【人間椅子】和嶋慎治と鈴木研一は天才or努力家? – 近・現代アートの画家をヒントに

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日本のハードロックバンド人間椅子は、和嶋慎治(ギター・ボーカル)と鈴木研一(ベース・ボーカル)の2人が主に楽曲を作っている。

作曲からプレイ、そして性格まで、お互いにないものを持つからこそ、30年以上バンドが続いてきたように思う。

さて、筆者の中で芸術家・表現者は「天才」「努力家」の2つのタイプに分かれるのではないか、と考えている。和嶋・鈴木両氏はそれぞれどちらに当てはまると感じるだろうか?

複雑な展開を盛り込んだ楽曲を作る和嶋氏が「天才」的であり、コツコツと楽曲を作っていく鈴木氏が「努力家」に見えるかもしれない。

しかし筆者の考えは、その反対である。和嶋氏が「努力家」であり、鈴木氏が「天才」であると考えている。

今回はそう考える理由について、「天才」「努力家」という2つのタイプを考えるきっかけとなった、近・現代アートの画家の話題を盛り込みつつ、語ってみようと思う。

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筆者の考える芸術家における「天才」と「努力家」

最初に筆者が考えている、「天才」と「努力家」の2つのタイプの定義について述べておきたい。

まず「天才」とは、その人が表現を始めた時から、ずっと同じ軸を持っている人だと考えている。

もちろんその後、努力をしない訳ではない。ただ努力をして、作風が多少変わろうとも、最初から描きたいもの、その根幹にある軸は一貫して変わらない人のことを言う。

どう表現しても、その人らしさ=〇〇節とも言える表現になってしまう人である。

一方で、「努力家」とは表現する物自体を模索しながら、鍛錬を続ける人のことである。

「天才」の人のように、最初から一貫して表現したいものがなかなか見つからないために、いろんな技法や表現に触れながら、自分の表現の軸を模索していくタイプである。

まずもって、芸術の分野で生計を立てられる人であれば、才能があるのは当然のことだと思う。また才能を活かして表現するための技術を磨くことも、どの芸術家でも行うだろう。

しかし表現したいもの・自分らしい表現、と言うのは、なかなか確立が難しいものだと思う。それが最初から決まっている人が「天才」、鍛錬によって見出す人を「努力家」ではないか、と考えている。

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近・現代アートにおける「天才」「努力家」の画家と世間の評価

そもそも筆者が芸術家に「天才」「努力家」の2タイプがあるのでは?と思ったきっかけは、近・現代アートを鑑賞している際に感じたことであった。少し人間椅子から話は逸れるが、述べておきたい。

きっかけとなったのは、ゴッホやピカソの絵を見ていた時である。ゴッホやピカソと言えば、絵画に詳しくない人でもその名前は知られており、「天才」というイメージを持つ人も多いかもしれない。

しかし、たとえばパブロ・ピカソは、非常に作風が変遷することで知られている。「〇〇の時代」と名前で作風が分けられるほどであり、具象的なものから、抽象画に近い作品まで多岐にわたる。

またフィンセント・ファン・ゴッホもまた、時期によって作風に変化がある。浮世絵を取り入れた作品もあれば、暗い色調から明るい色調、そしてよく知られる渦巻くタッチなど様々だ。

これだけ多彩な絵が描けること自体、才能に溢れているというのは確かにそうだろう。しかし彼らの人生とも照らし合わせると、表現したいものを探す、苦悩とも言える旅があるように思えた。

ゴッホはよく知られる通り、精神に異常をきたして自殺している。ピカソは海水浴場を描いた作品で、何度も書き直しを経て、全く違う絵になったと聞いたことがある。

彼らに共通するのは、類稀なる才能を持ちながら、その表現に苦悩し、模索を続けたことだと思う。むしろ彼らは「努力家」と言うべきではないか、と感じたのだった。

一方で「天才」と感じるような画家の作品を見たことで、ゴッホやピカソが「努力家」だと思った部分もある。

それはアンリ・ルソーの絵画を見た時である。税関の職員をしながら作品を作り、”素朴派”と言われる画風はあまりに独特である。

不思議な遠近法に、独特な顔つきの人物。”写実的”とはおよそ対極の不思議な絵画であるが、その作品群から放たれるパワーは、ゴッホやピカソのそれ以上ではないか、と筆者は思う。

またパウル・クレーという画家も「天才」ではないか、と思った。ルソーとは異なり、裕福な家庭で育ったクレーは美術学校にも入って教育を受けているが、その作風は独特である。

ゴッホやピカソのように作風が変遷するのだが、彼らの変遷とはやや趣が違うように思える。クレーの場合は、いつも”クレー節”とも言える個性が、はっきりと表れている。

表面的な描き方の違いを超越してやってくるクレーの個性は、どの作品を見ても強烈なのだ。

彼らの絵を見ていると、生まれ持った表現の軸のようなものが強固であるのを感じた。それこそが芸術家として「天才」なのではなかろうか、と思ったのである。

こうしてみると、「努力家」タイプの画家の方が、絵画に詳しくない層にも人気になりやすいことが多いように感じる。

それはもしかすると、画家の人となりが、作品に投影されることが多く、感情移入しやすいからかもしれない。

一方で「天才」タイプは、あまりにその個性が飛びぬけているがゆえ、絵画の勘所を掴んでいる玄人に受けやすいのかもしれない、などと思う。

人間椅子の和嶋慎治・鈴木研一は「天才」「努力家」どちらのタイプか?

ここまで長い前置きだったが、いよいよ本題である。人間椅子の和嶋慎治・鈴木研一は、「天才」「努力家」のいずれに当てはまるだろうか。

最初に結論を述べた通りだが、鈴木氏が「天才」、和嶋氏は「努力家」だと筆者は考えている。

表現を模索し、軸が見つかった「努力家」タイプの和嶋慎治

まず和嶋氏については、表現そのものについて、ずっと模索してきた歴史がある。中学〜高校時代の作曲を始めた当初は、フォークや歌謡曲調の楽曲を作っていた。

それがUFOのアブダクション体験により、作風が大きく変わり、「鉄格子黙示録」が出来上がった。

ただ人間椅子初期の楽曲を見ると、和嶋氏の楽曲は「神経症I LOVE YOU」や「わたしのややこ」など、歌謡曲を取り入れたり軽快だったりと、ダークな作風ばかりではない。

バンドだけでなく私生活でも様々な経験をした和嶋氏の楽曲は、時に闇を心に抱え、時に明るい方を見ようとポップなものに変容し、模索の連続だった。

こうした表現の軸を探しながら、制作を続けるタイプを「努力家」ではないか、と思っている。

そして2010年前後から、和嶋氏は表現する上での(人生においても)軸を自ら見つけることができた。そうしてできた楽曲は、人間椅子らしいヘビーさを持ちながらポジティブな力を持つ楽曲となった。

深淵」「なまはげ」「異端者の悲しみ」など、自らの軸にもとづく楽曲を様々に試し、徐々に型ができていった。

その成果が結実したのが、2019年の「無情のスキャット」だったように思う。

YouTubeに公開されたMVは再生回数1,000万回を大きく超え、国内外に人間椅子のファンを大いに拡大させた楽曲である。

「無情のスキャット」がここまで”バズった”背景は、こちらの記事に書いた通り、これまでの模索がすべて結実した楽曲になっているからではないか、というのが筆者の考察である。

鈴木氏の楽曲より和嶋氏の楽曲が目立って、売れる要因になっていることも、「努力家」タイプの方が一般層にも受け入れられやすい、という筆者の考えと一致している。

以上のような歴史が、和嶋氏は表現を模索しながら、自らの軸を見つけ、努力を続けてきた「努力家」タイプではないか、と考える理由である。

※和嶋氏の歌詞の変化を追った記事はこちら

処女作から一貫して変わらない「天才」タイプの鈴木研一

一方で鈴木氏は、デビュー前から今日に至るまで、全くと言って良いほど、表現の軸がブレていない。

その証拠に、鈴木氏の処女作は「りんごの泪」のメインリフを含んだ楽曲(「デーモン」)であった。

そして中間部は、後に「マンドラゴラの花」に使われたというから、表現を始めた時から人間椅子としての楽曲を作っていたのである。

作曲のベースには、鈴木氏が聴いてきた70~80年代のハードロックがあり、そこに彼の子ども時代から口ずさんだ童謡や民謡のようなメロディと土着的なリズムがある。

さらにはブリティッシュハードロックのヘビーさに、日本独特のおどろおどろしさや地獄の世界観をブレンドした曲調も、終始一貫している。

歴代の楽曲を見れば、「どだればち」「死神の饗宴」「冥土喫茶」「芳一受難」など、どれをとっても鈴木節が一貫しており、全くブレていないのが分かるだろう。

さらには「〇〇シリーズ」と題して、同じテーマの楽曲群が存在するのも鈴木氏ならではである。そのテーマは「地獄」「宇宙」「パチンコ」など、これも鈴木氏が好きなものであり一貫している。

※鈴木氏による「〇〇シリーズ」の楽曲をまとめた記事はこちら

鈴木氏は作曲の期間にコツコツと楽曲を作る辺りが「努力家」の要素もあるが、それは真面目な性格ゆえと言ったところだろう。

表現の軸がデビュー前から今日に至るまで、全くブレていないことが「天才」タイプである理由なのである。

まとめ – 和嶋慎治・鈴木研一という2人のバランス

今回は、筆者の考える芸術家の「天才」「努力家」という2つのタイプについて、和嶋慎治・鈴木研一の2人はどちらに当てはまるのか、ということを書いてみた。

和嶋氏が「努力家」、鈴木氏が「天才」ではないか、というのが筆者の持論である。意外に思われたか、それともその通りだと感じたか、どちらだっただろうか。

いずれにしても、この2タイプの2人がバンドで楽曲を作っているところが、人間椅子の面白さであり、バランスが保たれているところではないか、と思う。

鈴木氏の変わらなさは安心感であり、人間椅子の土台になっている。それがあって、和嶋氏は自由に表現の旅を行き来することができたように思う。

和嶋氏は人間椅子を外に広げ、鈴木氏は人間椅子の中を守ってきた、とも言えるだろう。

このバランスが保たれたのも、鈴木氏は創作を始めた最初から、自らが表現する軸が定まっていた「天才」タイプだからできたのではないか、と思う。

そして和嶋氏が苦悩しながらも、表現の模索を続けていく「努力家」の過程こそ、人間椅子の変化の歴史でもあり、ファンを惹きつけてきたのだろう。

新規のファンの人にとっては、常に新しいものを作り続ける和嶋氏の楽曲の新鮮さに、最初心惹かれることが多いように思う。

一方でファンになって深く掘り下げて聴いた人は、鈴木氏の安定感やセンスにどんどん魅了されていくのである。

「天才」「努力家」の両タイプが存在するバンドは、ファンを飽きさせることなく、そしてバンド活動自体も長く続いていくのではないか、とも言えるだろう。

和嶋・鈴木両氏の芸術家としてのタイプを考えてみることで、また人間椅子の魅力を感じることができるかもしれない。

2023年は新作リリースも予定されており、2人のバランスに今回も注目したい。

アートなジャケットのおすすめアルバム

人間椅子 – 頽廃芸術展(1998)

ジャケットは八戸市出身の画家、坂本智史氏による絵画

eastern youth – 旅路ニ季節ガ燃エ落チル(1998)

佐伯祐三による『立てる自画像』をジャケットに起用

Opus Avantra – Introspezione(1974)

イタリアらしい芸術性の高い名作

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