主任さんは早く帰りたい:『お局の矜持』

小説

階段の踊り場で、私は煙草に火を点けた。

「ライター貸してくんない?忘れちゃった」

いいよ、と私は蔵前沙奈子のタバコに火を灯す。

「あと2週間で卒業公演か〜。早いよね…」

蔵前さんは今度の公演の主役だった。稽古着の黒のジャージは高校生の時から使い込んだものだ。彫りが深い彼女の顔は、薄暗い階段の踊り場でも不思議な輝きを放っているように見えた。

「うん…。そしたらオーディション受ける時期だね。皆と一緒に過ごす時間も、あと少し」

「そのことだけどさ」

蔵前さんがふと私に目を向ける。その眼にはどこか悲しみの感情が浮かんでいるように見えた。私の気のせいだろうか。

「なに?」

「進路のこと。水貴はどう思ってるの?みんな行きたいプロダクションの話で持ち切りだし、上京した後の生活費とかで悩んでる。でも水貴はその話いつも避けるじゃん」

やはりその話か。私達は、いくつかのメディアプロダクションが設立した芸能系の専門学校に通っている。正確には、学校法人ではない。ゲームクリエイター科やノベルス科の生徒は、プロのクリエイターや脚本家からの指導を受けて、卒業後はゲームメーカーに就職したり、小説家マンガ家を目指す。どれも狭き門だ。その後もずっとやっていけるかどうか、長く活躍できる人は、ほんの一握りでしかないだろう。

そして、私と蔵前沙奈子は声優科に所属している。卒業後の進路は当然声優プロダクションだ。だが、プロダクション所属と言ってもいきなり仕事がもらえるわけではない。オーディションに通っても、まずはプロダクションの養成スクールに通ってそこからさらにレッスンを積み重ねていかなければならない。レッスン費用だって捻出しなければならない。生活もあるからバイト漬けにもなる。

「私は…みんなみたいにオーディションは受けないよ。エステのお店に勤めるんだ。もう説明会とかも行ってる」

私は沙奈子の方を向かずに答えた。彼女の目を、見れなかった。

「どういうこと?…エステティシャンしながら、声優目指すってこと?」

「違うよ…。私、別にやりたいことができたってこと。元から美容とか健康とか、興味あったんだ。いろいろ悩んだけど、そっちが私に向いてるかなって思って」

そこまで言って、私はようやく沙奈子の方を向くことができた。彼女は真剣な眼差しで私を見ている。その顔に浮かんでいるのは驚きだろうか、寂しさであろうか、私には読み取ることができなかった。

「そうか…。東京には行かないんだね」

「うん…。でも今度の卒業公演は、本気で頑張るから」

その言葉には嘘はない。高校時代の私は、ほとんど人と話せなかった。皆と共通の話題を持てず、雰囲気に馴染めない。好きなマンガにのめり込んで、自分の世界に閉じこもり、オシャレもわからず、芸能の話にもついていけない。そんな根暗な私に話しかけてくる人は、ほとんどいなかった。

でも沙奈子は…強気で社交的で、いつも周りに人が集まってくる私とは真反対なタイプの沙奈子は、よく私を遊びに誘ってくれた。人見知りでドジな私を根暗なタイプだと避ける人は多い。でも沙奈子はそうではなかった。

彼女の家に泊まりに行って、一晩中アニメの話を語り明かしたりした。お芝居のDVDも一緒に観た。『髑髏城の七人』が私達のお気に入りだった。いつしか私は、自然に笑っている時間が多くなった。皆の前でも…

卒業公演では、私は沙奈子の相方のポジションだ。ここではいろんなことを学んできた。まったく畑違いの分野に進む私が、ここで学んだことを活かせる機会はそうそう多くないのかもしれない。でも私はまだここにいる。皆は自分の未来のため、目の前の役に精一杯打ち込んでいる。水を差すような真似を、できるわけがない。

「沙奈子は東京行ったらどこに住みたいか決めてるの?みんな家賃とかけっこう悩んでるみたいだけど…」

「それなんだけどさ、午前のクラスの保木(やすき)くんが、『俺はもう住むとこ決めてるから、近くに来ないか』って言ってるんだよね。まだ付き合ってねえっての」

「へえ…」

保木くんが沙奈子にちょっかいを出していたことは知っていた。しかしそこまでモーションかけているとは…。沙奈子は最近彼氏と別れたばかりだ。そんな沙奈子が狙い目だとでも考えたのだろうか…

そこまで保木くんを疑うのはわけがある。私も彼にちょっかいを出されたからだ。そのことは誰にも話していないけど。

『俺、最近バイト先のコンビニで副店長を任されたんだ。で、仕事できないヤツをクビにしてやったのよ』

『社員にならないかって声かけられてんだ。でも俺、声優目指してるじゃん?こんなところで燻ってらんねえって』

彼は会うたび、自慢話を私に並び立てた。しかし私は流して聞く。「スゴイですねー」「仕事できるんですねー」と話を合わせるけど、真面目に聞く気はなかった。連絡先はしつこく聞かれたが、教えることなどなかった。

なぜなら私の妹が、同じ店でバイトしているからだ。妹によると彼はただの平凡なバイトで、いや平凡どころかしょっちゅう遅刻するので、店長から疎まれているらしい。それで副店長とは大きく出たものだな。口説いている相手の妹が同じ店にいることにも気づかない。もう具ドンとしか言いようがない。

しかし彼はウソを平然と私に並び立てる…。迷いなくこちらを見据え、バイトの自慢話を延々と話す。その眼には迷いや不安など一切感じさせない。むしろ自信に満ちた目をしている。私は空恐ろしいものを感じた。

なぜ躊躇いもなくウソをつける?

ウソをつくときはバレないか不安を感じるものだ。少なくとも私はそうだし、おおかたの人間がそうであろう。しかし彼は、そういった感情が欠落しているようにさえ感じる。不思議なまでに自身に道満ちた眼。

「確かにアイツ、イケメンだけどさ〜」

沙奈子の声にふと意識がこの場所に戻る。確かに彼は短髪の似合う、目鼻立ちの整ったイケメンに見えなくもない。沙奈子は口ではこう言っても、グイグイくるタイプには弱い方だ。

「沙奈子がいいって言うなら話は別だけど…」

いちおう私は釘を刺すことにした。

「彼の言うこと、あんまり真に受けない方がいいんじゃない?彼のクラスの公演の練習にも、あんまり身が入ってないみたいよ?」

「そっか…。そうだよね、アイツのことよく知んないし。ありがと」

そう言って沙奈子は煙草の煙をくゆらせるのだった。

−−−−

それから10年と少し経ったか。

あれから私はかつて演劇を共に学んだ人達と連絡をほとんど取っていない。沙奈子とも。

だが、ときおり沙奈子が出演するアニメが放映される時がある。私はそれを心から楽しみにしていた。離婚したとかいろいろな噂は耳に入った。でも彼女は今でも頑張っている。彼女のTwitterで流れてくる写真はどれも幸せそうだった。元気でいてくれればそれでいい。私はそう思っていた。

保木とは結局関わりを持たなかったらしい。それでいいのだ。

私もエステの仕事からデイサービスという介護の仕事、ケアマネジャーと仕事を転々とした。かつての根暗なアニメオタクはそのままだが、社会生活はそれなりに折り合いをつけてやっている。なんだかんだで保木のような人種を含め、いろんな人達と仕事では知り合った。

ウソをつくことに躊躇いのない人、それはどこに行っても一定の割合でいるのだと、私は気づいた。彼らは自分を大きく見せ、話をすり替え、相手に罪悪感を持たせ、場を支配しようとする。そういう人を見つけるにつけ、私は徹底的に距離を取ることにした。

しかし、中には距離を取ることが難しい場合というものもあるものだ。そう、今で言えば小阪主任がそうだろう。

仕事の絡みでどうしても顔を合わせざるを得ない。そうした場合の次善策は、敵対しないことだ。人見知りの私が社会で学んだ数少ない処世術といったところか。

…しかし、すでに私は彼の機嫌を損ねてしまったようだ。もはや彼は私の悪口を至るところで吹聴するに至っている。争うのは本意ではないが、対立は避けられないか。立ち回りを間違えれば、私は組織の悪者とされてしまうだろう。彼のためにキャリアを棒に振るつもりもない。

彼と同じ眼をする人を私は怖れていた。本来は怖れ、距離を取るべきなのだろう。だが、今回は相手をすることにしようか。

私は彼が言うところの『若手のお局』だからな。お局の矜持を見せてやるとするか。

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