ケンのブログ

日々の雑感や日記

カレーになります おそろいですか

2021年11月27日 | 日記
スーパーマーケットに入ると入り口の近くに来年の干支、寅の陶器の置物が販売されていた。

僕、寅年で来年60歳になる。

還暦と言うけれど、あまりピンとこない。

まだ、心のなかでいろいろとやりたいと思っていることがあるからかもしれない。

一方で健康寿命は男の場合72歳と出ている。

つまり、平均的な経過をたどれば健康の問題が日常生活の支障にならない程度に暮らせる期間はあと12年ということになる。

それは短いなあと思う。

自分自身や両親の周りを見ていると80歳になるとさすがに支障のない人はあまりいないという気もするので(支障と言っても様々なことで人それぞれなので、80歳以上の人はどうぞ気にしないでください)やはり、そのように頭の中で計算すると歳だなと思うし、先は長くはないなと感じることもある。

なるべく、あせらないように、ひとつ ひとつ 試行錯誤しながら進んでいこうと思ってはいるのだけれど。

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スーパーのおもちゃ売り場に行くとプラレール(プラスチックのレールの上を新幹線などの電車が走るおもちゃ)や容器の中にボールを入れるとその中のらせん状のコースを球がくるくるまわりながら落ちていくおもちゃで我を忘れて遊んでいる子供がいっぱいいる。

イエスの言葉に「子供に見習いなさい」という主旨のものが聖書には何度となく出てくるけれど、子供の様子を見ていると、基本的には目の前のことだけを考えていて、一ヶ月後にどうかとか、それどころか明日はどうかさえも考えていないように見える。

子供が明日のことを考えるのは寝る前くらいになってからかも知れない。(子供の年齢にもよるけれど)

「空の鳥を見るがよい」、とか「野の花を見るがよい」、とか、そういうことばもよく出てくる。


これも、聖書の中では子供と類似の意味で使われていると思う。

つまり、鳥や野の花も先々のことを考えるということはなく、その瞬間だけを生きている。

そういう姿勢が大切ということを語るための、たとえ、あるいは具体的イメージとしてイエスは子供、鳥、野の花というものを引き合いに出している。

それは、ただ、「明日のことを思い煩うな」と言われるよりも、野の花のように とか鳥のように、などと具体的なイメージを示して語ってもらえれば聞く方も抽象的に理解するだけでなく、イメージと結びつけて理解できるからわかりやすいだろう。

本当に僕も忘れかけていたことだけれど、花や鳥を見るときにそういう気持ちをもって眺めたいものだなあと思う。

「カラスだ怖い」と思っているだけよりも、そういうイメージと結びつけたほうがいいように思う。

もちろんカラスが来るような臭いゴミを出さないことも大切と思うけれど、、、。

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新聞にデジタル教科書をさらに普及させていこうという方向性の記事が出ている。

僕、デジタル教科書があまりはびこると日本語力が低下しないか心配。

先日、役所が発行する文書を読んでいたら、「ペットボトルの回収は○曜日になります」とい文が何ヶ所かにあった。

役所の文書もそうなのかと思ってしまった。

「〇〇です。」 というべきところを「〇〇になります。」という表現、最近は世間でかなり一流と思われている会社の文書でも見かけることが多くなった。

こういうの見ると大丈夫だろうかと思ってしまう。

たぶん、かれこれ20年くらい前だと思うけれど、「〇〇になります」という言葉が特に飲食店のバイトの子の間で流行り始めた時はまだそれを危惧したり批判したりする風潮もかなりあった。

「こちらミートソースになります」と言ってミートソースのスパゲティーを持ってくるバイトの子に「それならお前、この場でミートソースになれよ。お前、ミートソースに変身してみろ」と言ってやりたくなる衝動にかられると書いていた人がいたと記憶している。

それを読んで僕はそのとおりだと思っていた。

「こちら(これ)がミートソースでございます」と言うべきだと思っていた。

あと、
「注文は以上でおそろいでしょうか?」ってあなた、「注文」が主語で、「そろう」が動詞の構文になってしまっている。

注文という無生物の主語に「おそろい」という丁寧語を添えてしまっている。たぶん敬語のイメージで丁寧語にしているのだろうけれど、そもそも注文という無生物に敬意を払うのもおかしい。

注文した主体はお客様なのだから「お客様が注文された品はこれですべてそろいましたか?」というのが本来あるべき言い回しなのに、、、。

本当に「注文が注文したのか?違うでしょ?注文したのはオレだよ?本当にお客をバカにしているのか」と言いたくなることも昔はあったけれど、いまはすっかり諦めモードになってしまった。

下手にそんなこと言ったら逆にクレームをつけるモンスターのお客だと思われてしまう。

「はい、そろいました、大丈夫です」と答えている。

まあ、村上春樹さんもなにかのエッセイで間違っている表現がいつの間にか慣用化してして正しい表現になってしまうこともあり、必ずしも目くじらをたてるべきではないという主旨のことを書いておられたような気がする。

しかし、人間は言葉で物事を思考するから、言葉使いの論理性が無茶苦茶になると、結局、思考の論理性も無無茶苦茶になってしまう。

まあ、これは、ひとり ひとりが考えなければならない、あるいは考えるべき問題ではあるなと思う。

それはともかく、いちにち いちにち 無事にすごせますようにそれを第一に願っていきたい。



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