【元伊勢巡拝シリーズ②】太神宮社・吉志部神社、参拝してみた【番外になるのかしら】 | 週刊じんぎかん〜神祇伯の神社放浪記〜

週刊じんぎかん〜神祇伯の神社放浪記〜

ただの神社好きが参拝した神社の感想なんかを感情の赴くままに書いてます。あと長文です。
一応毎週日曜に更新しますがたまに長らく投稿しない時があります。なので「あ、更新してるわ見てやるか」な軽ーい気分で読んでください。
どうぞよろしくお願いします。

テーマ:

おはようございます、わたしです。


2月になりましたね…この月は11日には紀元祭


17日には祈年祭、24日には天皇誕生日が移ってきて天長祭もあって、


神社としては祭典の多い月になってますね。



場合によっては祈年祭と同様に予祝行事として特殊神事を行なっている神社もあるかもしれません。


そんな感じで神社巡拝人には目白押しな月なのに…



なんでこんなときに来てんだよ寒波…雪の結晶雪の結晶雪の結晶雪の結晶雪の結晶雪の結晶ムカムカムカムカムカムカムカムカムカムカムカムカ


おのれ許すまじ冬将軍(超冤罪)


本来ならそんな特殊神事を出したいところですがこの寒波ではどこにも行けてないので、


ふつーに前回の続きで神社を紹介していきたいと思います。


それではレッツラゴー(元ネタ知らね)



  ​郷社 吉志部神社


神社鎮座地:吹田市岸辺北


神社御祭神:天照大御神他7座


神社旧社格:村社(明治)


神社御朱印:ありキラキラ


ということで大阪の吹田市にある吉志部神社です。


創建は古すぎて残っていないため不詳だそうですが、


少なくとも平安時代にはあったとされています。






玉砂利埋め込み式のコンクリートのそばにある手水舎には、


龍でも亀でもなく、ライオンがいます。


この出立ち、この鬣、どう考えてもライオンです。


ここにもライオンズマンションの影響が…知らんけど




この神社に由来のある一族として安部難波吉志一族という豪族が挙げられます。


この難波吉志一族朝鮮半島から来た百済系の渡来人とされています。


この吹田市を含む地域は百済や新羅の地名が元々あったところが多いらしく、


海を越えてやってきた渡来人たちが住んでいたようです。


その人たちとの外交を担当していたのが吉志一族で、


書物によっては「吉志」というのは外交担当の一族に与えられた氏姓であるとも書かれているそうです。


その産土神として守護していたのが当社です。



手水舎は二つあり、写真の左側のように奥には鎮座している紫金山公園へ抜けられます。


紫金山公園はこの吉志部神社の鎮守の杜として維持されてきた土地で、


現在は遊具のある広場と裏に博物館があります。


由緒書きによれば明治の神仏分離以降現社名になるまでは「太神宮社」と名乗っており、


第10代崇神天皇さまの御代に「大和の瑞籬」から奉遷したとあります。


この「瑞籬」が崇神天皇さまの営んでいた磯城瑞籬宮であるとされ、


かなり古い、というかめちゃくちゃ古いです。


この崇神天皇さまの御代は疫病など国内がかなり荒れていた時代で、


天照大神(八咫鏡)さまと日本大国魂神さまの遷座、


大神神社の創建が行われています。


天照大神(八咫鏡)さまは豊鍬入姫命さまに託され笠縫邑に遷座した時期であり、


その際に当社にも遷座したということで、


wikipediaなどには「元伊勢」のページに加えられています。


ただ、元伊勢の考証に挙げられる『皇太神宮儀式帳』などには名前が見られず、


この由緒も初出は明らかになっていません。


時期的には檜原神社などが論社となる第一期笠縫邑と、


小夫天神社や笠山荒神が論社の第二期笠縫邑の間の期間ではないかと言われています。


しかし、笠縫邑間での遷座に摂津に移動するのは些か遠すぎるので、


分霊の可能性があります。なぜここなのかが気になるところですね。




拝殿や獅子狛犬像は最近建てられたように綺麗です。


それもそのはずで、2008年に放火に遭い本殿などの建物は焼失しています。


本殿は特に吹田市の最古の建造物として国の重要文化財にも指定されていた貴重な建物でしたが、


消失によって指定は解除となりました。


しかも犯人捕まっていません。


許すまじ。冬将軍共々バチ当たれ(とばっちり)







合祀社には愛宕神社、大国主神社、金刀比羅神社、天水分神社があります。


火伏せの愛宕さんがいながらこの災害とはなんたることか…



本殿は珍しい七間社流造とかなり大きな建築様式で、


ここに天照大神以下、豊受大神、八幡大神、素戔嗚大神、稲荷大神、春日大神、住吉大神、蛭子大神の


名だたる神様を合計8柱祀ります。


本来は豊受大神さまを除いた七柱を祀り「七社明神」と呼ばれていたようで、この柱数に合わせた建物だったようです。


今でこそラッキーセブン、そして神仏関連だと「七福神」が有名なように、


日本だけに限らず世界的に「7」の数字は縁起が良い数字として認識されています。


仏教においても四十九日内の7回の法要、そして「七宝」として大事な数として扱われており、


神社でも七福神以外で七柱の神様で構成された神社がよく見られます。


当社も神仏分離まではその数に合わせられたのかもしれません。


今は重厚な覆屋の中にあるため、本殿を直に見ることはできません。


2011年に超速で再建されていますが、その希少性は失われてしまったのが本当に残念でなりませんね…



境内東側にはこちらの「吉志部瓦窯跡」があります。


正式名称は「吹田34号須恵器窯跡」といい、ここから「緑釉軒瓦」や「緑釉陶器」が発掘されています。


この「緑釉陶器」は釉薬というガラス製の物質を陶磁器の表面にかけて水止めをして焼き締めるという、


平安時代の初期須恵器の基本的な構造で作られたものです。


釉薬は上薬(うわぐすり)ともいうのでこちらの方が聞き馴染みがあるかもしれません。


須恵器は古墳時代〜奈良時代に朝鮮半島から伝わってきた技術で作られたものであるので、


この地域が渡来系民族が住んでいたことを考慮すると、


伝来してきてここで作られていたことにも納得がいくものです。





さて、上述した通り、天照大神さまが大和瑞籬宮から当社に奉遷して創建され、


その守護は渡来系民族を出自としている吉志一族(吉志部)がになってきました。


ということは渡来人たちが天皇の皇祖神を崇敬していたということにも解釈できるのですが、


実際はどうなのでしょうか。


実はこの土地が天照大神さまが鎮座する由来として関連する神社が近隣にあります。


それがこの大神木神社です。


  大神木神社 


神社鎮座地:吹田市山田市場


神社御祭神:豊受大神


神社旧社格:なし


神社御朱印:不明(おそらくなし)


吉志部神社の北東1kmほど高架の下にひっそりと鎮座しています。





現在の由緒書きはかなり汚れてしまいってもうほとんど読めなくなっていますが、


wikiにはその全文が載っていますのでそちらを参照してください。


それによれば、雄略天皇さまの御代に天照大神さまが神託で丹波の豊受大神さまを呼び寄せるよう伝え、


丹波から伊勢に向かうまでの道中に1年ほど仮宮を建て静まっていたのがこの大神木神社であるとされています。


吉志部神社は崇神天皇さまの御代にこの地に遷座した後に再遷座したという記録はありません。


つまりは、この吹田市において内宮と外宮が揃って鎮座していた時期がある、


なんなら今揃っていることを示しています。


ただし、こちらへの遷座は『止由気大神宮儀式帳』にも『豊受皇太神御鎮座伝記』にも書かれておらず、


その由来はあくまでも地元の郷土史を出自とします。


また、鎮座地の地名である「山田」も現在の外宮鎮座地ある「宇治山田」に関連がある、またはこの地が大元であるという説もあるようです。


そして同じく近隣にある伊射奈岐神社は2座あるうちの片方は「姫宮」と呼ばれ、


その創建時期が大神木神社、ひいては天照大神さまのお告げがあった雄略天皇さまの御代に近いため、


この姫宮が本来の外宮の仮宮であるという説もあるようです。




かつてはその社名にもあるように依代とされていた御神木があったようですが、



郷土史によればこれまた近隣の高濱神社の鎮守の杜にたくさんあった松の大木が、大阪城築城の際に材木として切られてしまったとあり、


当社の御神木もその際に切られて木材にされてしまったと考えられています。


大阪城陥落がその祟りでないといいですがね…


​あ と が き 


ということでいかがだったでしょうか。


今回元伊勢を巡る旅の道中に、一応カウントする形で参拝をしてきました。


参拝時間が17時前だったため神主さんも既にお帰りになっており詳細を伺うことはできませんでしたので、


また後日参拝してみたときに、その辺の見解を神主さん側から聞いてみたいところですね。


というところで、普段より短いかもですがこちらで筆を置きたいと思います。


それではまた次回くるくるバイバイ


下矢印良ければクリックお願いします

神社・お寺巡りランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ