【番外】春秋暦の誤差 古墳墓誌からみた古代史年代表  土方水月 

 

 

 

  桜井茶臼山古墳の墓碑には「大毘古命墓 丙戌年五月廿六日薨 御年七十四歳」とあったという。その丙戌とは206年であった。仮にひとまわり後であったとしても266年となる。大毘古命は第八代孝元天皇の第一皇子であり、第二皇子は少彦男心命、第三皇子が大毘毘命であり後の第九代開化天皇である。そして腹違いの皇子に比古布都押之信命(武内宿禰の父)がいた。卑弥呼ではないかといわれている倭母母曾毘賣命は孝元天皇の姉であったといわれ、大毘古から見れば倭母母曾毘賣は伯母であることになる。
 孝元天皇の皇子であった大毘古は大彦とも意富比垝(稲荷山古墳出土鉄剣)とも書かれる。意は“い”であるが、今の発音とは少し違って聞こえる。”あ”と”い”と”う”と“お”の中間のような発音であり、富も”ふ”であはるが、”てふてふ”を”ちょうちょう”と読んでいたのはそんなに昔ではない。そしてこの“う”も”お”のような発音であった。つまり、意富は”いふ”ではあるが、”おほ”のような、または”おう”のような”おお”であった。
 そしてここには、富の文字が使われている。富は登美であり、鳥見であり、等彌であった。そして、大毘古は古事記では崇神天皇の御代に古志道に派遣されており、またその子建沼河別は東方十二派遣されており、二人が出会った地が「相津(会津)」となったといわれる。
 そして大毘古の弟である開化天皇は大毘毘と呼ばれ163年40歳で亡くなったといわれる。また、大毘古の子建沼河別はメスリ山古墳に墓碑が見つかっており、「建沼河別命墓 甲寅年七月廿六日薨 御年七十五歳」とあった。この甲寅は234年であるという。
 上に述べたように、大毘古が74歳で206年に亡くなり、その子である建沼河別が75歳で234年になくなり、大毘毘が40歳で163年に亡くなっているとすると、それぞれ生まれたのが大毘古133年、大毘毘124年、建沼河別160年となり、大毘古は27歳で建沼河別をもうけたのはよいとしても、大毘毘よりも大毘古のほうが年下になってしまう。
 日本書紀では111歳で亡くなったと計算される大毘毘は墓碑では40歳で薨とありだいたい半分にはなっているがつじつまが合わない。実際には大毘古大毘毘兄弟の順も逆であったのかもしれないし、彼らの父親そのものも実は孝元天皇ではなかった可能性もなくはない。
 一方出雲の伝承では、大毘古は登美のナガスネヒコであるともいわれ、等彌神社や鳥見霊畤が桜井茶臼山古墳のそばにあることからもその信ぴょう性もあると考えられる。登美ナガスネヒコは出雲の伝承では「富中曾大根彦」であり、出雲の東王家の富家の名を継ぐものでもあったともいわれる。

 古墳墓誌からみた古代史年代表       ひじかたすいげつ


B.C. 245 年   備中千足  天伊邪那美大御神薨
    
B.C. 240 年   肥後井寺  天伊邪那岐大御神薨

B.C. 228 年   熊本永安寺東 大気津比賣命薨

B.C. 220 年   八女茶屋  伊豫津比古命薨

B.C. 217 年   島根御崎山  須佐之男薨

B.C. 215 年   稚日女命薨     五十猛生誕

B.C. 211 年   久留米日輪寺  雫穂津比賣命薨

B.C. 203 年   吉井月の岡  伊豫津比賣命薨

B.C. 199 年   浮羽塚花塚  月読命薨

B.C. 197 年   肥後チプサン  天照大御神薨

B.C. 192 年   肥後弁慶ケ穴  天手力男神薨

B.C. 191 年   浮羽楠名  奈加登美命薨

B.C. 187 年   吉井日の岡  伊斯許理度賣命薨

B.C. 183 年   吉野ケ里  天津国玉命薨

B.C. 183 年   出雲造山   大国主命薨

B.C. 180 年   八女童男山1号  徐福薨

B.C. 175 年   八女乗場  天兒屋命薨

B.C. 165 年   八女弘化谷  天石戸別命薨

B.C. 155 年   吉井珍敷塚  天鳥船命薨

B.C. 155 年   八女童男山3号  福永薨

B.C. 151 年   浮羽重定  建御雷男命
               
B.C. 151 年   伊賀鳴塚  天火明命
    
B.C. 139 年   吉井塚堂  伊吹戸主命薨

B.C. 137 年   八女童男山2号  福萬薨

B.C. 128 年   飯高  火闌降命薨

B.C. 120 年   櫻井纏向石塚  火照命薨

B.C. 113 年   八女童男山2号  福壽薨

B.C.   67 年   水口茶臼山  阿比良比賣命薨

B.C.   63 年   岩橋天王塚  五瀬命薨

B.C.   53 年   高井田横穴群a  邇芸速日命薨

B.C.   45 年   畝傍山北麓  神倭伊波禮毘古命薨

B.C.   38 年   畝傍すいぜん塚  神八井耳命薨

B.C.   34 年   高井田横穴群b  登美夜毘賣薨
             
B.C.   28 年   現孝昭陵  伊須気余理比賣薨

B.C.   27 年   高井田横穴群d  師長比賣薨

B.C.   23 年   鋤崎  日子八井耳命薨

B.C.   13 年   高井田横穴群c  宇麻志麻遅命薨

B.C.     9 年   衝岡新沢北端  神沼河耳命薨

AD     18 年   畝傍現綏靖陵  河俣毘賣命薨

AD     30 年   畝傍山現陵  玉手見命薨

AD     38 年   いとくの森  阿久斗比賣命薨

AD     58 年   美旗女郎塚  天忍男命薨

AD     62 年   五島山  姪若毘賣命薨

AD     64 年   畝傍山南陵  鉏友命薨

AD     66 年   一貫山銚子塚  常根津日古命薨

AD     68 年   現懿徳陵  賦斗麻和訶比賣命薨

AD     68 年   櫻井纏向勝山  師木津日子命薨

AD     75 年   雲部車塚  當芸志比古命薨

 

AD     78 年   天皇の社  天押帯日子命薨

AD     88 年   掖上童子塚  訶惠志泥命薨

AD     90 年   松林山  余曾多本毘賣命薨

AD   108 年   茨城紫金山  姪忍鹿比賣命薨

AD   118 年   現陵/玉手岡上   國押人命薨
            
AD   118 年   河合島の山  細比賣命薨

AD   132 年 岡山王墓山  大吉備諸進命薨

AD   134 年   河合大塚 倭國阿禮比賣命薨

AD   136 年   奈良片岡馬阪   賦斗迩命薨

AD   138 年   富雄丸山   千々速眞若比賣命薨

AD   138 年   奈良河合城山   蝿伊呂櫲命薨

AD   146 年   小泉大塚   内色許賣命薨

AD   153 年   剣池現陵   國玖琉命薨

AD   159 年   河内眞名井  波迩夜須毘賣命薨

AD   162 年 新潟菖蒲塚 日子刺肩別命薨
             
AD   163 年   鶯塚 大毘毘命薨

AD   167 年   椿井大塚山  波邇夜須毘古命薨

AD   176 年   南阿田大塚  少日子建猪心命薨

AD   183 年   遠江赤門上  高千那毘賣命薨

AD   186 年   西殿塚   伊迦賀色許賣命薨

AD   191 年   淡輪宇度墓   由牟須美比古命薨

AD   194 年   五条猫塚   比古布都押之信命薨

AD   194 年   五条つじの   山下影比賣命薨

AD   198 年   太秦天塚   味師内宿禰命薨

AD   198 年   櫻井箸墓   倭母母曾毘賣命薨
             
AD   198 年   行灯山   印惠命薨

AD   198 年   中山茶臼山   大吉備津日子命薨
                
AD   205 年   丹後竹野明神山   竹野比賣命薨

AD   206 年   櫻井茶臼山   大毘古命薨
            
AD   217 年   美濃竜門寺   日子坐王命薨

AD   218 年   乙女山   御眞津比賣命薨

AD   226 年   群馬天神山   豊木入日子命薨

AD   228 年   淡輪   大筒木垂根命薨

 

AD   228 年   馬見北倉塚?   十市入日賣命薨


AD   230 年   飯岡トヅカ    大筒木眞若王命薨


AD   230 年   岡山造山   若建吉備津日子命薨

AD   234 年   櫻井メスリ山   建沼河別命薨

 

AD   248 年   築山   豊鉏入日賣命薨

AD   250 年   宝来山   伊久米入日子薨

 

つづく