ユマニチュード「人間らしさ」とは何か?
介護施設で働く介護職員で、高齢者の部屋に入る際にドアをノックをする人は何割くらいだろうか?
自分が勤める特養(特別養護老人ホーム)では、1割にも満たない。
ドアを閉めてしまうと部屋の中の様子がわからないからと、ドアをわざと開け放している職員もいる。
昔の特養は学校の教室のような作りで、外から中が見え、入居者同士のベッドもカーテンで仕切られただけだった。
ドアはあることはあっても、部屋の中にトイレが無いため、車椅子やシルバーカーを押す人が出入りしやすいように夜間も開け放しにされていて、誰かが閉めてしまわないようにヒモで縛ってあるドアもあった。
今はユニット型といって個室を基本とした物や、多床室でもプライバシーに配慮した作りが多くなってきている。
オムツ交換や備品の補充、洗濯物を戻すために介護員は1日に何度も居室に出入りする。
高齢者の居室とはいえ、施設の中にあるので、家の中の扉やふすまを開ける感覚なのだろうか、ノックをしない職員は多い。
自分はこの本を読んでから、気を付けるようになったことが5つある。
・入居者の部屋に入る時はノックをする
・介助をする時は目線をつかまえる
・常に話しかける(これから何をするのか、介助の手順を口に出す、ありがとうとお礼をいう)
・足や手といった体の中心から遠い部分に触れてから介助する(いきなり触れない)
・部屋を出るときに「また来ます」など声をかける。
これがその本。
イヴ・ジネスト 著
ロゼット・メレスコッティ 著
「『ユマニチュード』という革命」
認知症高齢者との心の通わせ方を「技術」として確立させた「ユマニチュード」を紹介した本だ。
患者に話しかける時間は1日平均120秒
「ユマニチュード」とはフランス語で「人間らしさ」という意味らしい。
認知症患者の中には、話かけても反応の無い人がいる。
言ってることが支離滅裂で、会話が成立しない人もいる。
そういう人を介助するとき、介護人はえてして無言になりがちだ。
石やタンスに話しかけても仕方がない。
反応のない物に対した時、人は無駄だと判断する。
しかし、著者のイヴ・ジネスト氏が話しかけると、それまでベッドに寝たきりで立つことのなかった患者が立ち上がり、あまつさえ自力で歩き出す。
彼がやったことはただ一つ。
「立って下さい」
と話しかけただけだ。
それまで誰も患者に「立って下さい」と声をかけなかった。
なぜなら話しかけても無駄だと思っていたからだ。
患者も「立って」と言われないのでずっと寝ていた。
その瞬間、患者が「物」から「人間」に変わったのだ。
この本の中の調査では、ある病院で看護師が患者に話しかける時間は、1日平均120秒だった。
「本人のため」は介護員の勝手な思い込み
この本には、認知症患者に受け入れてもらえるようになる技術が具体的に書かれている。
「認知症の患者で攻撃的な人はいない」
入浴介助の時に暴れて介護員を引っ掻いたりつねったりする人。
オムツ交換の時にズボンを脱がされまいと必死につかんだり、介護員の手を振り払おうとする人。
介助の度に大声で叫び、助けを求めたり罵声を浴びせかけてくる人。
介護員は高齢者の手をつかみ、何とか服を脱がせて入浴させたりオムツを替えようとする。
彼らは鬼でも悪魔でもない。
本人のためを思って清潔に保とうと奮闘しているつもりなのだ。
では高齢者の方はなぜ抵抗するのか?
彼らは何も理解できず、認知症によって攻撃的になっているだけなのだろうか?
こうした行動は「自分を守るための自己防衛」であり、問題はケアをする側の理解不足、技術不足にある。
知らない人にいきなり服を脱がされそうになったら誰でも抵抗する。
まだ介助に入る準備ができていないのに、ケアする側がその前段階を飛ばしてしまっているからだ。
ケアをする場合、高齢者がそれを受け入れる体制ができるまで待つ必要がある。
上記のドアをノックすることも前段階の一つだ。
これを「視覚のトンネル」と表現し、まず認識してもらう技術として、目線をとらえることの重要性が説明される。
介助に入る場合、触れる場所にも順番がある。
いきなり足を広げられてオムツ交換を始められたらどんな気持ちがするだろうか?
まずは顔や陰部といったプライベートな部分から遠い場所、社会的に触れても許される肩や手の甲といった所から触れていく。
「私は敵ではない」ということを伝えて受け入れてもらう。
そのためにも様々な形でのコミュケーションが重要になってくる。
「技術」としてのユマニチュード
コミュニケーションといわれても、介護職の中には高齢者のケアをしている最中、何を話していいのかわからないという人もいるだろう。
自分も最初はそうだった。
無言で体を洗われたり、無言でオムツ交換をされる立場になって考えてみて欲しい。
まるで存在を無視されているような、物扱いされているように感じないだろうか。
ユマニチュードで紹介されているのは「自分の動きの実況中継」だ。
「これから腕を洗いますね」「腕を上げます。左腕からです。手の甲から洗いますね」
これなら介助中、ずっとしゃべっていられる。
独り言と違うのは、相手がいて初めて成立する会話だということだ。
大切なのは「あなたのことを大切に思っています」と相手に伝えること。
そのためのコミュニケーションの技術をユマニチュードは教えてくれる。
認知症の患者は人の顔や名前、出来事などは忘れてしまうが、その時受けた感情だけは覚えている。
挨拶やノックをすることで「あなたを一人の人間として大切に思っています」と相手に伝え、コミュニケーションで「この人は敵では無い」ことを受け入れてもらい「また会いましょう」とケアの最後に伝えることで期待の喜びを感じてもらう。
次に会う時は「初めて会う人」に戻ってしまうとしても、その時の感情は印象に残っている。
すべてのケースにユマニチュードが当てはまるわけではなと思うが、実際に現場で試してみて、この方法はかなり使える。
自分のように対人関係が苦手、コミュケーションの方法がよくわからないという人には、性格に関係なく「技術」として身につけることができるのでオススメだ。
ただ、本の中にも書かれているが、これはあくまでプロとしての「技術」だ。
相手の感情を傷つけないために自分が傷ついても我慢するとか、奉仕の精神を推奨しているわけでもなんでもない。
むしろその逆だ。
うまくいけばそれでいいし、うまくいかなくてもしょうがない。
技術を提供し、患者が介助を受け入れてくれるようになる場合もあるし、ならない場合もある。
あくまでそれを決めるのは患者自身であり、患者を中心にケアを考える危険性にも触れている。
もちろんケアする側の思い通りに患者を動かすための技術でもない。
ケアする側とそれを受ける側の絆を結ぶための技術、それがユマニチュードだ。
介護初心者だった自分が介護をする上でとても参考になっている。
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介護施設で働く介護職員で、高齢者の部屋に入る際にドアをノックをする人は何割くらいだろうか?
自分が勤める特養(特別養護老人ホーム)では、1割にも満たない。
ドアを閉めてしまうと部屋の中の様子がわからないからと、ドアをわざと開け放している職員もいる。
昔の特養は学校の教室のような作りで、外から中が見え、入居者同士のベッドもカーテンで仕切られただけだった。
ドアはあることはあっても、部屋の中にトイレが無いため、車椅子やシルバーカーを押す人が出入りしやすいように夜間も開け放しにされていて、誰かが閉めてしまわないようにヒモで縛ってあるドアもあった。
今はユニット型といって個室を基本とした物や、多床室でもプライバシーに配慮した作りが多くなってきている。
オムツ交換や備品の補充、洗濯物を戻すために介護員は1日に何度も居室に出入りする。
高齢者の居室とはいえ、施設の中にあるので、家の中の扉やふすまを開ける感覚なのだろうか、ノックをしない職員は多い。
自分はこの本を読んでから、気を付けるようになったことが5つある。
・入居者の部屋に入る時はノックをする
・介助をする時は目線をつかまえる
・常に話しかける(これから何をするのか、介助の手順を口に出す、ありがとうとお礼をいう)
・足や手といった体の中心から遠い部分に触れてから介助する(いきなり触れない)
・部屋を出るときに「また来ます」など声をかける。
これがその本。
イヴ・ジネスト 著
ロゼット・メレスコッティ 著
「『ユマニチュード』という革命」
認知症高齢者との心の通わせ方を「技術」として確立させた「ユマニチュード」を紹介した本だ。
患者に話しかける時間は1日平均120秒
「ユマニチュード」とはフランス語で「人間らしさ」という意味らしい。
認知症患者の中には、話かけても反応の無い人がいる。
言ってることが支離滅裂で、会話が成立しない人もいる。
そういう人を介助するとき、介護人はえてして無言になりがちだ。
石やタンスに話しかけても仕方がない。
反応のない物に対した時、人は無駄だと判断する。
しかし、著者のイヴ・ジネスト氏が話しかけると、それまでベッドに寝たきりで立つことのなかった患者が立ち上がり、あまつさえ自力で歩き出す。
彼がやったことはただ一つ。
「立って下さい」
と話しかけただけだ。
それまで誰も患者に「立って下さい」と声をかけなかった。
なぜなら話しかけても無駄だと思っていたからだ。
患者も「立って」と言われないのでずっと寝ていた。
その瞬間、患者が「物」から「人間」に変わったのだ。
この本の中の調査では、ある病院で看護師が患者に話しかける時間は、1日平均120秒だった。
「本人のため」は介護員の勝手な思い込み
この本には、認知症患者に受け入れてもらえるようになる技術が具体的に書かれている。
「認知症の患者で攻撃的な人はいない」
入浴介助の時に暴れて介護員を引っ掻いたりつねったりする人。
オムツ交換の時にズボンを脱がされまいと必死につかんだり、介護員の手を振り払おうとする人。
介助の度に大声で叫び、助けを求めたり罵声を浴びせかけてくる人。
介護員は高齢者の手をつかみ、何とか服を脱がせて入浴させたりオムツを替えようとする。
彼らは鬼でも悪魔でもない。
本人のためを思って清潔に保とうと奮闘しているつもりなのだ。
では高齢者の方はなぜ抵抗するのか?
彼らは何も理解できず、認知症によって攻撃的になっているだけなのだろうか?
こうした行動は「自分を守るための自己防衛」であり、問題はケアをする側の理解不足、技術不足にある。
知らない人にいきなり服を脱がされそうになったら誰でも抵抗する。
まだ介助に入る準備ができていないのに、ケアする側がその前段階を飛ばしてしまっているからだ。
ケアをする場合、高齢者がそれを受け入れる体制ができるまで待つ必要がある。
上記のドアをノックすることも前段階の一つだ。
認知症患者の場合、見えていても聞こえていても、注意が向いていないと認識されない。
これを「視覚のトンネル」と表現し、まず認識してもらう技術として、目線をとらえることの重要性が説明される。
介助に入る場合、触れる場所にも順番がある。
いきなり足を広げられてオムツ交換を始められたらどんな気持ちがするだろうか?
まずは顔や陰部といったプライベートな部分から遠い場所、社会的に触れても許される肩や手の甲といった所から触れていく。
「私は敵ではない」ということを伝えて受け入れてもらう。
そのためにも様々な形でのコミュケーションが重要になってくる。
「技術」としてのユマニチュード
コミュニケーションといわれても、介護職の中には高齢者のケアをしている最中、何を話していいのかわからないという人もいるだろう。
自分も最初はそうだった。
無言で体を洗われたり、無言でオムツ交換をされる立場になって考えてみて欲しい。
まるで存在を無視されているような、物扱いされているように感じないだろうか。
ユマニチュードで紹介されているのは「自分の動きの実況中継」だ。
「これから腕を洗いますね」「腕を上げます。左腕からです。手の甲から洗いますね」
これなら介助中、ずっとしゃべっていられる。
独り言と違うのは、相手がいて初めて成立する会話だということだ。
大切なのは「あなたのことを大切に思っています」と相手に伝えること。
そのためのコミュニケーションの技術をユマニチュードは教えてくれる。
認知症の患者は人の顔や名前、出来事などは忘れてしまうが、その時受けた感情だけは覚えている。
挨拶やノックをすることで「あなたを一人の人間として大切に思っています」と相手に伝え、コミュニケーションで「この人は敵では無い」ことを受け入れてもらい「また会いましょう」とケアの最後に伝えることで期待の喜びを感じてもらう。
次に会う時は「初めて会う人」に戻ってしまうとしても、その時の感情は印象に残っている。
すべてのケースにユマニチュードが当てはまるわけではなと思うが、実際に現場で試してみて、この方法はかなり使える。
自分のように対人関係が苦手、コミュケーションの方法がよくわからないという人には、性格に関係なく「技術」として身につけることができるのでオススメだ。
ただ、本の中にも書かれているが、これはあくまでプロとしての「技術」だ。
相手の感情を傷つけないために自分が傷ついても我慢するとか、奉仕の精神を推奨しているわけでもなんでもない。
むしろその逆だ。
うまくいけばそれでいいし、うまくいかなくてもしょうがない。
技術を提供し、患者が介助を受け入れてくれるようになる場合もあるし、ならない場合もある。
あくまでそれを決めるのは患者自身であり、患者を中心にケアを考える危険性にも触れている。
もちろんケアする側の思い通りに患者を動かすための技術でもない。
ケアする側とそれを受ける側の絆を結ぶための技術、それがユマニチュードだ。
介護初心者だった自分が介護をする上でとても参考になっている。
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