聖典解説の連載を始めました。
改めまして、明けましておめでとうございますっ!!
新しい年が明けてしまいましたね、どうしましょう。
どうもこうもありません、楽しむのみです!!
今年はどんな年になるのでしょうかね。
私は益々ヨーガの生き方、ヴェーダンタのお勉強を楽しみながら取り組んでいきたいです。
そしていつかまた、インドにも行きたいなあ。
前回18番の詩が登山の頭頂部だとすると、今回からはその頭頂部分の平地を歩きます。
真髄は18番で説明されているので、このあとは、その真髄に達した人ってこんな人だよって説明が続きます。
つまり、モークシャの知識を得た人の特徴。
ゆっくりじっくり確実に踏みしめながら、このウパデーシャサーラという山の山頂風景を楽しみましょう。
今回は19番と20番、ぶっちぎっていっちゃいまァすッ!!
ウパデーシャサーラ 1/30からはこちらより。
〜ウパデーシャサーラ 19.20/30〜
まずは19番の詩に何が書いてあるかと言いますと。
前回までのまとめと併せて見ていきましょう。
『私観念(私の見方)でしか見ることが出来ないこの世界。
ではその【私観念】ってどこから来るのかって言ったら、私個人の記憶とかエゴとかからだよね。
じゃあ、その【私観念】を目撃している人って誰?
それこそが、個人の私観念を客観視した、真の【私】じゃん?
それが理解できれば《私観念イコール真の私》という考えは絶対的に落ちる(否定できる)じゃーーーん!!』
と言うこと。
伝統的な例えで、鏡の例え話があります。
鏡に【写った私】は、写す方の【本体の私】と【鏡という場所(正確には空間と時間)】が無ければ存在できません。
写っちゃった方ばかりがよく見えるから、それが本体(本質)だと勘違いしちゃいますが。
実は鏡に写った私は、本体の私から現れた単なる色と形なんですね。
写った私ではなく、本体の方をきちんと【本体】だと気付けば、鏡に写った私は落ちる(真実ではない事に気づく)。
・・・分かりづらいですかね笑。
役者の例えはどうでしょうか。
これも伝統的な例え話です。
ロミオとジュリエットという劇があります。
ジュリエットは劇中で悲恋に打ちひしがれ、泣きます。
でもジュリエットを演じている女優・タエコは泣きながらも『よしよし、予定通り劇が進んでいるぞ』とほくそ笑みます。
女優・タエコは劇全体の起承転結を俯瞰で見ることが出来るからです。
役・ジュリエットは女優・タエコの身体を借りてでしか存在できません。
もしも女優・タエコが、自分が女優・タエコである事が見えずに、ジュリエットの立場に没頭してしまったら。
女優・タエコは、ジュリエットとしてパニックに陥ります。
本当は女優・タエコが舞台の上で演じているフィクション(幻)なのに、ロミオと結ばれない事に本気で絶望しちゃう。
ちなみにこの状態が、今の一般的な世相の私達。
この個人の私観念を真の私としてしまっている状態。
毎日喜怒哀楽に巻き込まれてパニック状態ですね笑。
でも女優・タエコがジュリエットではなく、ジュリエットを演じている女優・タエコだと気づいていれば、ジュリエット観念は私から落ちます。
鏡の例え話とこの役者の例え話を照合すると、ジュリエットは【鏡に写った私】。
五感と考えでリアルに見えるもの。
女優・タエコは【本体の私】。
五感と考えでは見えない真実。
舞台は、その世界を繰り広げるのに必要な時間と場所と空間である【鏡】。
ヴィナーシャ、モークシャの知識を得た人は、その視点が【鏡に写った私】や【ジュリエット】から【鏡に写す方の本体の私】や【女優・タエコ】に移り変わるのですよ。
そうすると役・ジュリエット(真実ではない幻)が落ちますよ、ってことが19番の詩に書かれています。
視点が変わるんですね、まさに境地です。
続いて20番では『世界は私の観念に頼って在ります。
その観念だって、本質の私に頼って在ります。
てことは、全てが本質の私に頼って在るってことじゃん?』という事を言っています。
本質の私こそが真実だ!と気づいちゃった事を、聖典では『観念の私の破壊』と表現しています。
破壊って言うとちょっと物騒だけれども、つまり『真実はそこじゃないよー!』ってことが私によってバレちゃう事、気づかれちゃう事を【破壊】と表現しているんですね。
13番の詩でも表現してました、ラヤ→体験の没頭・没頭から覚めるとまた日常に戻るけど、ラヤで体験した快感は体験する度に何度でも甦る。
ヴィナーシャ→知識・得てしまった知識はもう手放される事なく、無知だった状態は確実に破壊される。
20番の詩は、私の本質こそが私観念や世界に頼られているビッグボスなんだよ。
「私観念も世界も、私の本質を頼ってでしか現れる事が出来ない!」という知識を得た人がヴィナーシャ、モークシャの知識を得た人だよ。
だから彼らは【私とは全体で、私から私個人の観念や世界が現れているんだなぁ】という見方が自然に出来ちゃう人なんです。
これ、人間の五感と考えの及ばない領域なので、この感覚を体験することは出来ません。
あくまで知識。
例えば、太陽が動いてるのではなく地球が自転しているのを知識として知っているように。
実際に宇宙船に乗って太陽と地球の動きを目の当たりにしなくても、知識として考えに定着して、二度と死滅しないのと同じように。
ヴィナーシャ、モークシャの知識を得た人は【私】によって【個人の私観念】が現れているし、全ての源が【私】なのだなあ、ということを個人の私観念の中で見ることができる人です。
まだまだ、詳しく執拗に説明は続きます笑。
聖典の楽しさを一緒に味わっていきましょう!
▩ヴェーダンタ識者の方。
本記事はあくまでヴェーダンタビギナーに向けて簡単にユルッと書いていますので、敢えてディープな説明は避けております。
また、解釈の間違い等ありましたらご指摘頂けると助かります。
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静岡市葵区鷹匠にてシヴァナンダヨーガという流派をひっそりとお伝えしています。
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