【日本国記】 第二章  8 秦と幡多3・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―   土方水月  

 

 

8 秦と幡多 3

 

 一般にはB.C.3世紀にやってきたといわれる秦氏は実際にはもっと以前から日本列島にやって来ていた。イエスの時代よりはるか前、B.C.722年北のイスラエル王国が滅んでから散り散りになったイスラエルの民は東へ東へと逃れ、エブス人として日本列島に”渡来”していたという。その後に”渡来”した者たちから追われ、彼らは今の東北に移り住んだ。その後に”渡来”した者たちとはインドのクナト族(出雲族)であったといわれる。そしてB.C.3世紀になってやっと一般にいう秦氏が辰韓(秦韓)からやってきた。遼東半島からもやってきた。斉の人たちである。秦の始皇帝の中華統一により追われた人たちであった。また彼らの中には秦の始皇帝に取り入り扶桑への派遣団を組織した徐福一派もいたといわれる。彼らは数千人規模の大船団でやってきたといわれる。

 

 九州有明海沿岸には徐福が上陸したといわれる浮杯というところがあった。今の佐賀県である。ここには一般にはあまり知られてはいないが徐福の博物館もある。徐福、福永、福萬、福寿と代々つづき、日本列島の中でも東へ東へと移り住んだ。紀元後3世紀には魏に滅ぼされた勾呉がやってきた。姫氏である。彼らもその末裔であった。

 

 

 彼らは有明海沿岸に上陸し、その一帯を中心にはしたが、肥前肥後から豊後日向を経て四国土佐に渡った人たちもいた。今の高知県西部には幡多郡があった。沖ノ島から宿毛(すくも)、土佐清水、土佐佐賀もある。太平洋沿岸を東へ東へと移動した。後に陰陽師として知られるようになった幸徳井家(かでい家)はここの出である。その末裔である幸徳秋水は最後のヤタガラスともいわれる。幸徳井家は幡多の出自ではあったが、賀茂氏の養子となり陰陽師を継いだ。その結果、幸徳井家は幡多でありながら賀茂にもなったことにより、土佐は鴨族の長である高鴨の地ともなった。高知県の名は「高鴨の河内」からの名である。高鴨は土佐国一宮である土佐神社に祀られる。

 

 高鴨は葛城の一言主とも呼ばれ、「一言の願いであれば何事でもかなえてくださる」と言われるようになった神ではあるが、古事記にはこうある。

 

 雄略四年(460年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りに行ったとき紅紐の付いた青摺の衣を着た天皇一行と全く同じ恰好の一行が前からやってきた。名を問うと「吾は悪事も一言善事も一言言い放つ神である”葛城の一言主の大神”なり」と答えた。天皇は恐れいり馬を降り、弓矢や官吏たちの衣を脱がせて差し出した。

 

 後に書かれた日本書紀にはともに狩りを楽しんだとあり、さらに後の続日本紀には天皇の怒りにふれ土佐の国に流されたとも書かれた。さらには日本霊異記では鴨の役行者が伊豆に流されたのは、一言主が朝廷に讒言したためとして、役行者は一言主を呪縛したという。役行者は一言主の後裔であるので先祖に讒言されたことにはなるが、実際には一言主の名は高鴨の一族の名として世襲されていたのかもしれない。一方、能の「葛城」は一言主を女神として描いているともいわれ、雄略天皇の母方が関わっているようにも思える。

 

 いずれにしても、葛城の一言主は天皇と同等の地位にあった人であった。一説には同じ顔であったともいわれ、雄略天皇の父または祖父であったのではないかともいわれる。雄略天皇の父は允恭天皇であり、父方は天皇家であるから、母方の祖父の可能性が高いのではないかとも思われる。祖父にそっくりな孫は多い。天皇は最も高い地位にはあるが祖父を敬うのは当然のことではある。その場合、祖父は稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)であり、応神天皇の第五皇子であり賀茂氏ではないことにはなる。ここに謎がある。

 

  

 つづく