この記事の内容は、様々な資料をもとに書かれています。

 

内容の中には一部ないしは全体を通して、資料に基づく偏見や誤りがある可能性があります。また、筆者自身による偏見や誤りがある可能性も当然否定できません。

 

できる限り公平かつ事実に基づいて記事を書きたいと考えていますが、この点を踏まえていただけましたら幸いです。

 

今回のテーマはヨハン・ホイジンガの『明日の陰の中で』についてです。

 

 

 

 

はじめに

 

 『ホモ・ルーデンス』の著者として知られるヨハン・ホイジンガは1935年に「明日の陰の中で」というエッセイを書いています。

 

 ホイジンガは序文に12世紀のフランスの神学者ベルナール・ド・クレルヴォーの次のような言葉を引用して、現代社会の気分を表現しました。

 

この世には夜がある。

しかも、少なからざる夜が。

 

 現代社会は第二次世界大戦の頃も、ベトナム戦争の頃も、湾岸戦争の頃も、イラク戦争の頃も、そしてコロナ・パンデミックの今も、絶えず変わらず狂気に取りつかれているかのようです。

 

 ホイジンガの『明日の陰の中で』はこのような現代の問題を考える上で小さくない示唆を与えてくれるような気がします。

 

憑かれた世界

 

 私たちは憑かれた世界に生きている。そして私たちはそれを知っている。ある日突然妄想が起こって、狂気の沙汰となり、このあわれなヨーロッパ人を転倒させ、愚鈍かつ錯乱の状態に陥らせたとしても、意外に思う人はいないだろう。――まだエンジンはぶんぶん鳴り、旗はたなびいているが、精神はうつろになっている。

 

 今は、ヨーロッパのみならず、全世界が狂気の沙汰となり、複雑化した機械とプログラムされた人工的な知性が私たちを支配し、そして同時に私たちは彼らの旗印に、あるいはまた私たちが失った旗印を求めて、衰弱した精神、幼稚な精神、精神病質な精神とに彩られてしまっているといっても決して言い過ぎではないだろう。

 

 ホイジンガはまた、次のようなアンチテーゼを突きつける。

 

 この世の安寧と文化を保持し完成することに尽力するという課題を、かくも有無も言わさずに人間が意識させられた時代は、かつて一度もなかった

 

 コロナ・パンデミックがメインストリーム・メディアが言うようなものなのか、あるいはメインストリーム・メディアが陰謀論と片づけているような意図的に作り出されたインフォデミック、あるいはプランデミックなのかはさて置き、人々は彼らの正義に従い、己の正義に従っている。これをホイジンガ流に

 

 いつでも勇気と全人格を公共の安寧に捧げるために、これほど進んで活動し敢行したことは決してなかった。人間はまだ希望を失っていない。

 

と見なすべきなのかどうかは私には分からないが、いずれにせよ、私たちは私たち自身で再び、決して他人に、メインストリーム・メディアに、精神を委ねずにこの課題と向き合うべきだろう。

 

 人類の文化的な危機に対して、例えばシュペングラーの『西洋の没落』の警鐘が正しくそれを投影しているのかどうか分からないが、ヨーロッパでは長くハッキリと悲観的な観測を露わにして久しいもののように感じられる。

 

悪の陰謀と奴隷道徳

 

 ヨハン・ホイジンガは次のようなことを指摘する。

 

 世界の終末や最後の審判への予感と並んで、現世的恐怖の生ずる余地が存在する限り、没落感が、朦朧とした不安の解決の状態の中に存在し続けるのである。そういう不安は、一部は、この世の不幸を有力者のせいだと思いこんで、彼らに対する憎しみとして爆発した。この有力者というのは、それぞれの時代の特殊な傾向に従って、たとえば、一般に悪人、異端者、悪魔や魔法使い、金持ち、王の側近、貴族、イエズス会教会員、フリーメイソン秘密結社員、などと見なされた。このような判断の粗雑で低俗な基準が現在においても蔓延し、多くの人々の間で、この種の奸悪に仕組まれた悪の力の幻像を、再び異常なまでに生き生きとさせているのである。今なお、しばしば、教養ある人でさえ、最も低俗で非人間的俗衆においてなら許されるかもしれないような、判断の邪悪に陥っているのである。

 

 『明日の陰の中で』におけるホイジンガのスタンスは、現在、メインストリーム・メディアの言論において言われるところの陰謀論について手厳しい。私はこのホイジンガの指摘について必ずしも正しいとは思わない。しかし、一方で「悪人、異端者、悪魔、魔法使い、金持ち、王の側近、貴族、イエズス会教会員、フリーメイソン秘密結社員」を見つけ出したところで、ニーチェ流にわざわざいう必要もないが、善悪二元論の中から芽生える奴隷道徳のそれであると指摘しても、一面的には間違いではないだろう。キリスト教的なルサンチマンであるというともちろん批判されるところだろうと思うが、善に従う自己、あるいは己の快適な精神状態に逃げ込んでいるという指摘も十分に可能だろう。

 

 

深淵に進み出て

 

 ホイジンガは、過去の過ぎ去った栄光の時代を見損なったり、軽蔑したりすることなく、一方で決してそういった過去の優れた時代に逆行はあり得ないという。

 

たとえ次の未来が霧に充たされた深淵のように大きな口をあけていようとも、あるのはただ前進なのである。

 

 この表現は、ニーチェの『善悪の彼岸』に見られる「怪物と戦うものは、戦いながら自ら怪物にならぬように用心したほうがいい。あなたが長く深淵を覗いていると、深淵もまたあなたを覗き込む。」という表現を受けてのものだろうと思われる。

 

 歴史学者のホイジンガは更に続けて次のように指摘する。

 

人類は事故の道を探さねばならないのである。前進すること自体においてさらに先へ先へと進もうとする衝動は、古いもののすべてを軽蔑して、あくまでも新しいもののすべてを得ようとする空虚な、落ち着きのない渇望のあせりに陥るという極端な状態に至る可能性がある。このように、軽率な人々は考えるが、強い精神の人間は、前進するためには、過去の諸価値の重荷を恐れはしないのである。

 

 如何にも歴史学者らしい結論と言えるかもしれないが、しかし一方で、私たちの状態といえば、次のような表現通りか、それよりも更に進んだものである可能性がある。

 

私たちはもっとよく知っている。愚かさ、腹立たしい馬鹿げた愚かさ、悪意の有害な愚かさなど、あらゆる形態の愚かさが、世界中で、今日ほどに、乱痴気騒ぎで祝われたことは決してなかった、ということを、今日、愚かさは、もはや、エラスムスのような志操高潔で真剣に憂うる人文主義者の、精神豊かなほほえましい書物のテーマではないのである。私たちは、現代のこの果てしない愚かさを、社会の病として観察し、その症状を明白にし、まじめに、客観的に、災いの性格を規定すべく努めなければならない。

 

 ホイジンガはそこに悪意を見なかった。愚かさと見なした。もしかするとそれは、陰謀家たちの陰謀に悪意をみる、一種のルサンチマンの対象のその悪意を、ホイジンガは愚かさの一種と見なしたのかもしれない。彼らの高度な知的活動も、悪魔主義も、それに対するルサンチマンと同様に愚かさや、あるいは狂気や錯乱の一種と見なしていたのかもしれない。

 

文明の特異点

 

 第二次世界大戦以前に、今日議論されているようなことが、ホイジンガによってことごとく指摘されている。その一つが出生の抑制である。

 

私たちは芽を押しつぶすために、科学を使用する、ということになる。人工的手段にうよる出産防止が、社会の健康と幸福の維持を意味することができる。私たちが文化にとって本質的なものとして規定した、自然の制御という概念は、ここでは、厳密には、すでにもはや通用しない。これは、制御ではなく、自然を打ち破ることであり、潜在的な破壊である。この目的のための科学の使用が濫用になる限界点は産児制限の道徳的判断にかかっているが、この道徳的判断は、周知のように非常に大きく宗教的立場に支配されるのである。

 

 今や人類は自然との調和という段階を超えて、自然を超越し、破壊する段階に入っている。それは今に始まったことではなく、数千年という長い歳月をかけて徐々にその度合いを加速させていき、現代社会では目に見える形でその加速の度合いが、シンギュラリティを超える予感をまざまざと感じさせているということなのだろう。その一つの具体的な問題として、出生防止あるいは人口抑制、人工削減という概念が生まれてきた。これがコロナ・パンデミックの背後にあるというのは、陰謀論が正しかろうと、正しくなかろうと、文明的段階としてそのような段階にあるということなのかもしれない。

 

まとめ

 

 今回は『明日の陰の中で』について部分的に紹介しましたが、ホイジンガは結論として次の一文でこの書を締めます。

 

この若い世代の課題は、この世界を統治されるべきであるように再び統治すること、この世界をその不遜や欺瞞の中で没落させてはならないこと、この世界を再び精神によってくまなく浸透させることである。

 

 つまり、私たちは「精神」を取り戻すべきであるというのがホイジンガの主張です。この精神の在り方についてホイジンガは「英雄主義」と「幼稚性」についての秀逸な言及をしています。

 

 今回はヨハン・ホイジンガがコロナ・パンデミックなるものを考える上で一つの観点を提示していたような気がしたので紹介しました。一部分しか紹介できませんでしたが、もし関心がある方は調べてみてください。思いのほか現在の状況と重なりますので、読みごたえは十分にあると思います。

 

さいごの一言

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました。ご感想などありましたら、気軽にコメントください。