【ウ・テジャニヤ長老の名言第21集】

2024年5月4日土曜日

名言集

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気づきの大切さを知る方法


自分の心というのは本当に信じられません。例えば朝寝坊して会社に遅刻しそうになり、大急ぎで走っているところに突然大雨が降ってきて、傘を買いに慌ててコンビニに飛び込んだはいいが、レジに行列ができていて、ストレスが最高潮に達した時に店員が新人で、作業がたどたどしくて中々はかどらない時、そんな時心はどんな思考を始めるでしょう?


そして、もしその思考を信じて実行に移したらどうなるでしょう?まあ、間違いなく数年間は刑務所から出て来られないハメに陥ってしまいます。


あるいは禁煙中で渇望感でいっぱいの時は、喫煙者がどう見えているでしょう?ダンディーでカッコよく見えているか?それともニコチン中毒のみっともない姿に見えているか?また、煙草についてはどう思えるでしょう?身体に有害極まりないものにか?それともストレスを軽減し、気分をリフレッシュさせる有益なものにか?


そして、その思考を信じると、何度禁煙に挑んでも失敗する事になってしまいます。他の依存症も同様、心の中で起こっている事を信じると、絶対に依存症から抜け出す事はできません。ギャンブルなどにハマっていたら大変、借金だらけになって人生を棒に振る事になってしまいます。


あるいは万事が順風満帆にいって、みんなから賞賛ばかりされている時に、万年うだつの上がらないしょぼくれた私みたいなオヤジを見たらどう思うでしょう?そして、その思考を信じてしまうと、気づいた時には高慢さですっかり嫌な奴になり、みんなから嫌われて孤独になってしまいます。


このように、私たちの心の中には常に怒りや貪欲さ、「俺が」と考えて止まらない妄想が渦巻いていて、特殊詐欺グループのようにあの手この手を使って私たちを騙そうとしています。ですから詐欺グループから自身を守るには、常に気づいているしかありません。


その気づきの大切さを知るには、一日の終わりに「今日は何年懲役に行くぐらい怒り、何億円借金するぐらい貪欲になり、どれだけ実在しない『俺』について考える愚行を行ったか?」と振り返ってみるのがいいかもしれません。




修行者

瞑想中のネガティブな感情が強く、叫びたくなったり泣いてしまったりする事もあります。とても受け入れられません。


長老

ネガティブな感情を観る時は、その感情は自分のものではなく自然に属するものであるという正しい見方をするように。それができれば受け入れなくていい。


もう一つは瞑想はネガティブな感情を抑えるものではなく、それを理解するためのものであるという見解に立つ事。何か嫌な事を思い出しても、そのストーリーに目を向けるのではなく、感情に目を向け、その性質を理解しようとする事だ。そうすれば思考や感情に巻き込まれずに済む。




修行者

「私」というのは一体どういう風に錯覚しているというのですか?


長老

例えばロープを見て蛇だと思う事がある。知覚する心は私たちに蛇を示すが、認識を信じるか否かは心次第になる。心の質が良くないと蛇を信じ、安定していれば智慧がそれを見破る事になる。


「私」とか「自分」というのもロープを見て蛇だと思うようなもので、単に知覚する心がそれを「私」と示しているだけのものを、習慣的にそれを信じるか否かは心次第になる。通常は惰性で何も考えずにそれを「私」と信じるが、智慧があれば信じる前に確認する事になる。


修行者

思考に巻き込まれてから立ち直るのが上手くいきません。


長老

自分自身に「今、心身に何が起こっているか気づければ、十分」と言い聞かせる。それによって思考を捨て、興奮した心を抑制するので、心をリセットする事になる。それを日常生活で繰り返せば、気づきが養われる。


修行者

日常生活で気づくべき最重要課題は何ですか?


長老

一日を通して行動と、それを行う時の意志を認識する事だ。それらを一緒に認識していればそれで十分。既に肝心なプロセスを認識している。それによって無我、つまり「行動する者」はいない事がわかってくる。


行動する前に必ず動こうとする意志がある。見ようとして見るし、手を動かそうとして手が動く。全ての行動は意志によって生じてくる。だからこのプロセスを日常生活で観続ければ、この心身を操作する者はおらず、心身がそれ自体で働いているだけだと正しく理解できるようになる。



修行者

瞑想を2年もやっているのに、過去の出来事に対する怒りを克服できていません。


長老

私たちは問題を解決したり、欲しいものを手に入れたりするために気づいているわけではない。瞑想は気づきを育てるのが目的であり、それ以外の目的を持つと、上手くいかない時に失望する。


馬は荷車の前に置くべきであり、荷車の後ろに置いてもどうにもならない。馬とは気づきの事であり、荷車とは苦しみを克服する智慧の事だ。まず気づきを育てれば、学習や智慧が後に続いてくるという話だ。だから気づきを育てる事こそが、苦しみの解決をもたらす事になるわけだ。



修行者

瞑想中に苦しみが発生した時の正しい態度とは、どういうものですか?


長老

その場合の正しい態度は、苦しみの感情は自然のものであり「私の」ものではないという考えを持つ事だ。そうすれば観察する心は、苦しみに対して平静でいられる。それを繰り返して学ぶといい。


苦しみの感情とは怒りだが、その感情が消える事を期待せずに平静に見守るためには、何度も繰り返し練習する必要がある。だから何かによって動揺させられた時は、その相手や状況ではなく、自身の心に注意を向け、苦しみの感情から怒りを見つけて観察する習慣をつける事だ。



修行者

修行とはどういう意味ですか?


長老

それは私たちはまだ学びの途上にあるという事だ。つまり修行しているからある程度の気づきがあるものの、その気づきは完璧ではなく、失ったり取り戻したりを繰り返している最中という事になる。だからそうなる度に修行中だと思えばいい。


気づきを失ったり取り戻したりする度に「今は学んでいる最中だ」と自身に言い聞かせるのは大切な事だ。さもないと自身の不完全さが不満になる。私たちはまだ学びの途上にあり、完璧には気づいていられない。もし完璧に気づけるのであれば、もう修行は必要ない。




修行者

貪欲さや怒り、妄想などの煩悩は無用の長物ですか?


長老

私たちは気づきの対象として煩悩を使う。煩悩は気づきと智慧とを成長させるのに役立つ。つまり煩悩がなければ成長する事はできないのだ。そう正しく理解しておけば、煩悩を取り除こうとは思わなくなる。



修行者

怒りや不安、心配などの感情が起こった時に、感情に巻き込まれずに観察するにはどうすればいいですか?


長老

そういう時は瞑想中に「なぜその感情が起こったか?」と自問すればいい。そうすれば心は感情ではなく、探求の方向に向かう。そして感情が起こるプロセスを観る。



修行者

瞑想中に心身に起こってくる感覚や雑念は、良し悪しを判断しない方がいいのですか?


長老

判断はしない方がいい。なぜなら良いと思うと心は更にその感覚を欲しがり、悪いと思うと心が抵抗して、怒ったり嫌悪感を抱いたりして状況を悪化させてしまうからだ。



修行者

瞑想中に足が痛くなると痛みではなく、怒りや嫌悪感の方に注目します。


長老

それでいい。痛みがあると心は怒りを持って反応する事になるが、心に怒りがあると痛みは更に増すばかりになるので瞑想にならなくなる。だからまず怒りを鎮めて冷静に対応する事だ。


例えば誰かに対して怒っている時、その人に注意を向けると、ますます腹が立ってくる。それと同様、足が痛い時に痛みに注目すると、ますます怒りや嫌悪感が増大してしまう。だから痛みがある時は、まず感情を観察し、落ち着いてから感情と痛みとの相関関係を観るといい。



修行者

瞑想中は心の中が混乱していて、どこから手をつけたらいいのかわかりません。


長老

まず見える、聞こえる、感じる、臭う等の感覚を認識し、思考や好き嫌いの感情等は、感覚に対する反応として認識していく。雑念はあっても構わない。とにかく大切なのは気づく事と心得る。


最初のうちは瞑想する前に、心身に起こる事は全て自然な事であり、それに気づき、その気づきを維持しようと自分に言い聞かせるといい。今は感覚や思考、感情などが何の関連もなく発生してくるように思えるが、そのうちそれらは関連し合って順番に発生してくる事がわかってくる。



修行者

自分の中に智慧があるかどうかを知る方法はありますか?


長老

チェックする事が智慧の性質とおぼえておくといい。例えば怒りによって誰かを傷つけたいと思えてならない時、その考えに従うのは有益かどうかを確認できれば智慧は働いている。あらゆるチェックには智慧が必要だ。



修行者

私は日常生活での気づきが好きです。なぜなら気づきながら生活すると苦しみが少なくなるからです。


長老

私は決して気づいていれば幸せになるとは言わない。そう言えばみんな幸せに執着するだろう。しかし苦しみが少なくなるという言い方は好きだ。それは幸せとは違うからだ。




修行者

気づいていると「私」という概念が持続しなくなるのですか?


長老

何かをする時に気づいていれば「私が何かをしている」という思いは堅固ではなくなる。しかし気づいていなければ「私が」という思いが持続する。だから私たちは何をするにも気づいている必要があるわけだ。



修行者

瞑想中に過去の失敗を思い出して瞑想できなくなります。


長老

思考によって動揺したり気分が悪くなったり、その記憶を嫌ったりする時は「私の思考」「私の感情」「私の体験」という考え方を見直し、単なる思考、感情、体験と見る。概念を手放し自然のものとして見るわけだ。


心の中では思考、感情、体験は不連続な出来事として発生してくるので、あまり現実的ではない。しかしそれを「私のもの」とすると、持続的で現実的なものに見えてくる。そんな時は「私」という概念を手放して自然に戻す。すると概念的世界と自然のものとの違いが見えてくる。



修行者

私は痛みを観ると幸せになれます。それは体に痛みがあるのは自然な事と受け入れる事ができるからです。


長老

あなたは気づけるから幸せなのだ。対象が何であれ、それに気づける事は幸せな事だ。あなたは何か心地良い体験をしなくても、気づく事で幸せになれる人だ。



修行者

日常生活で気づいているとどのように修行が進むのですか?


長老

日常生活に気づきを持ち込めば「私が」「私の」という思いが抑制され、安定した平和な心(サマディ)がもたらされる。そして心に気づきとサマディがある時は、ナーマーとルーパーの理解(智慧)が深まる。



修行者

瞑想中はなぜ自分で観る対象を選ばず、心の行く先々のものを観るのですか?


長老

もしあなたが好きな対象を選んで観察したら「私の対象を私が観ている」という概念を持つ事になる。しかし心の行く先々のものを観れば、対象はあなたのものではなく「私が」という概念はない。


例えば瞑想中に足が痛くなった時、あなたは呼吸を観たくても、心は痛みに向かってしまう。その時呼吸はあなたのものになっているが、痛みはあなたのものではない。あなたの選択ではないからだ。それによって誰のものでもない自然のものが生起しているという見解で観る事ができる。



修行者

人生とは何でしょう?


長老

自分の生活を向上させ、苦しみを取り除くのが人生の全てだ。苦しみは学びの経験だ。私たちは心がなぜ苦しむのかを知りたい。だから苦しみがあるという事は、まだ心を理解していないという事になる。そして気づく事によって学び続ける。



修行者

瞑想中に怒りが出た時は、それを引き起こした記憶とその物語とを見ます。


長老

それは気づけていても、心はまだ学んでいない状態だ。物語は概念であり、感情は現実だが、概念に目を向けても怒りを悪化させるだけにしかならないのに対し、現実に目を向ければ心は落ち着く。


過去の記憶とそれについての「私が何かをした」という物語には問題がある。そしてそれに目を向けさせるのは煩悩であり、智慧は現実の方、つまり感情の方に目を向けさせる。概念を見れば状況は更に悪化するだけだが、現実を見れば心は落ち着く。あなたはどちらに目を向けたいか?


「私のもの」「私がやっている」
という概念と怒りや嫌悪感、貪欲さなどの煩悩との関係を知っておく事は、日常生活の中で気づきを継続させるのに役立つ。寝起き時の気づきに問題がある時にその事を観ると、不快な気分や感情に巻き込まれずにすみ、爽快な気分になれるだろう。



修行者

激しい痛みを抱える病人でも、瞑想すれば落ち着いていられますか?


長老

瞑想中に生じた痛みであれば、それについての何らかの理解があれば心は落ち着いていられる。ただその理解とは、痛みや病気について考えるという意味ではない。痛みの本質を理解するという意味だ。


心身の痛みを感じないように瞑想しても、痛みの本質は理解できない。痛みが発生した時は、痛みとそれに対する反応との相関関係を観察するなどの探求が必要だ。痛い時はどんな感情があるのか?その感情によって痛みはどう変化するのか?そしてそれを理解する事で心は落ち着く。



修行者

修行者は生活の向上の事は考えないのですか?


長老

普通の人は心の中で何が起こっているか知らないまま生活を向上させようと努力している。しかし修行者は、生活の向上のためにはまず気づいていようとする。そしてそれによって確実に落ち着いて充実した生活を手に入れる。



修行者

瞑想でどうやって貪欲さや怒りがおさまるのですか?


長老

貪欲さや怒りがある時は心は苦しみ、平和ではない。つまり煩悩の性質の影響を受けると苦しむわけだ。しかしこの貪欲さや怒り、嫌悪感はある一定の条件に基づいて発生してくる。その貪欲さや怒りの原因を見抜くのだ。


貪欲さや怒り、嫌悪感などの不快な感情の原因を見抜く智慧は直ぐには得られない。まず物事を「私」「私の」と思った時と思わなかった時との反応の違いから学んでいく。その状態を理解が得られるまで何度も何度も繰り返し観察する。そのようにして自身の体験から学ぶしかない。



修行者

私は多くの怨念を抱えているので受け入れて手放すように言われています。どうしたらいいでしょう?


長老

まず怒りは自分のものではないと考える必要がある。怒りは誰のものでもなく、自然に属するものだと正しい見方、考え方をするわけだ。それが受け入れる事にもなる。


怒りを「私のもの」とせず、自然のものと正しく受け止めたら、その感情を良く感じてみる。決して怒りから発生した思考に心を向ける事なく、ただ怒りのエネルギーを感じるようにする。怒りの思考に巻き込まれると心が更に乱れるが、感情を感じれば心は直ぐに落ち着いていく。



修行者

心は自分ではなく自然だという事についてもう少し説明して下さい。


長老

心の中で起こる全ての出来事は自然だという事は、貪欲さや怒りや妄想を含めて、全ての心は「私の」ではなく、それ自体の性質や特徴を持っているという意味だ。それは誰のものでもない。


私たちが心と呼んでいるものは、実際には様々な要素の複合体だ。例えば6つの感覚と52の精神的要素(Cetasikas)に分解してみる事ができる。そして私たちはこれらの心を個々の性質から認識し、それぞれが独自のアイデンティティと特徴とを持って機能している事を知る。



修行者

私は「私の身体」が息を吸ったり吐いたりしているのを観ていました。


長老

「私は呼吸している」というのは思考であって現実ではない。心身に起こる出来事に気づいている時は「私の」という考えはない。「私の身体」と思っている時は既に思考に巻き込まれている。



修行者

精神状態が良くない時は、何をするにも「私がやっている」「私のもの」「私はこのような者」という思いが強くなっています。


長老

そんな時は「私」という思いが強くなっているだけでなく「優劣」などの概念にばかり目を向け、考え込みやすくなっているので要注意だ。



修行者

苦しみから急いで抜け出したいと思ってしまいます。


長老

苦しみから抜け出すために急いではならないし、苦しみを恐れてもならない。私たちが苦しむ時は常に「私が」「私の」という思考に陥り、善悪やら優劣やらの概念に囚われている。だから苦しむ時はそこから学ぶ事だ。


気づきを持って心を見つめる時は「私の」「私が」という思いはなくなり、苦しみは軽減される。その時は概念的世界ではなく、現実に生きているからだ。修行者はそのように概念的世界と現実との2つの世界を選択できる。そのような機会を与えられた者は幸運だと思った方がいい。



修行者

なぜ物事を認識するプロセスを観察できるのですか?


長老

例えば私何かを食べる時、まず食べ物が目に止まり、それに注意を向け、見続ける。これは目に入る(Manasaikara)最初の思考(Vitaka)その後の思考(Vicara)という認識の順番になる。


日常生活の活動において「私がやる」という思いを減らし、心身が「私によって」ではなく、心身自体の働きによって活動していると理解できるようになると、掃除の時でも、洗濯の時でも、料理をする時でも、何をする時でもこの認識の順番に気づく事ができるようになる。



修行者

瞑想中に心が鎮まったり鮮明になったりすると、それがどういう体験なのか考えてしまいます。


長老

今までにした事がない体験をして興奮して考え込んだ。だが、それがどういう体験かわからなくても、気づきの対象である事はわかる。そう理解しておけば考え込む事はなくなる。



修行者

痛みがある時は、どうしても辛い思い出や憎い人の事を考えてしまいます。


長老

身体に痛みがある時は、それについて考えるのではなく、気づくように。辛い経験や憎い人の事を考えると心は幸せではなくなる。それよりもその感情に目を向け、痛みとの関係について理解する事だ。


身体の痛みとは概念であり、実際の感覚とは別物だ。痛みは辛さや憎さといった感情と密接な関係がある。だから痛みについて理解するには、その時にある感情との相関関係を観るといい。感情のまま考えても辛さが増すばかりだが、感情に目を向ければ痛みの本質がわかってくる。



修行者

身体に痛みがある時は、どうしても怒りの思考に巻き込まれてしまいます。


長老

感覚器官が何かを感じると、心はそれを瞬時に快感か不快かを判断する。そして快い場合は、その対象がとても素晴らしいもののように考えるが、不快だととても酷いもののように考える。


私たちは感覚が快感か不快かで、物事を偏った見方をする。中立的に考えるのは、心が感覚に反応していない場合のみだ。だから何かを感じた時は、直ぐ嬉しさや怒りなどの感情の方に目を向け、感情が中立的になるまで観察する事だ。そうすれば心は痛みの本質を理解できる。



修行者

日常生活で身体感覚と感情との関係を観察する事はできますか?


長老

日常生活の方が快感や不快さ、喜びや悲しみ、怒りなどが生じやすいので、より上手に気づく事ができる。毎日たくさんの感情が出てくるので、瞑想に熟練するためにそれらを存分に活用する事だ。




修行者

他人から何か言われるとその事について考えてしまい、心が乱されます。


長老

心を乱されるのは「私」について考えてしまうからだ。それは実際には存在しない概念上のものについて考えている事になる。つまり妄想だ。そんな時は実際に起こっている現実に目を向けた方がいい。


思考が生じた時は概念ではなく、実際に起こっている事に目を向ける。その場合に起こっているのは、思考はただ生じては滅するだけのものという事。それが自然の法則であり、現実だ。「私がどうの」という架空の概念に目を向ければ心が乱されるが、現実を見れば概念に惑わされない。



修行者

私は病気のせいで体に痛みがたくさんあります。


長老

私は痛みがある時は痛みの方ではなく、感情、反応、怒りに目を向ける事を勧める。心と体は関連していて、痛みに目を向けるたびに怒りが出てくるからだ。また痛みは悪という概念があると、嫌悪感まで出てきてしまう。


初心者のうちは瞑想中に痛みを見ると、怒りが激しくなって瞑想できなくなってしまう。例えば誰かに怒っている時、その相手を見つめ続けたらどうなるか?怒りの目で見れば怒りは更に増す事になる。それと同じ事なので私は痛みではなく、感情や怒りを見つめる事を勧めるわけだ。



修行者

かつての恐怖の記憶が甦ると瞑想できなくなります。


長老

恐怖や渇望が強烈で、かつての体験が現実的に見える時は「その恐怖や不安は本当に実在するのか?」と自問してみるといい。そう確認するだけで心はその体験から退く。確認は気づきをサポートする智慧をもたらすからだ。



修行者

日常生活では煩悩の誘惑に負けて気づきを失ってしまいます。


長老

気づきを見失わせるエネルギーを認識できるかどうか確認する事だ。これは楽しみを追いたくて気づきどころではなくなる時や、面倒になって気づきを捨ててしまいたい時、その感情を確認するという事だ。


気づきを継続しようとしていても、面倒でできないというのは怒りだし、美しいものを見たくて気づきどころではないというのは貪欲さだ。時には妄想に巻き込まれて気づきを忘れる事もある。その時々の気づきを妨げる感情を確認するのは、気づきを再接続する手っ取り早い方法だ。



修行者

瞑想するだけで人生が変わるなんて信じられません。


長老

やってみるのが一番早い。例えば日々のストレスを認識するだけでもある程度落ち着く。苛立ったままで世の中を見るのと、落ち着いて見るのとではどう違うか?心が変われば生活も変わる。心の理解は必要だ。



修行者

長老はどうやって心の平穏さを一日中保っているのですか?


長老

朝、目が覚めた時から気づき、その平穏さを日常生活に取り入れるようにしている。上手に使えば一日中穏やかでいられるが、午前中でなくなってしまう時もある。そういう時は気づきを維持し、また心を平穏にする。


朝の瞑想で心が平穏になったら、その心に影響を与えるものは何かを知るように努める。思考が、話が、身口意の行いが、どのように感情や精神状態に影響を与えるかを観ておくようにするのだ。そうすれば自身のサマディのレベルを維持する方法を知る事ができる。



修行者

心は瞬間的に生滅しているのであれば、善心も不善心も直ぐに消えるのではありませんか?


長老

心は常に生滅しているが、善心も不善心もその性質は残り、瞬間瞬間蓄積され続ける。例えばいつも怒っていると怒りっぽくなるのは、その性質が残るからだ。どの心もそうなる。


なぜ人は直ぐ怒るのか?それは怒りを許容するため怒りやすくなるからだ。その性質が繰り返し発生し、ますます怒りやすくなる。なぜ人々が強い渇望で強い怒りを抱くのか?それは人々がそれらの性質を日々実践しているからだ。気づきも同様、だから日々実践する必要があるわけだ。





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  最終更新日 2023.12.31

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