この記事のポイント!

三木城は支城ネットワークを最大限に活用し、秀吉方を窮地に追い込んだ
・秀吉は三木城単独撃破から遠巻きに囲む長期戦および支城の個別撃破に打って出る
・野口城は沼地を利用し、教信寺とともに抵抗するも落城

野口城の戦い:教信寺との共闘

秀吉方はまず最初に比較的小規模な野口城を攻めた。野口城の城主は長井政重。長井氏は元は大江広元を祖とする大江氏の出身という。
「一文字に三つ星」の家紋は有名で、安芸広島の毛利家も同様の家紋である(実際は、諸家で微妙な違いがあるが)

野口には、平安期に教信が立てた天台宗の寺社「教信寺」があり、室町・戦国期には大伽藍が並ぶ大きな寺院となりっていた。僧兵も抱えており、秀吉が攻めてきた際には、野口城主長井氏と共に戦った。

野口城は80メートルx40メートルほどの城域があり、周囲を沼地で囲まれた要害であったという。長井政重は「城主、長井邦時(政重)は黒糸威しの鎧にかちん(濃い紺色)のひたたれ頭形の兜を猪首に着なし、赤胴作りの刀帯びて、黒くたくましき馬に・・・・」と播州太平記に描かれるいで立ちで僅か200~300の兵で10倍近い秀吉勢に斬ってかかり、100余名を討ち取り、秀吉勢を一時は退けるほどの戦いを見せた。しかし、衆寡敵せず、周囲の沼地や堀を埋め立てた秀吉勢の猛攻を受け、降伏・落城した。(その後、長井氏は戦いで討死したとも、秀吉勢に加わったとも・・・・)

御城印・武将印

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史跡名場所概要
野口城兵庫県加古川市長井氏の居城と伝わる城。三木合戦の折りに落城。
教信寺兵庫県加古川市教信が建てた、平安期から続く天台宗の寺院。
長井家墓所兵庫県加古川市 野口城付近にある長井家の墓所。
長井家も諸家あり、この墓所が野口城主の家系かは不明。

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