【ウ・テジャニヤ長老の名言第20集】

2024年3月1日金曜日

名言集

t f B! P L


マインドフルネス瞑想で無師独悟


マインドフルネス瞑想の利点は、何と言っても何時でも何処でも危険なくできる事です。更に今の時代はネットでいくらでも正しい情報が手に入るので、瞑想合宿に参加する時間がとれない人でも、指導者なしで自宅で一人でもできます。


Xのポストを見ていますと、そのやり方で洞察智まで達した人が、何人もいる事がわかります。まさに無師独悟と言ったところ。


また、自宅で一人で瞑想する分には服装も全然気にせずに済みます。例えば暑い日には風呂上がりに腰にバスタオルだけ巻いて、エアコンの効いた部屋で涼みながら座ったりすると、リラックスしていい気分で瞑想できそうです。


ミャンマーは民族衣装が腰巻きですから、瞑想する時はいつでも下着を付けずに腰巻きだけ巻いてやります。そのためバスタオル一丁で瞑想すると、ミャンマーで瞑想している気分も味わえるかもしれません。


あるいは秋の夜長は、寝る前に布団の上に座って瞑想するのもいいでしょう。ラクダのシャツにモモヒキなどを穿いて。私の場合はそれに丹前(どてら)を羽織ってやるのが好きでした。瞑想しているうちにポカポカ温まってきて心地良くなり、眠くなってきたらそのまま布団に潜り込むと朝まで熟睡できました。


ミャンマーの瞑想センターでは、寒い日はみんな毛布にくるまって瞑想しています。しかし毛布では、羽織る用に設計された丹前のように身体にフィットしませんので、丹前程の快適さを味わう事はできません。この辺りが丹前愛用者の私にはちょっと物足りません。


そんな感じでマインドフルネス瞑想の修行は、バスタオル一丁のところや、丹前を羽織ったところからでも智慧が生まれて来るわけです。逆に言えば智慧とは、気づきさえあれば、場所も時間も格好も何も関係なく生じてくるものだという事になります。


ですからこの瞑想をやる時は、そのように安心してリラックスしてやって頂いて大丈夫です。そして気づきのヒントが欲しい時には、是非この長老のこの言葉を参考にしてみて下さい。





修行者

日常生活で智慧はどう働くのですか?


長老

例えば朝ベッドから出られない時、最初は横になり続けるものの、そのうち枕の感触や精神状態などに気づき始め、気が変わったところで起き上がる。これは智慧が自分に必要な事や有益な事と、そうではない事とに気づいた事による。


あるいは、智慧は何か心配事や恐怖、不安などがある時は、自分の身体の緊張感やストレスを感じている部分に気づき、自分を有害な事や恐怖や不安を感じさせる事から遠ざけようとする。だから気づきながら生活していれば、智慧は状況に合わせて自身を上手く調整している事がわかる。




修行者

日常生活では常に何かを間違う事への恐怖があるため、瞑想中も何かを見落とすのではないかと思って怖くなってしまいます。


長老

恐怖心があると心が不安定になり、逆に間違いを犯しやすくなる。何も恐れる必要はないし、間違わないようにする事は修行の助けにはならない。


恐怖心に気づいた時は恐怖があると認識し、それを喜んだ方がいい。恐怖を克服する第一歩を踏み出したのだから。そして恐怖を頻繁に何度も繰り返し認識すれば、心は最終的にその恐怖が自分にとって何の役に立つのかどうか?有益か?有害か?を理解し、手放すようになる。



修行者

ストレスを感じている時は周囲の人々が憎らしく思えます。


長老

私たちがストレスを感じ、渇望や嫌悪感に圧倒されている時、見るもの聞くもの考えるもの、全て終わる事のない苦痛なものに感じられる。心が方向性のない思考に迷い込むと、体験している事がリアルに思えるのだ。


私たちがすべきなのは、渇望や嫌悪感の性質に気づく事。例えば求めれば求めるほど手に入らない苦が大きくなり、嫌えば嫌うほどその相手が憎く見える。その時に渇望や嫌悪感がそのように思わせている事に気づき、その思考が現実味を帯びている事に気づくと、惑わされずにいられる。



修行者

他人に面と向かって言えない事があると、妄想してその人を叱責してしまいます。


長老

妄想で不平を言っても何も発散できないが、その時の感情を観れば怒り・嫌悪は発散できる。更に不満について考える事で感情に火がつく過程に目を向けると、もう考える気がしなくなってくる。



修行者

繊細で傷つきやすいので、他人と接するのが苦手です。


長老

他人と接する時、相手の話を受け入れながら聞いている時と、相手の話に反発しながら聞いている時とでは、どちらが傷つきやすいかを観てみるといい。そして自分が恐れているものは実際には何なのかを知っておく事だ。


他人から言われた言葉で傷ついた時は、その言葉の意味について考えない。そんな時は心の痛み、悲しみや恐怖、怒り、憎しみなどの感情に目を向ける。解釈や自己イメージをする事によって状態は悪化するが、感情を観れば心は落ち着くからだ。感情が収まれば心は癒される。



修行者

心が掻きむしられるような激しい感情で、とても観察できない時はどうすればいいですか?


長老

心が圧倒されそうなら、それはその対象を観察するのに適切な時期ではない事を意味する。直接感情に向き合うのは無理なので、呼吸の観察や、他の何かに切り替えるしかない。


心を探求するには、地に足がつくように心が安定している必要がある。激しい感情に圧倒されている時は、お茶とか散歩とか、何か心を楽にするような事をした方がいい。ただし気づきをしっかり維持しておく事だけは忘れずに。場合によってはその時に何かが閃く事もある。



修行者

リラックスして気づき続けるコツはありますか?


長老

瞑想中に生じてくる感覚、音、雑念などの対象をはっきりと観ようとせず、気づきや対象があるかどうかを確認するだけにしておけば、一日中脱力して気づいていられる。怒りや痛みなどで緊張する時は、呼吸を観るといい。




修行者

日常生活で官能的な快楽と共に修行していくにはどうしたらいいですか?


長老

あまり修行というものを堅苦しく捉えず、官能的快楽であれ何であれ、まずは気づく事を目標にする。そして気づいた自分を褒めてやる事だ。そうしているうちに気づきが日常生活に取り入れられる。


日常生活で修行するのは、煩悩を全て克服するためではない。唯一の目標は何をする時でも気づいているようにする事。快楽に夢中になる事は問題ではないし、それを認識する事は利益になる。時には流される事もあるが、気づきを失っては戻る事を繰り返しながらやるといい。


たとえ気づきが一日の中で散在した瞬間にしかなかったとしても、心は少しずつの気づきを組み合わせ、煩悩を徐々に理解し始める。それによって気づきが増えていき、やがては日常生活の多くの時間を気づきと共にいられるようになる。だから少しでも気づけた事を喜びながらやる事だ。



修行者

瞑想会で3時間座ったり歩いたりしている間はずっと気づけていたので、会場を出てからも気づきを継続させようと決意しましたが、直ぐ気づきを失いました。


長老

気づくつもりではいたものの、まだ気づきが習慣化されてなかった。日常生活の気づきは瞑想会とは別の技術が要る。


気づきが習慣化されていないうちは、食事の前に食事中の全動作に気づいているつもりでいても、次にその事を思い出すのは満腹になった後だ。その間の事は何も憶えていない。それでも肝心なのは常に気づくつもりでいる事。少しずつ気づきを定着させれば、いずれ気づきは習慣化する。



修行者

世俗的な楽しみの方が多い自宅において、熱心に修行するにはどうしたらいいですか?


長老

私も在家の頃は中々自宅で気づきを継続させられなかった。精神的な苦しみがあったから気づいていたかったが、つい楽しみを追った。それでも少しずつ日常生活の気づきは育っていった。


私は日常生活では喜びを追う事を否定する気にはなれなかった。ただ追っている事に気づくようにしていた。結果的にはそれが功を奏し、いつしか気づきが育っていったのだ。つまり私は偶然にも正しい態度をとっていたわけだ。あとは精神的な苦しみが気づきの継続を動機づけた。



修行者

物事を固定観念や先入観抜きで見るには、それらの概念を心から取り除く必要があるのですか?


長老

私たちは妄想や欲望、怒り、嫌悪感など、様々な汚れを通して物事を見ている。だが、それらの汚れを取り除くのではなく、そのような色眼鏡の存在に気づく必要があるだけだ。


私たちはほとんどの時間、様々な汚れの入った眼鏡を通して世界を見ている。だが、その事に気づいている人は稀だ。だから「見えると見るの違いは何か?」などといった命題を与えられ、色眼鏡の存在に気づこうとしている。色眼鏡は気づく以上の事をしなくても消えていく。



修行者

瞑想で不快な感情を取り除こうとするのは誤った態度ですか?


長老

瞑想で心を落ち着かせようとしたり、不快なものを取り除こうとしたりするのは貪欲さだ。誤った態度になる。そうなると上手くいかない時には不満になり、更にその不満を取り除こうと堂々巡りに陥る。


瞑想は不快な感情やら雑念やらを取り除くための手段ではないと自分に言い聞かせるならば、その修行は堂々巡りから解放される。ある瞬間の気づきの中に喜びと満足感とを見つける事ができれば、不快な感情や雑念によって動揺したり、気を散らされたりする事が少なくなる。



修行者

自分では物事を「私の」と見ているつもりはありませんが、本当に自分でやっているのでしょうか?


長老

私たちは物事の認識の過程で「私」というものを創り出している。そして何事も「私がやっている」と信じている。だから心の過程を観察し、誤りに気づいていく必要がある。


私たちの心は、気づきがなければ「私」が存在するものと思い続ける。だが、気づいていれば「私のもの」とか「私がやっている」などと思う事は少なくなる。「私」を創り上げる心の過程を観なければ、自身の創り上げた「私」の物語を信じ、「私」についてクヨクヨ考え苦悩し続ける。



修行者

瞑想中に眠くなると何も観察できなくなるので、その時に背筋を伸ばしたら気持ち良くなりました。私は正しく瞑想できているでしょうか?


長老

眠い時には精進できず、智慧も働かないので何も観る事ができなかったが、背筋を伸ばした、つまり精進を増やしたら智慧が生じた。


あなたは自身の心の状態をしっかり観る事ができていたが、自分の瞑想を良いか悪いか判断したので不満が生じた。だからあとはその不満を観れば十分正しい瞑想になる。不満でも眠気でも、大切なのは気づく事。対象は何でもいい。そう心得ていれば、瞑想に不満をおぼえる事はない。





修行者

日常生活で煩悩を認識するにはどうしたらいいですか?


長老

煩悩には大きく分けて貪・瞋・痴の3種類あるが、それをエネルギーとして感じてみる。例えば朝目覚めて気づこうと努力してもつい寝てしまう時や、瞑想中に物思いに耽っている時などは、痴のエネルギーが働いている。


好きな人や食べ物、趣味や娯楽などに執着している時は貪のエネルギーが働いているし、怒ったり悲しんだり沈んだり、心配や不安、痛みを感じている時などは瞋のエネルギーが働いている。だからそれらの感情をエネルギーとして感じ、どんな時に発生してくるかを観てみるといい。



修行者

瞑想を始めた頃は無理して正しい人間であろうと、怒りや嫌悪感が出てきても抑圧していましたが、今はただ気づいているだけにしておけます。


長老

正しく進歩している。自分を正そうとするのも誤った態度だが、瞑想が熟練するにつれてただ気づくだけにしておけるようになる。



修行者

なぜ合宿では気づいていられるのに、自宅ではそれが難しくなるのですか?


長老

合宿中は限られた量の不善な心にしか直面しないため、瞑想の効果があるように感じ、自宅に帰ると対処しきれない程の貪欲さや怒り、嫌悪感、不安などに直面するため、上手くいかないと感じる。


合宿では私たちの心は瞑想修行用に調整されている。気づきやすい環境が整えられているのだ。しかし自宅では全てが自然の状態になる。つまり自宅に帰ると直ぐに「私の家」「私の家族」「私の車」などと、「私」の煩悩と一体化してしまうため、心が乱れやすくなるわけだ。


自宅での気づきが難しいのは、周囲のもの全てを「私の」と見てしまうからだ。所有物を「私の」と見るのは生涯に渡る見方であり、自動的に起こる。だからそれを取り除くのではなく、その見方がいかに心を乱すかを理解するのだ。それこそが自宅での気づきを妨げる原因なのだから。



修行者

瞑想修行の時、壊れるまで自分を追い込む癖があります。変えなければならないとわかっているのですが、手放せません。


長老

何事も手放す必要はない。ただ気づくだけでいい。癖が出るたび認識する事だ。うっかり癖に従っても、その都度気づいて戻ればいい。


自分で嫌だと思う癖が出たり、貪欲さや怒り、不安、心配などの嫌な感情が出ても、何も変える必要はない。ただ気づく必要があるだけだ。癖がついたらそれに気づく。それだけで十分だ。しばらくすると心は何かを学び、理解する。理解する事でその癖は変わる可能性がある。



修行者

嫌悪感や憂鬱さなどの嫌な気分があると取り除きたくなります。


長老

自然を批判しないように。嫌な気分も自然な事。それを取り除くよりも、まずは理解する事だ。嫌な気分を「私の気分」と見ずに自然に属するものとして見る。そして嫌な気分になる度その性質を理解する事だ。


嫌な気分になる度、それに気づける事に感謝する。それは何故か?それは嫌な気分があるからこそ私たちは気づきと三昧、智慧を得る事が出来るからだ。嫌な気分でも、それに気づけば善心が生じ、心の質が変わるのだ。そう考えれば嫌な気分になっても、心はそれに抵抗しなくなる。



修行者

考え過ぎて瞑想のやり方を見失ってしまいました。


長老

瞑想に慣れると、いい体験をしようと期待して心をシンプルに保つ事ができなくなる。単に見る、聞く、触れるなどの感覚に気づき、身体の動きに気づいていればいいのに。大切なのは心身に起こる現象よりそれに気づく事だ。


瞑想をシンプルにするには、心身に起こる心地良いとか悪いとかの現象ではなく、それに対する心の反応の方に目を向ける事だ。慣れると心地良くなるので、それに浸ったり、もっと良くなる事を望んだりしてしまうからだ。概念的な現象よりも心の中の現実のプロセスを観るわけだ。



修行者

座る瞑想中に身体の不快感を観ていたら嫌悪感だらけになってしまい、立ち上がりました。


長老

それが正しい。嫌な感情がエスカレートしたら歩く瞑想や休憩しながらの気づきに切り替える。それは原則のようなものだ。無理しても混乱するだけで効果は上がらない。





修行者

間違った方法で瞑想すると危険であるという話を聞いたので、安全な正しい方法を教えて下さい。


長老

安全に瞑想する方法というのであれば、正しい態度で気づき、その気づきを継続させる。そして何かを変えようとしたり、取り除こうとしたり、いい体験を求めたりしないように。


一番安全なのは、何かに気づいている事に気づく事。そうすれば見えたり聞こえたりする対象は重要ではなくなるし、対象に囚われなくなれば、気づきは一貫して継続される。そして何らかのいい体験をするために瞑想するのではないという明確な目的を持てば、安全でいられる。



修行者

気づきながら家事をしていたら、嫌な事を思い出して動揺しました。気づいても気づいてもその動揺は止まりませんでした。


長老

なぜ動揺が止まらなかったかというと、動揺を止めようとしたからだ。止めようとしたのに止まらないから、更に動揺した。それは誤った態度だった。


動揺している事には気づいても、動揺を止めようとしている事には気づかなかった。動揺を取り除こうという態度は、思った通りにならない場合は、状況を更に悪化させる事にしかならない。たとえ動揺しても気づくだけにしておくのが正しい態度であり、取り除くよりも簡単な方法だ。



修行者

自身や所有物に「私」「私の」と思わないためにはどうしたらいいですか?


長老

「私」という思いを抑圧するのではなく、ただ気づいていればいい。気づきがあると「私」という思いは断片的になり、信用できなくなってくる。それを実際に体験すると苦しみは軽減される。



修行者

ヴィパッサナー瞑想を修行するには、どれだけの集中力が必要ですか?


長老

瞑想中に起こってくる感覚や雑念などの気づきの対象を知る事ができれば十分ヴィパッサナー瞑想に必要なだけの集中力は持っている。なぜならある程度の集中力がなければ対象を知る事ができないからだ。


ヴィパッサナー瞑想を修行するには強力な集中力は必要なく、瞬間的な集中力さえあればいい。瞑想中に現れる様々な対象に気づけるのなら、既にサマディを持っている。そして気づき続ければこのサマディは増加する。だからヴィパッサナー瞑想では、特に集中力を磨いたりはしない。



修行者

座る瞑想の時に、足の痛みを嫌悪感を持たずにありのままに観る方法はありますか?


長老

足が痛い時は最初に感情を観る事だ。その感情が落ち着いてから足の痛みに戻れば、中立的な心で痛みの性質を観る事ができる。中立的な心があれば痛みの本質をありのままに理解できる。


通常私たちは、痛みがある時しか足の感覚を観ようとしない。しかし足の感覚は、たとえ痛みがなくても、観察の対象には違いない。つまり痛みがある状態もない状態も、観察の対象としては同等のものだという事になる。その理解があれば、痛みがあっても不快な感情は生じない。





修行者

日常生活での気づきは、合宿で瞑想するための練習と捉えています。


長老

私は逆に、合宿が日常を気づきながら生活するための練習の場と捉えている。なぜなら合宿ではそれほど苦しみがないが、日常生活では次々と困難が生じ、気づきがなければとても苦しいものになるからだ。




修行者

瞑想は様々な効果を得られると聞きましたが、全くダメです。やり方が悪いのでしょうか?


長老

ある人は向日葵が6週間で咲くと聞いたのに咲かないから不安になった。しかし実際には12週間かかると知って安心した。誤った情報は人を不安にするが、正しい情報なら安心させる。


瞑想中に何かいい体験ができるような期待を持ったり、進歩の度合いについて不満を持ったりすると不安が生じるが、瞑想中に起こる事は全て気づきを育てるためにあると思えば期待は止まり、不安は鎮まる。誤った情報は期待を膨らませ、不安ばかり増大させる事になるわけだ。






修行者

瞑想中は対象をいじると思考が増える事がわかりました。


長老

瞑想はシンプルな方がいい。見る、聞く、触れる、思い出す等の感覚を「◯✕を見ている」とか「快・不快」とか判断したりせず「見た」「聞いた」だけにしておけば容易に観察を続ける事ができ、自然に洞察が生じる。



修行者

気づきを維持するのに、時々指を擦り合わせて感覚を感じるようにしています。


長老

それは気づきの維持のための正しいアイデアだ。智慧はそのようにして物思いに耽らないよう、アイデアを出す。そしてその正しいアイデアによって、気づき継続させる事ができるわけだ。



修行者

心身に起こる事には大体気づけるようになりました。あとは何をすればいいですか?


長老

では、その気づいている事には気づけるだろうか?初心者のうちは見るもの聞くもの感じるもの等、一つの対象しか知らないが、気づいている事も知って、二つの対象を知るようにする事だ。


修行者

この人生は「私が何かをするものである」という考えは誤りなのですか?


長老

気づきのない生活では「私」を中心として生活するように思えるが、気づきがあると「私」は中心ではなくなる。様々な条件が集まって原因を形成し、その結果があるだけだとわかってくるからだ。


気づきながら生活していると、この心身が様々な条件の組み合わせで動いているのがわかってくる。何かを見るにも身体を動かすにも、様々な条件が集まらなければできない事を理解すると「私」という感覚も、様々な条件によって生じてくるものの一つにすぎない事がわかる。




修行者

話している時でも気づきを失わないようにするにはどうすればいいですか?


長老

まず話し始める前に、何を話そうとしているか気づいておく。話し始めたら声の調子や感じている事に気づく事ができる。何かを伝えたい思いが強いと気づきを失いやすいので、その熱意には要注意だ。


話しながら気づくのが難しいのは、会話中は多くの事が起こっているからだ。言いたい事を伝え、感情が生じ、相手に気を遣い、更に意見を見直したりもする。相手に注意を奪われると気づきを失うので、自身の話し方の方に注意を向けた方がいい。リラックスしていればそれができる。


行いは習慣づいていく。歩く時に必ず気づくように心がけていると、その意図は習慣づき、歩く時は必ず気づきが伴うようになる。話す時も同様、最初のうちは忘れながらでも常に気づくように心がけていると、それは習慣づいていく。修行について話す時は今の瞬間にいるようになる。




修行者

初心者ですが、不快な感覚に取り組む方法を教えて下さい。


長老

通常、人は不快さを感じるとそれを取り除こうとする。しかしそれでは瞑想にならない。だからまず、自分がどのような態度で不快さを認識しているか確認する事だ。何事も変えたり除いたりしないのが瞑想だ。




質疑応答はいつもこのように行われています(^^)




修行者列伝記事リンク



下のボタンをクリックしていただけますと励みになります。



XのPOSTは毎週金・土

ウ・テジャニヤ長老の著作物(無料日本語訳)

「DON'T LOOK DOWN ON DIFILEMENTS - 侮れない煩悩」入門編


「DHAMMA EVERYWHERE - ダンマはどこにでも」実践マインドフルネス


「AWARENESS ALONE IS NOT ENOUGH - 気づくだけでは不十分」マインドフルネスQ&A

当ブログからのお知らせ

《お知らせ》シュエウーミン瞑想センターの再開について

  最終更新日 2023.12.31

新着記事

お問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

このブログを検索

瞑想ブログランキングに参加中です

QooQ