美術館/博物館

対馬①「観光情報館 ふれあい処つしま」あなご料理 と 観光の間

スポンサーリンク

対馬へは壱岐の芦部から高速船で厳原まで向かいました。

 

船は、博多から壱岐へ渡った時と同じ「ヴィーナス2」です。

 

玄界灘の波は激しかった。

 

対馬について最初に立ち寄ったのはここ、朝鮮通信使幕府接遇の碑「観光情報館 ふれあい処つしま」

ここの「つしにゃんキッチン」で対馬名物あなご料理を堪能。

あなごは対馬の特産品です。

ブラタモリ対馬編でもタモさんは、あなごを食べるだけのために対馬に来たことがあると言ってました。

対馬のあなごは、水深200mある島西海域で主に獲れます。そこには穴子の餌となる深海のカニ、エビ、イワシなどが豊富に生息し、水温も年間を通して6度ほどと低温なため脂のノリがよいあなごが育つということです。

地政学的には分かりませんが、島の西は深い海盆があります。

 

食事の後は、隣の「観光の間」で、対馬のお勉強です。

太古の昔から、対馬は日本と大陸との架け橋だった

約一万年前の対馬

氷河期(縄文時代以前)の対馬は大陸とは陸続きで、氷河期が終わり対馬は現在のような島になったといわれています。

約一万年前、縄文時代から対馬に人々が住み漁と狩りを行い、九州北部や朝鮮半島との間に食糧や諸道具などが対馬を介して行き来していました。

すでにこの時代から日本列島と大陸の橋渡し役を担っていたのです。

 

1        魏志倭人伝

邪馬台国から地方官として卑狗(ひこ)、卑奴母離(ひなもり)が派遣されていることが書かれています。

対馬は韓国の釜山から60kmと近距離にあり、一時期、対馬は韓国領と騒ぐ韓国人がいましたが、魏志倭人伝の時代から一貫して日本の国土の一部です。

「魏志倭人伝」

対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃に書かれた魏志倭人伝(三国志魏書東夷伝倭人条・さんごくしぎしとういでんわじんのじょう)です。

「始めて一海を渡ること千余里、 對馬 (対馬) 国に至る。 其の大官は卑狗と白い、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、 海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき=交易)す」

断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。 また、 水田が少なく、 海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易をおこなっている。

 

2        海幸彦・山幸彦伝説

小学校の学芸会で海幸彦をやりました。

最後に山幸彦に屈服させられた記憶はありません。

子供向けにハッピーエンドで終わったような。

伝説は、昔の抗争を神々の物語にしたものなので、史実は下記が近いのでしょうね。

名神大社 和多都美神社

海幸彦・山幸彦伝説

古事記では、天皇家の祖先は高天原(天界) から地上に降りてきたと伝えられています。

天皇家の祖先は、まず山の神の娘と結婚して山の力を得て、その子は海の神の娘と結婚して海の力を得ます。

天皇家の祖先である彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト 通称:山幸彦)と、海の女神・豊玉姫が出逢った場所(海宮)こそ、対馬の中央に広る浅茅湾の最深部、 和多都美神社であったと考えられています。

波穏やかな浅茅湾は、 命がけの外洋航海の果てにたどり着いた船人に、 安心を与える竜宮であり、豊玉姫はその主(あるじ) だったのです。c

海幸彦 (兄) によって追放された山幸彦は、豊玉姫の助力を得て、兄を屈服させます。

海幸彦は、朝廷の抵抗勢力であった九州中部・南部の隼人(はやと) という一族の祖先です。 この物語は、天皇家の祖先が、 海の神を祭る北部九州の一族の助力を得て、 九州全土を征服していった 「歴史」 を物語っているのかもしれません。

神話では、出産の際に山幸彦に約束を破られた豊玉姫は海の国へ帰り、 二度と往来できないよう道を閉ざします。

しかし、悲しさと恋しさに耐えきれず、 夫に歌を送ります。

山幸彦も妻を忘れることはできず、その返答歌は、

 

水鳥の鴨が降り着く島で

契りを結んだ私の妻を忘れることができない

世の終わりまでも

 

対馬東海岸の「鴨居瀬」は古代の港であり、 この地の住吉神社も山幸彦と豊玉姫の子神を祭っています。

鴨居瀬は「鴨が降り着く」場所であり、ここから浅茅湾一帯にかけて、山幸彦と豊玉姫が出逢い、結ばれ、出産し、 そして別れゆくまでの伝承が色濃く残されています。

対馬の無数の神社は、いにしえの神話の世界を静かに今に伝えているのです。

 

対馬に海の女神の名前と同じ豊玉町と言う地名を見つけました。

 

国産み神話と対馬

対馬は、「古事記」の国産み神話では、イザナギ・イザナミ2神の「国産み」により大八島 (おおやしま) のひとつとして誕生します。 大八島とは、本州・四国・九州に、淡路島・佐渡島・隠岐島・壱岐・対馬を加えたもので、北海道・沖縄は含まれていません。

神話は古代人の思想・哲学・認識を物語として表現したものであり、その古典神話に登場するということは、古代の中央政府がいかに対馬を重要視し、どのような国土意識を持っていたかという事を反映しています。

唐津・大津・摂津など、古くから知られた良港には港を意味する「津」の文字が使われ、 古事記でも対馬を 「津島」 と表記しています。

神話の時代から対馬は、日本列島と朝鮮半島・大陸を往来する大陸航路の拠点、大海に浮かぶ重要な 「津=港」 として認識されていたのです。

対馬には多くの神々が鎮座していますが、 女性のイメージで描かれることが多いようです。 古事記における対馬の別名は「アメノサデヨリヒメ」。

対馬の中央に広がる波穏やかな浅茅湾(あそうわん)を優しく抱く、船人を守護する海の女神を連想させる神名です。

また、同じく海の女神である豊玉姫や、懐妊したまま朝鮮半島に出兵したと伝えられる神功皇后など、ときに優しく、ときに激しく、勇ましい女神たちがこの島で信仰され、 語り継がれてきました。

 

3        船越

大船越と小船越

対馬はもともと一つの陸続きの島で、 船が島の東西海域へ行き来するには、南北へ大きく迂回する必要がありました。

大船越・小船越と名のつく所は、 むかし船を陸揚げして対岸へ渡った名残のある所で、遣隋使や遣新羅使もそれらの船越を越えて往来したといわれています。

1671年、第3代藩主・宗義真によって大船越の運河が掘り切られ、海上交通の利便性が飛躍的に向上しました。


12世紀の中頃、 対馬の豪族である阿比留氏は島内で絶大な権勢を誇っていました。江戸時代まで対馬の領主となる宗氏が、政治的影響を次第に広げ対馬での支配権を確立するのは、鎌倉時代末期と考えられています。

阿比留氏に代わって対馬を統治することになった宗氏ですが、鎌倉時代から江戸幕末まで続くその治世は決して平坦なものではありませんでした。

1274年、宗資国 (助国) の時代に、 元・高麗の大軍が対馬を襲います (文永の役)。

対馬に上陸した元・ 高麗軍は暴虐の限りを尽くし、島人は未曾有の惨劇に巻き込まれました。

しばらくして対馬を中心とする倭寇 (前期倭寇) の活動が激しくなり、このことが朝鮮半島にあった高麗王朝を滅ぼす原因のひとつとなりますが、 背景には元寇への仕返しという意味があったのかもしれません。

 

阿比留という姓は、対馬では多い姓で、行った時のバスの運転手さんも阿比留でした。

667年に築かれた美津島町箕形の金田城(かねだじょう、かなたのき)には日本最古級の朝鮮式山城の遺構がよく残っており、国の特別史跡に指定されています。

山頂からは、1300年以上前に防人が見た水平線を望むことができます。

 

ブラタモリでタモさんもこの城址を登ってました。

4        朝鮮通信使

 

朝鮮通信使とは?

朝鮮通信使は、朝鮮国が日本に派遣した外交使節団です。

豊臣秀吉が引き起こした文禄・慶長の役により両国の国交は断絶しましたが、秀吉没後に実権を握った徳川家康は国交回復を目指し、その交渉を対馬藩に命じました。

対馬藩は朝鮮国と粘り強い交渉を続け、 関係修復に努力しました。

その結果、1607年に朝鮮通信使が来日して国交が回復しました。

江戸時代、 朝鮮通信使は12回来日しますが、 文化使節団としての役割も担っていました。 朝鮮通信使と日本の人々との交流は、学術、 芸術、産業などの様々な分野にわたり、両国の文化の発展に寄与しています。

朝鮮通信使が来日した江戸時代の260年あまりの間、 両国は対等な関係を維持して平和な時代を築きました。

朝鮮通信使は平和の象徴であり、 世界史的にも特筆されています。

通信使一行約500人を対馬藩の約800人が江戸まで送り迎えをしました。

通過する沿道の30余藩の大名は人馬と宿舎を提供し、歓迎の祝宴を催しました。

その行列の総数は約2000人にもなり、それを一目見ようと大勢の人々が沿道に人垣を作ったといわれています。

日本側の接待費は百万両(現在の価値で約500億円程度)にものぼりました。

 

江戸時代の外交スキャンダル“柳川一件”

宗義智らの尽力により朝鮮との国交は回復し、対馬は豊かな時代に入ります。

しかし、国交回復のための和平交渉には重大な秘密が隠されていました・・・宗家や対馬藩重臣らは、日朝互いの国の面子を保ちつつ和平交渉を進めるために、徳川将軍家と朝鮮国王の国書を改ざんしていたのです。

第2代藩主・宗義成と対立していた対馬藩家老の柳川調興は、国書改ざんの事実を幕府に暴露し、日本中を震撼させる大事件に発展しました。 それが柳川一件です。

1635年、 将軍徳川家光による直々の裁定の結果、宗義成は無罪、主君を訴えた柳川調興は津軽へ流罪となりました。 これは戦国時代のような“下克上”が、すでに終わったことを世に知らしめる!!来事となったのでした。

 

5        雨森芳洲

雨森芳洲は対馬藩の儒者で、朝鮮語会話に堪能であったため、朝鮮通信使の接待に不自由することが無かったと言われています。

 

雨森芳洲

1668年に近江(現在の滋賀県)に生まれました。

18歳で江戸に出て、木下順庵の門に入り儒学を学び、22歳の時に、順庵の推挙により対馬藩主・宗義真に儒者として仕えることになりました。

この頃の対馬藩は、朝鮮王朝との外交の窓口として、友好関係の維持 貿易外交問題の折衝・接待などを幕府から任されていたため、外交を担える優秀な人材を必要としていたのです。 44歳の時の第8回朝鮮通信使 52歳の第9回朝鮮通信使の来日で、 対馬藩の真文役 (外交官)として江戸まで同行し、 外交の責任を負う地位にあって、苦労しながら職務を全うしました。

芳洲は、外交のあるべき姿を「交隣提醒 (こうりんていせい)」に記しています。

その内容は、朝鮮の風俗や習慣をよく理解し、 違いを尊重して外交にあたるべきと説き、事例を挙げて偏見や蔑視を抱いてはならないと強く主張しています。

この 「誠信交隣を説いた「儒学者」 雨森芳洲の先進的な国際感覚と思想は、現在の諸外国との関係においても十分通用するものとして、改めて注目を集めています。

芳洲は、 1755年春、 厳原町日吉の別荘で88年の生涯を閉じ、お墓は厳原町日吉の長寿院にあります。

「互いに欺かず、争わず」

 

6        日露戦争・日本海海戦

 

日本海海戦は、対馬東方沖海域で行われました。

日本の連合艦隊は海戦史上稀に見る大勝利を収め、バルチック艦隊のほぼ全てを損失させました。

「対馬島民とロシア兵」

1905年5月27日の日本海海戦 (対馬沖海戦) では、 日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を壊滅させたことで有名ですが、 上対馬町の殿崎にはバルチック艦隊のモノマフ号の、同町茂木にはナヒモフ号の敗残兵が多数漂着しました。

体が大きく、初めて見る西洋人に住民は驚きましたが、 彼らに水・食料・衣類そして宿まで与え手厚く看護しました。

戦争に敗れた敵国の命を助けたのは、国境に生きる島人の素朴な人間性の発露だったのでしょうか。

 

国境の島らしく、こんなポスターは貼られていました。

スポンサーリンク

-, 美術館/博物館