3人がそれぞれポジションにつき、ナカジとツッタカが無言の“せーの!”で右腕を振り下ろすと、安アンプの籠った薄い音とマイクで増幅された金属音が同じ音を繰り返して鳴り渡った。
一日体験で習ったアレンジだ。しかし、2人の音は明らかな別物で、本人も周りも同じ音程なのかもよく分からない。
「マイク、要るか?」
3人の頭に同じ思いが浮かび、少しバツ悪そうにツッタカがマイクをオフにした。
再び最初から始めたが、やはり変だった。金属音が生音になっただけで音が違い過ぎることには変わらない。
「ナカジのも要らないんじゃない」シュウジとツッタカが言った。
「何で?」
正しいことしかしていないナカジには極めて心外な意見だ。
そこにツッタカが「最初なんだから、柔軟に変えていいんだよ。気楽にいこうぜ」と言ってのけたのでさらにムッとした顔を返した。
「シュウジだってこれじゃん」とツッタカはけろりとシュウジのテーブルを指す。その向こうに座るシュウジは小物を並べた雑然としている席でへらへらしている。
ナカジはムキになっている自分に気が付いて肩から力を抜いた。ま、今回は仕方ない、お前らに合わせてやるよと言ってシールドを外した。
改めて練習は再開したが、ツッタカが一日体験のときより劣化していてまったく進まなかった。
今までの間、何もしていなかったようで習ったことをきれいに忘れていて、いちいち「コード一覧」で押さえる場所を確認している。
ナカジも3人でやるという緊張と生来の慎重さが災いして、そこここでもたついて間延びしているが、確実にその倍以上時間かかる上、かなりの頻度で間違える。
指導する人もなく、あまりにも締まりがない。
ツッタカが何度目かの手違いで止まると、ナカジも大きく息を吸い込んで手を止めた。
「初めから?」
多少なりとも責任を感じるツッタカがナカジに訊くたびに、ナカジは無言のまま据わった眼差しでこくこく、と頷いた。
一日体験の演奏はイントロ部分のみで、最後にドラムのパートを無理くり付け足したのだが、本来は、1コーラスが終わるまでシュウジの出番は無い。
しかし、なかなか曲は進まなかった。
「あの時はちゃんとできてたじゃん、そんなに難しくないんだから」とナカジはツッタカを促し、思っていた以上に忘れていることに気付いたツッタカの焦りと気まずさが弱みとなって、止まるたびに最初から始められる。
呑気に成り行きを見守っていたシュウジはすっかり置物と化していた。
「あのさぁ、とりあえず一遍、終わりまでやろうぜ。全部正しくなくても多少はいいじゃん、ツッタカが止まってもナカジが進めてればどっかでツッタカも合流するだろう。このままじゃ、繰り返してるうちに時間切れで終わっちゃうよ」
何十回目かのストップにシュウジがたまりかねて言うと、ナカジは仕方なく同意し、ツッタカは安堵した。
ナカジは家で1人で弾いていたときは、それなりにちゃんとできているつもりでいたので、ツッタカに腹を立てながらムキになっていたのだが、実際は家でも正しいポジションを押さえるまで無意識に必要なだけ時間を掛けていたし、間違ってもいた。本人が気づいていないだけだ。
一日体験でやったイントロが過ぎても誰も歌いださないまま進んだ。
いや、微妙に3人から声は出ている。けれど、それは歌でなくて開けたままの口から洩れる溜息と吐息だった。
ナカジはハナから歌う気が無いし、ツッタカはナカジに付いていくだけで精一杯で歌うどころでない。
やっとシュウジの出番がきた。
ボッ……ボッ……ボッ……
本来ならハイハットシンバルの乾いた音が刻まれるところだが、聞こえてきたのは、長年にわたって使い古され、ボワボワに空気を含んだ歌本の消音されたような打音だった。
その低いくぐもった音がバスドラのマイクを通してエコーを効かせてスピーカーから出て来る。
ツッタカとナカジの目が一瞬、宙を泳ぎそうになったが、タブ譜とネックから目を離せられない。
ナカジとツッタカの頼りないギターにシュウが合わせようというつもりで入るが、譜面の理解に追いつかないし手を合わせきれない。ナカジもツッタカもシュウジのリズムに合わせようとしてさらに迷いが生じた。
やがてスネア、バス、ロータムが加わり音色と音数が増えていく場面が来て、カラオケボックスの狭い室内にはマイク、灰皿、トレーを叩く音が加わった。
「誰の音も耳に入れるな。自分を信じるんだ」
ナカジは四方からの大波に抗う船長のような心情にさえなっていた。
ツッタカもナカジもソロ部分は別段階なので、自然とその前で演奏は終わった。
「結構、できてるんじゃない」
ツッタカがケロリと言ったのでナカジは冗談かと見返したが、本人は本気のようで、ついでにシュウジも満足そうににやついて「最初だし、こんなもんでしょ」とのたまった。
もう一度やろうと言うナカジを、休憩、その前に何か飲もう、とツッタカが遮った。「指も痛いし手にもきたよ、一休みだ」。
ギターを降ろし、コードを押さえていた左手の指先を親指でなぞって言う。ああ、と、ナカジも左手を握ったり開いたりした。
確かに、今までになく関節は強張り、指先も弦の痕がくっきりと残って痛い。そこで初めて自宅で弾いているのと、気持ちも時間も全く違っていたことに気付いた。自覚すると軽い疲労感まで生じてきた。
「何頼む?」シュウジが受話器を手に訊いた。
「俺、ウーロン茶」ツッタカが応える。
「俺もそれでいいや。もう少し慣れて、ギターソロが入ったら、かなり格好良くなるな」
ナカジの言葉にツッタカも頷いた。2人とも当たり前すぎて口にすら出さないが、どちらも自分が弾くと思っている。
俺がしっかりしないとこのバンドは成り立たないとナカジは思いを深め、パッションが炸裂してこそが“ハイパーテンション”というのがツッタカの信条だ。
シュウジが飲み物をオーダーしてソファに戻ってきた。
「ところでさ、誰が歌うの?」
シュウジが訊くとツッタカが不意を突かれた顔になった。「え、皆だよ」。
今度はシュウジが不意を突かれた。
「お前じゃないの? 前んときはお前だったじゃん」前のときとは、高校生の時だ。
「そうだったけ? まあ今回は、特定のボーカルは考えてなかったよ、誰がっていうより3人でガンガンに歌えばいいじゃん」
「はぁ?」
シュウジが間抜けた声を上げようとした時にノックの音がして、若い男の店員が入ってきた。部屋の様子に目を走らせながら、3つのジョッキをテーブルに置いた。
「……バンド、すか?」
こらえきれずに店員が尋ねた。受付したときから気になっていたようだった。
「え、ああ、まぁ、そんなとこ」
ツッタカはちらりとその若者を見ると、脚を組んでソファにもたれ、さりげなさそうに髪をかき上げながら答えた。
格好の付け方が古いなあとシュウジが肚の中で呟く。薄毛の天パのくせに。
「マイク、そこで使うんすか?」
腰の高さに合わせたマイクを不可解な目で見ながらさらに訊いてきた。
「ああ、アンプなんて重くて持ち歩けないからね。これに繋げたら楽なんだけど、適当なコードとかないの?」
嘘つけ、持ってないくせに。シュウジとナカジが呆れて2人から距離を取り、聞き耳だけ立てる。ツッタカは真面目なのかふざけてるのか、いまいち分かりにくい。相変わらずの変人ぶりだが。
「……」
店員は話が面倒になりそうな気配を察知したのか、聞こえない振りしてさっさと出て行った。
「悪い考えじゃないと思うけどな、だいたい、バイトだろうが、客前に立つんだからしっかり対応しろってんだよなあ」
期待外れではあったけど、言葉ほど怒ってもなくツッタカが自分のウーロン茶を取り上げて言った。
「お前のそれ、ノンアルコール? フリードリンクにあったの?」
シュウジのジョッキを見たナカジが訊いた。
「んー、多分、第3のやつだ。差額を払えば大丈夫なんだって」
シュウジがけろりと答えた。
「で、ボーカルは決めないで、適当にやるってこと?」
呆気にとられるナカジを放っておいてシュウジがツッタカに改めて訊いた。自他ともに認める音痴のナカジにとってボーカルは他人事でもあって、関心は薄かった。
「ハイパーにガンガンやるのがいいんだからさ、メインがどうっていうことじゃないんだな」
ツッタカはそれなりの完成形をイメージしているようだった。
だけど、シュウジとナカジにはしっくりこない。声をそろえて合唱でもあるまいし、音楽に疎い自分でも間抜けな気がする。
結局、グダグダのどっちつかずになって、歌も演奏もボロボロになっていくようにしか思えない。
「つまり、3人が好き勝手に歌うってことか?」
シュウジが飲んでたジョッキをテーブルに置いて訊いた。
「メインを決まるのもありきたりだけど、歌いたいヤツが歌いたいように歌うってのがいいのさ。
とにかく、ハイパーにガンガンいくのが本筋だから。3人のシャウトなボーカルがあいまって、掛け算の効果になっちゃうんじゃない。
今はまだ始まったばかりだけど、もう少し慣れて歌にも力が入っていけたらハイパーロックに進化していくわけなんだな」
ナカジは首を傾げるしかなかった。うまいように聞こえて細部の詰めが甘い。
確かに聞いてるとワクワクしてくるけど、すべて自主性ってことは責任者不在てわけだし、第一、何曲やるのか知らないけど、全曲終始3人で絶叫するのは無理だろう。
1曲だってできるかどうか怪しい。すべての可能性を広げているようで、焦点をうやむやにしている。
「でたな、妖怪・適当先延ばし」
言おうとしてハッとして、ツッタカのウーロン茶を奪って一口飲んだ。やっぱり。くせの強い焼酎が混じっている。
「お前これ……」
「いいだろ、昨日まで働いてたんだもん、ちょっと足しただけだよ」
ツッタカが当然の権利を侵害された口調で取り返した。ナカジが覗くと開いたギターのソフトケースの中にそば焼酎の小さなペットボトルがあった。
「あれれ、その手があったか。なるほど、流石だなあ」
横でシュウジが感心した声を上げている。
「さて、もうちょっとやるか」と、ナカジは立ち上がってギターに手を伸ばした。時間だってまだ半分以上残っている。
「せっかくだから、歌も練習しとこうよ」ツッタカが言う。
「ボーカルオーディションかぁ?」
にやにやとシュウジも操作端末を取り上げて座り直した。
ツッタカは、今はこうなのかとシュウジの手元を覗き込み、感心しながらあれこれ注文を付けている。ナカジはすっかり輪から外れてしまった。
「じゃ、お先」
シュウジがマイクを持って立ち上がった。
ナカジは歌う気がないのでオケと一緒に弾こうとギターを抱えたら、いきなり大音量のトランペットが流れ始めた。
「?」
驚いてモニターを見ると、激しく波がぶつかり合う時化の中を小さな漁船がエンジン全開で突き進んでいた。
「♪波のぉ、間に間にーーいのちの花がぁーー……」
急に真面目な顔になったシュウジが肩をゆすって緊張をほぐし、モニターに向って高らかに声を張り上げた。
『ビートルズじゃないんだ…… さっきより本腰入れているし』
虚を突かれたナカジの視界の隅に新たな文字が現われた。
「NEXT→『熱き心に』」
これって、小林旭? 訊こうにもナカジの通らない声はカラオケの爆音に紛れしまい、誰にも気づかれず口だけがもごもご動いている。
ナカジの様子に気付いたツッタカが当然のように「先ずは、声を出す練習さ、ナカジも歌えよ」と言って、半ば強引にマイクを押し付けた。
狭い室内に気持ちよさげにろうろうと歌うシュウジの声が鳴り響き、ツッタカは順番を待ちながらさらに歌を選んでいる。
ナカジは2人についていけず、ギターを触る気も失せて、少し離れてソファの背にもたれて座り直すと、いよいよ手持ち無沙汰になった。
これじゃまるで借りてきた猫だなと、思う傍からそれもちょっと違うかと、自分で自分にツッコミを入れてみる。
『雪国』が終わり、ようやくツッタカが『レットイトビー』を入れた。
「シュウジとナカジも歌っていいんだからな」と言ってナカジにもマイクを握らせて、モニターの前に立った。機械から自分たちのとは別物の、聞き慣れた前奏が流れ出した。
「♪ウエナ ファインマイセル イン ターイム トラブルー マザメリ カムズ トゥ ミー……」
ツッタカの歌に2人は驚いた。
ところどころ省いてはいるが、ほとんどベタなカタカナ英語で歌い上げている。音程はあっているけど、本来の発音を一切無視した音数のせいで随所に字余りを起こし、その部分はお経のような不思議な棒読み、いや、棒歌いになっている。
演歌はそれなりに普通に歌っていたのに、歌詞が英語になった途端、別物になっている。『レットイトビー』って、こんな歌だったっけ?
ツッタカは仁王立ちのまま力強くマイクを握り、真剣な顔で歌い続けている。傍から見て、特に意図的に変えている意識もなさそうだった。
ツッタカが歌うのを聞いたのは今日が初めてだけど、こんな歌い方の『レットイットビー』を聞いたのも今日が初めてだった。
「ヒューッ! ♪オウッ レルッビー レルッビー レルッビー レルッビー ……ウー」
ツッタカの歌にシュウジがノリよく合の手を入れながら歌いだした。
“ウー”って……え、合いの手?
打ち合わせもなく始まった2人の掛け合いに、ツッタカとシュウジを交互に眺めながらウーロン茶を飲もうとして、自分もマイクを握っていたことに気が付いた。
マイクをテーブルに置きながら、ナカジは1人でもギター教室に通おうと、強く心に決めたのだった。