ユング心理学の研究者の河合隼雄さんが、『魂にメスはいらない』(講談社、1993)という谷川俊太郎さんとの対談集の中で、こんなことを話していた。
「われわれ日本人の死生観の中にも、死というものが一種安心に通じているという感覚がどこかにあるような気がするんです。たとえば墓参りをするときも、ただ縁起が悪いとかいうんじゃなくて、どこか安心したいという感じがあって墓参りにいくということが、ぼくなんかの経験でははっきりあるんです。だから、そういう面から死というものをもういっぺん考えるべきじゃないのか。」
こう語りながら河合さんは、ボクたちの世界観のなかに、死後の生命の存在というものを組み込んだ“曼荼羅”をつくる作業の大切さを述べている。
死後の生命の存在、この言葉ほど今の日本人の生活感覚と程遠いものはないだろう。死は人間の生物学的な生命の断絶だけと考えるかぎり、死は遠く厭うべき事柄でしかない。路上で霊柩車に出会ったら”エンガチョ”と言って親指を握ってやり過ごすといった死の捉え方しか生まれてこないのは当然だ。死はただ悲しくて残忍で忌避すべきものだ、どうせ死ぬんだし、死ねばゴミになるだけだ、それまで死は遠ざけておこう、と。
しかし死はただそれだけのものなのだろうか、とボクはこの頃思っている。若菜の死はそれは悲しく苦しいもので、彼女が斃れてからボクが起き上がるのに時間は相当かかった。若菜も幼い二人の子を残していく無念はどれほどのものだったろう。当時6歳と1歳の二人の息子も各々母の死に痛恨の傷を受けたことも想像に難くない。こうしたことを思えば今でも胸がつぶれる思いがある。
しかし、である。ボクは若菜の死によって多くのものを戴いたことに驚いている。人間はいずれ死ぬ、死は避けることはできない、だから今日生きていることが、かけがえのないものなのだという感覚を、ボクは彼女の死から戴いた。そして死は生の断絶ではないし、生のなかに死を織り込んで生活しているという感覚も、ボクの中にはっきりある。そしてボクは若菜と父母の墓前で、遺された我が家族の健康と良き人生を見守ってもらうように祈り、楽しかった往時の生活のあれこれの場面を思い起こして心で話しかけ、若菜や父母からの細い声掛けに応えてしばしの時を過ごすようになっている。これも若菜と父母の死から戴いた“恩寵”である。
岩手県花巻市には宮沢賢治が花巻農学校を退職した後生活した自宅が遺されている。この自宅には白いチョークで「下ノ畑ニ居リマス 賢治」と書かれた黒板が懸かっている。この黒板を見たときにボクは宮沢賢治が遠い昔の人であることを忘れ、家の裏側の畑にあの難しそうな顔をした賢治の姿を探したものだ。
内村鑑三翁は妻・しづとの33年目の結婚記念日の日記に、しづとの間に生まれ早逝したルツ子に触れて「ルツ子は天国に在りて不在」と記している(内村鑑三全集34、p.386、日記)。
そうだ、ボクの位牌には妻の桜子との連名で「天国に居ります」と書いて生前に作っておこう。