史跡

静岡市清見寺 家康手習いの間、梶原景時の血天井

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静岡市清水区興津 清見寺町の清見寺(せいけんじ)は1300年前、天武天皇が設置した清見関所が始まりです。

東からの脅威を防御していた関所と鎮護のお堂は清見寺となり、そして門前町が発展しました。

清見寺は、足利尊氏、今川義元公、徳川家康公の帰依を受けて繁栄し、朝鮮通信使、琉球使節への接待場所として使われ、駿河国の名刹としてその名を轟かせました。 朝鮮通信使の扁額なども残っています。興津宿パンフレットから

 

総門はJR東海の線路を挟んで南側にあります。

お寺から総門を見るとこんな感じ。

線路の向こうに総門が見えます。

東海道線ができるときお寺の土地を献納した結果,境内の中を電車が走ることになりました。

 

線路を跨いで、こちらが山門です。

 

仏 殿

天保13年(1842年)に再建されました。正面には釈迦如来の坐像(徳川家康 三女静照院寄付)を泰安し、両脇に迦葉、阿難の両尊者の像が安置されています。

 

左手に大方丈と呼ばれる十一面観世音菩薩の坐像が安置されているお堂があります。

大方丈の手前は大玄関で、天井板は清見関の古材を使用しています。

天井は血天井と呼ばれます。その理由は後で解説します。

清見寺は江戸時代の朝鮮通信使の休憩所でした。

鮮通信使は延べ11回にわたり、往路か、復路で立ち寄っていますが、1回目(1607年)と3回目(1624年)には往復路で使節の宿泊所として利用されました。

朝鮮通信使のルートは以下

国指定史跡 朝鮮通信使遺跡(興津清見寺境内)

江戸時代における平和的な日朝交流の象徴であった朝鮮通信使は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復するために徳川幕府側が提案した外交政策のひとつです。

清見寺は、徳川将軍の代替わりのたびに派遣された使節(朝鮮通信使)の休憩場所として何度も利用され、慶長12年(1607)に派遣された江戸時代最初の朝鮮通信使(当時の名称は回答兼刷還使)は、江戸からの帰路に清見寺で宿泊しました。

書画や漢詩に優れた朝鮮通信使と地域の人々との文化交流の場となった清見寺には、朝鮮通信使が書いた漢詩や、それを木に彫り写した扁額が多数遺されています。

清見寺は、当時の遺構が良好に残っていることから、福禅寺境内 (広島県福山市)、牛窓本蓮寺境内(岡山県瀬戸内市)とともに平成6年10月11日に、国の史跡に指定されました。

平成27年3月10日

静岡市教育委員会

 

咸臨丸 受難の碑です。

明治維新の際、清水港に於いて咸臨丸が明治政府の軍艦に砲撃され、20余名は格闘したが殺され官軍に海に投げ込まれました。

その霊をあわれみ明治20年榎本武揚らが清見寺において4月17日、記念碑の除幕と法要を営みました。

臥龍梅 家康公お手植えの梅とのことですが、いくらなんでも小さすぎないか?

 

梵鐘です。

5回目(1643年)の朝鮮通信使のメンバーだった朴安期(螺山)が書いた『瓊瑤(けいよう)世界』という扁額(へんがく)。「瓊(けい)」は「赤く美しい玉」、「瑤(よう)」は「揺らめくように美しい玉」をそれぞれ意味します。

大方丈の中です。

朝鮮通信使 詩稿 懸板

大玄関の中です。

 

血天井は血がついている訳ではなく、多分普通の天井です。

血天井の心理的効果を狙ってか周囲を朱色っぽくしてありました。

血天井

正治二年正月、梶原景時の一族鎌倉を出奔し西国に赴く途中、当所清見関にさしかかり一戦を交ふ。

この建物の一部は清見関の古材を使用すという。

現に戦いの血痕を天井板に留む。

鎌倉時代、梶原景時は弾劾を訴える御家人たちによって鎌倉を追われ、この地(実は北条時政の所領地)で戦闘になり一族33人とともに打ち取られました。

 

家康公が駿府に人質としていた時の手習いの間です。

本堂は改築されましたが、欄間、床、違棚は当時の物とのことです。

 

裏庭です。

ここにも家康公お手植え?の「かしわ」がありました。

ここからは書院です。

寺から海を眺めると護岸工事で分からなくなっていますが、昔は美しい海岸線が見られたことでしょう。

また、海の向こうには三保の松原を見ることができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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