リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十七 天命開別天皇 十四 ・天智天皇6年の出来事 一



日本書紀 巻第二十七 
天命開別天皇 十四

・天智天皇6年の出来事 一



六年春二月二十七日、
天豊財重日足姫天皇
(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
間人皇女
(はしひとのひめみこ)とを

小市岡上陵
(おちのおかのうえのみさざき)に
合葬しました。

この日、
皇孫の大田皇女(おおたのひめみこ)を
陵の前の墓に葬りました。

高麗、百濟、新羅は、
皆、路で哀しみを奉じました。

皇太子は群臣に語って
「我が、
皇太后天皇が
勅(みことのり)したことを奉じて、

萬民を
憂恤(ゆうじゅつ)した故に、
石槨(いわき)の役(えだち)を
起こさなかった。

冀(こいねが)う、
永代の鏡誡(きょうかい)とするように」
といいました。

三月十九日、
近江に遷都しました。

この時、
天下の百姓は遷都することを願わず、
諷諫(ふうかん)する者が多く、
童謠もまた多かったです。

日々、夜々、
失火するところも多かったです。

六月、
葛野郡(かどのこおり)が、
白䴏(しろつばくらめ)を
献(たてまつ)りました。

秋七月十一日、
耽羅(たむら)は、
佐平(さへい)の椽磨(でんま)等を
遣わして、
貢を献(たてまつ)りました。

八月、
皇太子は、
倭(やまと)の京に幸しました。

冬十月。
高麗の大兄(だいけい)の
男生(なんしょう)は、
城を出て国を巡りました。

ここにおいて、
城内の二の弟は、

側で助ける、
士大夫(ひとども)の悪言を聞いて、
入ることを拒みました。

これによりて、
男生は、
奔(はし)り、

大唐(もろこし)に入り、
その国を滅ぼそうと謀をしました。



天豊財重日足姫天皇
(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
皇極・斉明天皇。中大兄皇子の母)
・間人皇女(はしひとのひめみこ)
孝徳天皇の妃=で中大兄皇子の同母妹
・大田皇女(おおたのひめみこ)
天智天皇の娘で大海人皇子、後の天武天皇の妃
・憂恤(ゆうじゅつ)
心配すること。憂えること。同情すること。あわれむこと
・石槨(いわき)
=せっかく・石でつくった、棺を入れる外箱)の役(えだち・民を使役すること
・役(えだち)
民を使役すること
・鏡誡(きょうかい)
いましめ
・諷諫(ふうかん)
遠まわしに言って、いさめること
・葛野郡(かどのぐん)
京都府京都市右京区辺
・大兄(だいけい)
長男
・士大夫(ひとども)
=したいふ・旧中国における支配階級の称。 古代社会には天子・諸侯の下に大夫・士・庶民があったという伝えに基づく)
・耽羅(たむら)
済州島



(感想)

天智天皇6年六年春2月27日、
皇極・斉明天皇と間人皇女とを
小市岡上陵に合葬しました。

この日、
皇孫の大田皇女を陵の前の墓に葬りました。

高麗、百濟、新羅の使者は、皆、
路で哀しみを奉じました。

皇太子は群臣に語って
「我が皇極・斉明天皇
勅したことを奉じて、

万民を心配し、
あわれんだがゆえに、
石室を造るの使役を起こさなかった。

請い願う、
後世に永く戒めとするように」
といいました。

3月19日、
近江に遷都しました。

この時、
天下の百姓は、
遷都することを願っておらず、

遠まわしに諌める者が多く、
童謠もまた多かったです。

日々、夜々、
失火するところも多かったです。

不満による
放火ですかね。

6月、
葛野郡が、
白いツバメを献上しました。

秋7月11日、
耽羅は、
佐平の椽磨らを派遣して、
貢を献上しました。

8月、
皇太子は、
倭の京に行幸しました。

冬10月。
高麗の長男の男生は、
城を出て国を巡視しました。

ここにおいて、
城内の二人の弟は、

側で助ける士大夫の悪い言葉を聞いて、
男生が入ることを拒みました。

こういうわけで、
男生は、出奔して、大唐に入り、
その国を滅ぼそうと謀をしました。

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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