンスが必要です。
父親が残ってしまった後、そこからどんな対応をするべきか、家族として考えると在宅介護を安易に選択することはできません。
なぜなら、こみちだけでなく、妻の時間まで介護に費やさせてしまうからです。
「親を介護するのは当たり前」からスタートするのか、「誰もが老いるのだから自分で準備するべき」からスタートするのか。
自主的に介護施設に入所された人から、「家にいると負担になる」と聞かされたことがあります。
本人にとって大変な決断ですが、難しい問題だとも思います。