『信長の野望・新生』武将能力:長宗我部元親の評価は?【武将評価シリーズ・その10】

2022年8月7日武将能力評価信長の野望, 信長の野望・新生武将評価シリーズ

motochika chosokabe

『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第10回目は、「土佐の出来人」と称された四国の英雄・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)です。

苗字が長いのニャ。

ゴロがいいので案外覚えやすい名前ですね。

それでは能力を見ていきましょう。前回の伊達政宗は以下のリンクから。

 

人物について

長宗我部元親は天文8年(1539年)、土佐国岡豊城主・長宗我部国親の長男として生まれました。幼名は弥三郎。

幼少のころは色白で、おとなしい性格だったことから「姫若子(ひめわこ)」とバカにされていました。

初陣は23歳のころで、槍を持って敵に突撃する勇猛さを見せたことから「鬼若子(おにわこ)」と恐れられるようになります。

評価が一変したのニャ。

同年、父が死去したことから元親が家督を継ぎ、四国統一へと乗り出します。

永禄11年(1568年)には本山氏を降伏させて土佐中部を平定し、翌年には安芸国虎を「八流の戦い」で滅ぼして東部も平定。

天正3年(1575年)には一条兼定を「四万十川の戦い」で破って土佐統一を果たします。

以降、織田信長と同盟を結び、四国統一へと突き進みます。

ところが天正8年(1580年)、急に信長が四国制覇を認めず、臣従するように迫ります。これを断ったため、敵対関係となりました。信長は翌年、三好康長らと同盟を結び、反抗を始めます。

急に裏切ってきたのニャ。

この窮地を救ったのは、「本能寺の変」による信長の死亡でした。

信長亡きあと、元親は四国統一事業を進めます。

そして3年後の天正13年(1585年)、念願の四国統一を果たしました。

一方、信長のあとを継いで権力を手中に収めた豊臣秀吉は、10万の兵を四国に派遣。多勢に無勢で次々と城をとられていき、最後は秀吉に降伏しました。

秀吉は四国を平定したのち、九州に兵を進めます。

元親は長男・長宗我部信親とともに、九州の島津氏を討つため出兵します。しかし敗北し、長男・信親も命を落としました。

正直、四国勢以外にはあまり強くない気がするニャ。

元親は、跡継ぎを四男・長宗我部盛親にしたことから、お家騒動が起こります。元親は反対派に強く当たりました。

そして慶長4年(1599年)、元親は病で亡くなります。享年61歳。

あとを継いだ盛親ですが、「大坂の陣」で徳川家康に敗北。息子たちも斬首され、長宗我部氏は途絶えることとなりました。

血筋は残らなかったのニャ。

 

基本ステータスについて

統率:89
武勇:91
知略:89
政務:87
主義:中道

信長たちと比べると、ワンランク落ちる形ニャ。

武勇以外は80台ですね。

ただ武勇は91あり、後述する「攻勢」の特性もあるので、戦闘で活躍できるでしょう。

 

戦法・特性について

(戦法)
鬼若子:自部隊の兵力回復・防御上昇。

(特性)
四州の雄:自部隊が四国にいると、自身と周辺部隊の能力上昇。

攻勢:自部隊の攻撃上昇。

用兵:敵部隊を挟撃中、自部隊の攻撃上昇。

四州の雄」はかなりローカルな能力ニャ。

四国限定というあたり、まさに四国の英雄といったところですね。周辺部隊も強化できるので、上手く使っていきましょう。

また「攻勢」「用兵」もあるので、攻撃力のバフになります。

味方部隊を上手く使って戦っていきましょう。

 

総評

信長らのメイン大名と比べると、パラメータは多少劣ります。

しかし武勇は91と高く、「四州の雄」「攻勢」「用兵」でさらにバフをかけられるので、四国内では最強の強さを誇るでしょう。

ローカルな武将ニャ。島津には負けたのニャ。

次回は島津義弘です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。