劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑻

2021年11月09日 | オペラ
 声楽は器楽とは異なり文学的要素を伴う。歌曲における詞が音楽に導かれつつ人物の心情や情景など具体的な世界の表現を求めるからである。クラシック歌手はそれに十分応えているだろうか。音楽面の演奏にばかりとらわれて、詞を言葉としてよりも音として扱ったり、表面的理解に止まっていたりはしないだろうか。
 音符に付されている「ひらがな」からは詩の世界は現れない。楽譜をいったん置いて、音楽から自立した詞(の原稿)そのものに向き合わなければならない。その過程を経ないかぎり歌曲における心情や情景を描き出すことはできない。
 さらに、その作品が発表されるまでの経緯や背景を知ることは歌唱に直接関係ないかもしれないが、表現の奥行や深さを知ることに無関心でいられる歌手の演奏が空疎なものに終わってしまうことだけは明白である。

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き
雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ

 1913(大正2)年10月、楽曲『城ヶ島の雨』は発表された。詞・曲ともに歌曲史に残るこの佳品はどのようにして誕生したのだろう。作詞者・作曲者、そしてこの名曲を世に送り出したプロデューサーが、三者三様、その静謐な世界とは全く異なる激しく劇的な状況を生きていたのである。
 北原白秋は、詩集『邪宗門』『思ひ出』を刊行後文名が高まり、1913(大正2)年歌集『桐の花』で歌壇にもその名を馳せた。しかし、その前年、隣家の松下俊子と恋に落ち別居中の夫から告訴され一時未決監に拘置されるというスキャンダルを起こしていた。白秋は翌春に俊子と結婚し三浦半島の三崎に転居する。時に28歳。『城ヶ島の雨』はこの地で書かれることになる。

 作詞を依頼したのは早稲田が生んだ秀才で、大先輩の島村抱月。
抱月は、坪内逍遥が創設した文学部の講師を務めた後、英国オックスフォード大学・独逸ベルリン大学に留学。帰国後は文学部教授となり「早稲田文学」を復刊し、師・逍遥とともに「文芸協会」および「付属演劇研究所」を設立、新劇運動の口火を切る。(※1906~1909年。この頃、抱月の書生だった中山晋平は東京音楽学校予科(現・東京藝術大学・音楽学部)ピアノ科に入学。1912年、梁田貞らとともに卒業している)
 1913(大正2)年。当時42歳、順風満帆、飛ぶ鳥も落とす勢いだった境遇は、研究所の看板女優・松井須磨子との恋愛スキャンダルで一変する。妻子ある身の抱月は、師・逍遥と訣別し文芸協会を去り、須磨子とともに芸術座を結成する。この怒涛の時期に抱月は白秋に詞を、書生として育てた中山晋平の学友・梁田貞に曲を依頼している。『城ヶ島の雨』―白秋の詩にメロディがついたのはこれが初めてであった。
 翌年の1914(大正)4年以降、中山晋平も参加した芸術座は華々しい活動を展開する。抱月による脚色『復活』(原作:トルストイ)興行はヒットし、須磨子による劇中歌『カチューシャの唄』(作曲:中山晋平)は全国津々浦々に広まり、今でもレコードとして残っている。新劇の大衆化に貢献した抱月だが、演劇興行は責任者の体力を消耗させる。1918(大正7)年、全世界を襲ったパンデミック「スペイン風邪」に罹患、急性肺炎で命を落とす。享年47歳であった。

 『城ヶ島の雨』の作曲者:梁田貞は、東京音楽学校の受験に一度失敗した後、早稲田大学商科に一時在籍。1909年に本科声楽科ピアノ専攻科に入学。学友中山晋平とともに同校を卒業。府立一中・玉川学園・早稲田大学などで音楽教育に力を注ぎ、歌曲・童謡・校歌と旺盛な作曲活動による功績を残している。

 筆者の『城ヶ島の雨』との出会いは、高校時代の文化祭、講堂いっぱいにひろがるS.R.先生の歌唱(バリトン)であった。学校が横須賀久里浜にあり、白秋が身を寄せた三崎の仮寓も級友の家の近くということで、身近な世界であった。高校三年に出会った『城ヶ島の雨』は、卒業後レコードを買い求めターンテーブルに何度も乗せてそっと針を落とした。
 S.R.先生が白秋の三崎移住の事情を知っていたかどうかはわからない。しかし、歌うその横顔さえも長く心に残っていたのは、高校教師となったご自身のある孤独が聴き入っていた生徒に伝わったからではないだろうか。
 歌曲誕生の背景や詩人の思いを理解しておくことは絶対条件ではないが、演奏発表において、その歌曲と歌唱者自身の根底にあるものが共振するときのみ、歌は聴衆に訴える力を持つのである。

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