鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅲ183] 我がメメントモリ(50) / 人間の原風景

2022-10-09 13:41:09 | 生涯教育

高見順は先に掲げた日記のなかで、詩とも覚書とも思えるこんな一文を記している。

「屠殺場の牛の 撲殺される直前の あのやさしい おだやかな 静かな眼を思い出す。ヒンズー教徒が牛をあがめるわけが分る気がする。あの眼の意味が分れば、私にも死の意味が分るだろう。」死と四つに組んで対峙していた高見順には、この時死の意味が分かったのだろう。

山形の蔵王山の麓にある家族のお墓や近くの神社のある低山に登ると山形市内の風景が一望できる。そこから望むと近年風景が大きく変わってきたことに気づく。市内にはかつて疎水が多く見られたが、最近ではこの疎水が消えた。母の家の近くのリンゴ園は伐採されて太陽光パネルに覆われた有料駐車場になった。近くの低山には高速道路が走り広い田んぼが商業団地になった。山形盆地に広がる田畑の真ん中を物凄いスピードで新幹線が走り抜けていく。四十年以上前に毎週末に幼い敬一と静雄たちのところへ、ノロノロ走る夜行列車で通ったことが夢のようだ。山形と宮城にまたがる蔵王山の山麓近くに、関西電力が巨大な風力発電機を設置する計画があると聞く。地域住民の反対運動が起きている。

このような変化を目の当たりにしてボクは何故か胸が痛むときがある。これは何故なのだろうかとしきりに考える。

便利で快適で平安な社会を懸命に作り出そうとしてきたのは人間だ。人間はそのような社会を欲し造りそこに適応してきた。次々とコンクリートの被造物を作り、人間の居住する環境を変えてきた。これが文化の高さだと言わんばかりに、言い知れぬ奇体な建物は高さを競っている。が、少しも美しくない。百年二百年千年の森が伐採されて、その跡地を買い占めた商社ゼネコン不動産企業が、超高層マンションを建てている。が、近くを歩くだけで圧迫感がひどく眩暈がする。

霞が関政治家・官僚と政商と自治体首長がはしゃいでスマートシティなる構想があちらこちらで動き出した。何せゼネコンも商社も不動産企業も大手広告代理店も、活動を止めれば自死するしかないので、スクラップ化しリビルドできる土地空間を血まなこになって漁っている。視野は誠に狭窄状態である。古からの森林を守るとか、歴史的建造物や街並みもを保護するといった七面倒な事は限りなく無視する。そしていずれ人工的な都市が完成する。スマートシティに人は嬉々として入植し、凡庸な横並びの同じような顔をして犬猫に洋服を着せて老若男女がぬくぬくと至福の時を過ごす。ここは全てが自動化され電化されIT化されている。道路の設計上交通事故もない。ここでは長寿を生き切って自然死を迎えることは困難となる。80歳とか85歳の年齢に達すると、安楽死を勧奨する法令のもとで、共同幻想に基づく同調圧力によって人間は痛みもなく苦しくもない安楽な死の道程を黙って辿らされる。子どもを「生む」ことも自由ではなく、遺伝病のない”正常”で”健全”な子どもしか産めなくなる。結婚もスマートシティ条例によって規制され管理されることになる。人は愛の歌を忘れるようになる。

習近平中国ではこれらが既に実行されている。市民国民生活は全て国家によってコントロールされる。コンビニで物を盗むと顔認証システムが稼働して数分後に警察がやってきて逮捕される。空き巣狙いや交通違反も同様だ。だから犯罪もなくなる。そして人間は心の「自由」という苦しい桎梏からも解放されるようになる。国家が「子は一人だけにせよ、それ以上産んだ者には罰則」と決めるのでこれに従う。だからとても「自由」だ。事ほど左様に人生のエポックの全てが国家によって管理されて”自由で安楽な”生活を送るようになる。このconceptは今や月火星木星での生活に転用されることになっている。

習近平中国や日本のスマートシティ構想は”完成された理想郷”としての人工の”自然”である。だがボクには「奴隷」の生活のように見える。人間は、途方もなく長い時間を先祖の先祖から生きてきた“人間の原風景”が刷り込まれていることを無意識が覚えている。その“原風景”とは、人間の”罪”とか”業”にもだえ続ける人間の記憶でもある。平穏な生活をいとも簡単に破壊する自然の力への恐怖であり畏怖でもある。太陽は潤った土地を乾上らせ砂漠と為す、地殻は轟いて地を割り山を崩す、地殻は崩壊して津波を起こし人間の生活する土地を圧倒的な海水で覆う、風雨は河を氾濫させ森林の木々を押し倒す‥‥このような苛酷であり清冽な自然との共存生活のまがまがしくも時に清々しい記憶だ。

そもそも今のような人工的な環境の下で生活するようになったのは、日本の場合でもたかだか百年、いや考えようによっては数十年のことではないか。それに比べればボクたちの祖先は、何千年何万年もの間、人間の所作によって傷めつけることのできない自然との共生の時間を営々と経てきているのだ。人間の被造物だらけの今の人工的な物体が、いかほどのものを人間に語りかけてくるというのだろう。

どのような立派で快適なスマートシティに人間が生活して生きても、人間の“原風景”は必ず”死の復権”を叫ぶだろう。これは人間の”生”を逆照射する怒りを含んだ声だ。

高見順の書いた、殺される前の牛の眼の意味とは、このようなことではなかったか。


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