「松原さん、電話。黒川さんて方から」
「黒川さん?」
一瞬戸惑ったがすぐに思い出した。以前に申請を代行した人だ。
黒川さんは一人暮らしの85歳。女性。一人暮らしとはいうものの、同じ町内に息子夫婦が住んでいて、息子さんが毎晩様子を見に行っている。
認知症があり、薬を飲み忘れたり、鍋の火を消し忘れたりと生活に支障が出てきたのを察した息子さんは、近くの柏デイサービスを訪れた。
そこで介護保険について相談したため、系列のうちの事務所で申請を代行することになったわけだ。
しかし、その時は利用につながらなかった。介護度は要介護1で認定され、デイサービスの体験利用も気に入ったものの、黒川さんは利用を断った。
聞けば、黒川さんは地域が支援するふれあいサロンに通うのが楽しみなのだという。
サロンは市が介護予防事業として進めているものだ。入浴や機能訓練といったサービスは受けられないものの、介護認定を受けていなくても安価で利用できる。
デイサービスで介護保険サービスを利用してしまうと、介護予防事業のサロンは利用できなくなってしまう。
「せっかくご協力して頂いたのですが…。母はまだ自分の足でサロンに通いたいみたいで…」
そう息子さんは申し訳なさそうにしていた。
私としては、本人が望む生活を送れるのであればまったく問題無いと思っていた。
「また、お困りの時にはいつでも相談してくださいね」
そこでやり取りを終えた記憶があるのだが、連絡があったということは、何かあったのだろう。
「はい、松原です」
「松原さん、お久しぶりです。実は…、今母が入院していまして…」
そう言って息子さんは事情を語り始めるのだった。
−−−−
病棟のナースステーションで面会表に記入を終え、私は相談員と相談スペースへと向かう。
黒川さんの入院の原因は、骨折だった。いつものように仕事を終えて黒川さんの家を訪れたら息子さんは、廊下でうずくまり動けなくなった黒川さんを見つけたという。
すぐに緊急搬送、検査の結果大腿骨頸部が折れているとのことだった。ここが骨折すると手術で人工骨頭に置換しないと、歩けなくなる。手術は可能な限りすぐに行った方がいい。
手術はすぐに終わり、黒川さんは入院して療養、リハビリをすることになった。
相談スペースに着くと、息子さんがすでに到着している。お互いに挨拶をしていると、看護師と一緒に黒川さんが入ってきた。
「こんにちは、黒川さん」
「あんた、前に来てくれたかな?私もう、自分がどうしてこんなことになったかもわからなくて」
「入院されたと聞いてびっくりしました」
自宅で転倒したのだろうが、黒川さんの記憶は曖昧だった。リハビリは前向きで歩行は以前のようにとまではいかないが、付き添いがあればできるくらいにまで回復している。
ただ、自分が病院にいるという事情が飲み込めないのか、時に夜間に「家に帰らなければ」と言い出すのだった。
リハビリも順調だし、そろそろ退院しなければならない。問題は退院後、どのような生活を送るかということだ。
「以前に体験に行かせてもらったデイサービスなんですが、週に5日利用させてもらうことはできますか?」
「週に5日、ですか…」
息子さんの相談に、思わず言葉に詰まる。黒川さんは要介護1。デイサービスだけで他のサービスをまったく利用しないのであれば、ギリギリ可能といったところだ。
「週に5日のペースで利用すると、限度額が足りるかどうかは微妙なところです。点数オーバーで、月に1〜2万円くらい実費が出ることもありえます…。利用費用は、以前の体験の時にもお伝えしたかと思いますが」
「母の年金と、私も援助すればじゅうぶんまかなえると思います」
息子さんに迷いは無いようだった。
平日は毎日デイサービスに通わせ、息子さんの仕事が終わったら食事を持って行き一緒に夕食を食べる。土日は息子さんと息子さんの奥さんが一緒に過ごす、そういう算段のようだ。
近くに住んでいるとはいえ、ここまで協力的な家族は珍しい。在宅生活を諦めて有料老人ホームなどに入所する手もあるが、息子さんの頭にはその考えは無いようだ。私はじっくり話を聞くことにした。
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