【修行者列伝〈ミャンマーで出逢った修行者たち〉#52】コメディアンになった修行者

2023年1月6日金曜日

修行者列伝

t f B! P L





M氏 エストニア人 40代 男性


       エストニアの首都タリン

バルト海沿岸の国、エストニア出身のM氏がマインドフルネス瞑想のS瞑想センターまでやってきたのが2014年の暮れ。この時点で彼は、既にタイにおいて5年ほどの修行歴があった。


そのM氏のトレードマークと言えば顎髭なのだが、わりと不精な性格らしく、頭は剃ってサッパリしているものの、顎髭は伸ばし放題でかなりむさ苦しくなっていた。そしてちょうど時期がクリスマスと重なったため、みんなからサンタクロースと呼ばれていた。


「みんな祝ってくれてありがとう。今日は俺の誕生日なんだ」


しかし何と!M氏の誕生日はクリスマスイブだと言うではないか!実は彼はクリスマスにはプレゼントを贈る側ではなく、贈られる側の人間だった訳だ。


       M氏のトレードマークは顎髭
 

M氏はこのシリーズ第37話に登場する、オーストラリア人のP氏と入れ替わるようにして宿舎に入ってきた。P氏が瞑想センターから出る時、コーヒーをたくさん置いていったため、いつしかM氏と私は食後は二人でコーヒーを飲みながら、10分ぐらい瞑想談議に花を咲かせるようになっていた。


また瞑想センターは通常、食事は一日2回、朝食と夕食だけなのだが、夕方はジュースが出る。このジュースタイムもM氏と私は、昼食後の話の続きをするようになっていた。つまりM氏と私は言わば、瞑想センターでの茶飲み友達だったのだ。



M氏は言葉の達人で、母国語のエストニア語はもちろん、ロシア語と英語もネイティブ並に話す。また、エストニアはドイツの影響が強いという事で、ドイツ語もそこそこ話す。更に学生時代に勉強したという事でフランス語もまあまあ話せるし、ビジネスで必要だったという事でフィンランド語もある程度は話せる。そしてタイで出家して数年間修行していたという事でタイ語も上手い。


だが、M氏の本当に凄いところは語学力ではなかった。語学力もさる事ながら、実は彼は頭に浮かんだイメージなら何でも具体的な言葉にしてしまう、卓越した表現力の持ち主だったのだ。彼はエストニアでは様々な企業から委託されて商品の広告を作成したり、本のタイトルや記事の見出しを作成したりする、フリーのコピーライターなのだという。


そしてそのM氏がどうして瞑想を始めたかと言うと、その理由が面白い。


「俺は仕事柄いつも言葉をどう使うかアレコレ考えているんだけど、言葉ってつくづく不思議なものだと思ってさ。イメージって具体的に言葉にするのって大変でしょ?それが上手くいった時なんか本当に気持ちいいんだ。どうしてなのかね?その言葉の不思議さから言葉とは何なのか考えるようになって、その問題の解決のために瞑想を始めたってとこかな」


おお深い!何と!M氏は言語を道具として用いる職業柄、言語というものについての理解を深めるために自己の内部の探求に入ったのだと言う。


ここで言うM氏の求めている理解とは、言語について発音がどうの文法がどうのという表面的な理解ではなく、もっと深い部分での人間と言語の繋がりを構造的に理解しようという意味になる!これはフェルディナン・ド・ソシュールの構造言語学とも共通する言語へのアプローチの仕方ではないか!


言葉は人間とは別に存在する何かを言い当てるものではない。 何らかの実体の存在が言葉の違いを根拠付けしているのではない。 言葉によって世界は分節され(別けられ)認知される。 言葉が指し示す実体は個物も含めて存在する必要はない。

             ソシュール


などと知ったかぶりをしてみたが、実際には私はソシュールの事など何も知らない。あまり言うとボロが出るのでこの辺で止めておこう。


我流のマインドフルネス瞑想


「実は俺、マインドフルネス瞑想を知る前から、自分で同じ方法を編み出して実践してたんだよ」


話は飛んでしまったが、そんな言語とは何か?を追求する修行者のM氏は、実はマインドフルネス瞑想は、誰かに教わっておぼえたのではなく、瞑想センターに来る何年も前から既に自分で発明して実践していたのだという。何ともぶっ飛んだ話でにわかには信じ難いが、マインドフルネス瞑想を自分で発明するなんて、果たしてそんな事が素人に可能なのか?


「イメージを具体的に言葉にするって大変な事でさ、これは気づきがなければできない話なんだよ。自分が宣伝しようとしている商品を見てどう感じているか?何をしたくなったか?とか、そういう様々な思いが集まって一つのイメージを形成している訳だけど、その思いに一つずつ気づいていって、自分の感情やら欲求やらを自覚していくんだ」



「あとは自分に正直にならないといけない。気づくって事は心の中で何が起こっているのか、楽しいのか悲しいのかを自分の胸に聞く事なんだ。言葉を捻り出すってそういう地道な作業なんだよ。そうでもしなければ具体的にイメージを言葉になんかできないんだ」


なるほど、そうやって自分の心理状態に気づくようにしているうちに、気づきが習慣化され、身についていったという訳か。しかし自然にマインドフルな生活をおくるようになったなんて、M氏は天才なのか?


「そういう事をしていると、だんだん仕事以外にも気づきが使える事が判ってきた。怒ったり苛立ったりしてる時、その感情に気づいて、具体的に言葉にできるぐらいにまで観察していくと、その感情が消えていく事が判ったんだ。また自分が何に怒っているのか、例えば誰かに批判された言葉の、どの部分で怒っているのかまで深く突き詰めていって、なぜ怒ったのかが言葉で言い表わせるところまで理解できると、もう同じ事を言われても腹が立たない事も判った。これだけで仕事も人間関係も楽にこなせるようになったんだ。本当に言葉って何なのかね?」


凄いのはM氏はこういう探求を全て仕事中にやっていたという事だ。そして自分で仕事や人間関係のストレスを軽減するまで方法を見つけたという。こんなのは普通は瞑想センターで指導者に指導されながら、何か月もかかってておぼえていくものなのだが。やはり彼は只者ではない。


「いや、俺だって別に直ぐできた訳じゃないよ。ずっと広告の仕事をしながら10年ぐらいかかって判った事でさ。本当にいつの間にかそういう事をやってたって感じで自然におぼえたね」


10年ぐらいかけて磨いていったって、それはやはり素晴らしい話ではないか。その執念やら気合いやらは一体どこから来たのか?もしかしたらビジネスに対する入れ込みようだったのか?それとも何かの苦しみから逃れたい一心だったのか?


「いやいや、だから自分のイメージを言語化したり、思っている事や感じている事に気づいていると、凄く気持ちいいんだよ。言語化ってスッキリして楽しい作業なんだ。でも思っている事に気づけないとどうも気分がモヤモヤしてさ。それで気づきを止められなくなったんだ」


つまり病みつきになったという事か!自分の混沌とした心の中を明確にしていく作業に!それって本当にマインドフルネス瞑想の修行者の目指すべき姿勢ではないのか!?それを全部我流でやっていたなんて本当に信じられない!やはりM氏は天才だったんだ!



言葉は存在しないものも言い表す


では自分でマインドフルネス瞑想を開発し、自力でそこまで修行を進めていたM氏が、どうして他人に教わろうと思ったのか?そこまで我流でやったら全部我流でやればいいのに、なぜ我流を捨ててしまったのか?その辺りの事情はどうだったのだろう?


「いや、やっぱりね、我流でやっているうちに、疑問が少なからずや湧いてきた訳だよ。言葉って存在するものを言い表すだけじゃなく、存在しないものの事まで言い表すでしょ?」


そうそう、前述のソシュールが何と言ったかは判らないが、よく言われるのが国家とか法律とか実際には存在しないものを言い表すと、いかにも実在しているもののように聞こえるという奴だ。


つまりなんて実際にはどこにもなく、ただ地面や山や川があるだけなのに「ここからここまでは俺のもの」「じゃあ、ここからここまでは俺のものだ」などと自然のものに勝手にラインを引いて私物化し、実際には存在しないものを存在させてしまう。


アンデルセンの裸の王様の新しい服のように、実際にはどこにもないものを、みんなで存在していると思い込む事で、ある事にしてしまっている訳だ。こういうのは社会のルールでも価値観でも何でもそうだ。みんなで思い込みを共有しているだけの共同幻想にすぎない。つまりM氏の言いたい事はそういう事になる。



「そうそう、あとは仏教的には『自分』とか『他人』とか『善悪』『優劣』とかいうのもそうでしょ?実際にはどこにもないものをある事にしている。まさに『裸の王様』(英語ではThe emperor's new clothes=王様の新しい服)と同じ心理を使ってるね」


よく言われるのは、人間は「私のもの」「あなたのもの」「偉い」「愚か」「美しい」「醜い」「成功」「失敗」「善玉」「悪玉」などといった実際には存在しない比較概念を創り上げ、自分で自分の首を締めているという事だ。これらは全て「私」という思いと比べて出てくる概念であり「私」とか「あなた」と分ける事がなければ出てくる事はない。つまり言葉さえなければ人間と人間を比べる事もないし、それで苦しむ事もないのだ。


しかしそうは言っても、人間は言葉がなければ生きていく事ができない。お互いのコミュニケーションがとれなくなり、ちゃんとしたルールのある文化的な生活はおくれなくなる。そうなったらもう動物みたいに野生で生きていくしかない。


というのは物事は言葉がなければ認識できないようになっているからだ。見るもの聞くもの何が何だか判らない。ただそこには自然の循環作用があるだけであなたも何もないという事になってしまう。だから知的生命体である人間は、物事を認識するために、言葉を生み出したのだ。


という事は言葉とは必要悪なのか?


「いやいや、別に悪い事じゃなくてさ、人間は人間らしく生きるために幻想を共有する事で現実の世界とは別に、バーチャルな世界を築き上げたのだと思う。ちゃんとあなたがあって私のものがあって、ルールがあって善悪があって、そしたら野生の生活よりもずっと安全で暮らしやすくなって、幸せいっぱいになったはずだよ」


「しかし世代を重ねるにつれて幻想を共有している事を見失い、バーチャルな世界の、実際には存在しない概念上だけのものを、実際に存在するもののように捉えるようになってしまったんじゃないかな?これが人間の失楽園物語だね」


            失楽園物語

「つまり、マズイのは思い込みを本気にしてしまっている事でしょ?だから思い込みから脱却して現実を知って、バーチャルの世界をバーチャルの世界として本気にせずに生きていけばいい訳だよ。そうするのが人間の本来の生き方なんだと思うよ」


なるほど。早い話が何をするにもお店屋さんごっことか会社ごっこみたいにマジにならずに遊び感覚でやるという話か?そう言えばSUTことウ・テジャニヤ長老も、ゲームをやる人は気づきやすいみたいな事を言っていたが、あれはそういう意味だったのかな?



何はともあれ、M氏はバーチャルの世界を超えて現実世界を知って、思い込みにハマらず遊び感覚で生きていくために修行の世界に入ってきた事が判った。


しかし仏教へのそういうアプローチのしかたは、マインドフルネス瞑想よりもむしろ禅だと思うのだが?たしか禅の最初の関門であるの公案とは、M氏の言う言葉の世界と一切言葉のない現実世界とを見分けるという課題だったはず。つまりとは言葉のない現実世界の意味で、言葉で言い表せないから仮にと呼んでいるらしい。


「いや、だから俺は禅の事なんて知らなかったんだよ。ただアメリカのマインドフルネス瞑想指導者のジャック・コーンフィールドの事を知って、話を聞いて、それで今まで自分がやってきた事と同じだと思って瞑想を始めたんだからさ」


ジャック・コーンフィールドの話(英語)

後列の中央がマハーシ長老、その向かって右隣がチャミ瞑想センター管長ウ・ジャナカ長老、前列右から2番目がジャック・コーンフィールド

なるほど。大体M氏のやりたい事は判った。では彼の言う、その一切の思い込みや概念のない現実世界とは一体どういう世界なのだろう?私には全く見当もつかないが、彼は判ってそれを探しているのだろうか?


精神エネルギー


「禅と言えば、日本には書く禅と言われるカリグラフィーがあるよね?俺、あれなら知っているんだが」


カリグラフィー?もしかしてそれは書道の事か?


「俺あれが好きなんだよ。書道って言うの?あれはモロに心理状態が出てくるでしょう?同じ字を書いても、苛立っている時と落ち着いている時とでは、全然違うものが出来てくる。荒々しい字になったり、伸び伸びおおらかな字になったり、勢いのない字になったり本当に心を映す鏡だよ」


何?書道というのは心理状態を表現するための手段だって?そんな話は初めて聞いたぞ。字を上手く書くための訓練だったんじゃないの?


「絵でも音楽でもいいけど、芸術というのは心理状態を表現する手段な訳でしょ?みんなアーティストたちの心理状態が露骨に出てくるもんね。それでみんなアーティストたちの研ぎ澄まされた心理状態というか、やる気満々の情熱の精神エネルギーを見て喜んでいるんじゃないかな?見ているというか感化されて。情熱のエネルギーって気持ちよくなるんだよ。いや、これは芸術だけじゃなくてスポーツでも何でもそうだと思う。やる気のない怠惰なエネルギーだと気持ち悪いから誰も見向きもしない」


精神エネルギー!?


「自分で仕事やってて判るけど、創作物って創意工夫を凝らせば凝らすほどウケるんだ。これってつまり人間って言葉のうわべじゃなく、実際にはもっと深いところの精神エネルギーで動かされてる証拠じゃないかな?スポーツでもそうでしょ?日頃鍛えまくった両者が勝利をかけてぶつかり合うんだ。絶対に負けられないという意地があるから凄い精神エネルギーを放出する。その精神エネルギーが信じられないようなプレーを生み出すんだ。だから見てて面白いのは実はプレーじゃなくて、そのやる気満々の充実した精神エネルギーの方なんだ」


「あれ?それってパラマッタの事じゃないか?」


「パラマッタ?何それ?」


「パラマッタを知らないのか?究極の現実(Ultimate Reality)の事だよ!」


「究極の現実?」


そうだ!M氏が常に見ようとしているものは、言葉の表面的な部分ではなく、その奥にあるものだったのだ。つまりそれがM氏が瞑想で探求しようとしている現実世界なのだろう。エネルギーの世界は仏教ではパラマッタと言う。この世界を体験するには集中力なり智慧なりを深めて、第三禅定や第四禅定といった深い禅定に入らなければならない。


ではM氏は、既に目指すものの見当はついている訳だ!あとはそれを体験するだけでバーチャルの世界を超えられるではないか!


M氏はマインドフルネス瞑想を自分で開発したばかりではなく、そのような言葉の奥に隠された精神エネルギーまでをも見抜いていたのだ。信じられないほどの鋭い感性の持ち主だ。そればかりではなく探求の方も鋭い。彼が只者ではないのはそれ故だ。


しかもM氏の言う事は全て自身の体験から来ているもので、本で読んだ知識の受け売りではないから判りやすくて説得力がある。全然仏教用語も心理学の専門用語も使わずにこれだけ瞑想体験を話すのだから、相当な表現力の持ち主だ。さすがプロだけある。これは本当に斬新な事だ。こういう言い方なら宗教的なものに抵抗のある人でも、瞑想をやってみようという気になるのではないか?


「いや、コピーライターってもう過去の話だよ。もう5年も仕事してないから、今帰っても仕事来るかな?アハハハ」


そういう訳で、M氏はS瞑想センターにひと月ほど滞在していたのだが、彼とコーヒーを飲みながら話していたのは、いつでもそのような内容の話ばかりだった。彼は本当に修行者には珍しく、ちっとも徳を積むとかカルマがどうの、輪廻がどうのなどという線香臭い話をする事はなかったのだ。


彼の言った事を全て書けば膨大な量になってしまうので、ここではスペースの都合で肝心な話だけダイジェストで書かせて貰った。簡単に要点だけまとめた訳だが、決して彼の言いたい事の主旨は外していないと思う。


その後M氏はタイに渡り、他の瞑想センターにしばらく滞在する。そしてまたミャンマーに来て、今度はサマタのPA瞑想センターに行ったり、その帰りにふと1週間だけS瞑想センターに立ち寄ったり、そしてまたタイへ戻ったりと、放浪の生活に入った。その姿は本当にパラマッタを見るために必死になっているようだった。そのため数年間は全く連絡がとれず、M氏の事も記憶から抹消されそうになっていた。そんな時だった。


コメディアンになったM氏


「俺コピーライターからコメディアンに転職したんだよ。今度見に来てくれない?」


それから6年後の2020年の暮れ、M氏から突然メッセージが届いたのだ。


コメディアンだって?


転職したなどと言うから一体何事かと思い、一緒に貼り付けられていたURLを開くと、何と!そこには!



SIY(Search Inside Yourself)という、グーグルで生まれたアメリカのマインドフルネス瞑想講座の案内が出てきた!そしてそれを見て驚いた!なぜならその中でM氏が講師として紹介されていたからだ!

SIYの案内はこちら


うわっ!M氏だ!髭も髪もきれいに整えられて、まるで別人みたいだ!


あの不精者のM氏のサッパリした姿には、本当に驚かざるを得なかったのだ。



でもこれのどこがコメディアンなんだ?


しかし疑問もあった。M氏はコメディアンになったと言っていたのに、これを読む限りは全然コメディアンではないからだ。この講座は個人で受講するだけでなく、企業でも社員に受講させたりする、能力を開発し、人材を育成するためのカリキュラムらしいが、一体どこにコメディアンが出てくるんだ?


「だからさ、俺、知人にアメリカでマインドフルネス瞑想講座の講師やらないかって誘われてさ、仕事がないからOKしたんだ。でも俺はタイやミャンマーの長老たちの事を知ってるから畏れ多くて瞑想の先生なんて名乗れないんだよ。それでいつも受講生を笑わせる事ばかり考えているから、コメディアンでいいやと思って」


何だ、そういう事か。でも知人って誰だ?タイかどこかでその講座の関係者と知り合ったのか?まあ、確かにM氏の話を聞いたら、そういう宗教色のない瞑想講座の講師として抜擢してもおかしくないな。


   受講生たちと一緒のM氏(サンフランシスコ)

ではM氏はあの後、放浪の修行に入った訳だが、肝心のパラマッタの方は体験する事ができたのだろうか?私が興味あるのはそちらの方なのだが、ちょっと聞いてみようか?


しかしコメディアンって言ってるぐらいではまだかな?パラマッタを体験したのなら自信たっぷりに瞑想指導者を名乗るはずだから。するとコメディアンと言ったのは彼の複雑な心境の表われか?いや、彼らしくわざとそう表現したのか?いずれにしてもそれなら野暮な事は聞かない方がいい。


ただ言える事は、M氏の混沌とした心の中をクリアにしていく作業への凄まじいまでの情熱は、周囲の人々を感動させずにはいられなかったという事だ。その情熱があったからこそ彼に教えて貰いたがる人々も出てきたのだろう。やはり人を動かすものはそんな言葉を超えた精神エネルギーであるに違いない。それをM氏は自身で証明してみせたのだ。



言葉の奥にある精神エネルギーを見抜き、自らそのエネルギーの働きを証明してみせたM氏。本当に何もかも自分で工夫を凝らして我流でやってのけてしまう人だ。だからこそ彼の言葉には説得力がある。


そしてそれを見た私も、なんだかやる気が出てきた。


という事はやはり精神エネルギーって伝わるものなんだな!


そんな感じで私の方も、M氏の言葉を実体験し、その正しさを実感する事ができたのだった。



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  最終更新日 2023.12.31

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