【日本国記】 第二章 9 平安京へ・長岡京 4 日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―   土方水月  

 

 9 長岡京 4 平安京へ

 

 一旦仏門に入っていた早良親王は父である光仁天皇の希望で皇太子に迎えられた。同母兄の桓武天皇の即位と同時に還俗して皇太子となった。桓武天皇は大事は自分で決したが、平時の事務は早良親王と光仁天皇即位に関わった藤原百川の甥の藤原種継が行っていたといわれる。長岡京造営の過程で早良親王と藤原種継の仲が次第に悪くなっていき、早良親王の直属であった大伴家持が亡くなった後、早良親王の部下や大友氏などの一派が藤原種継を暗殺した。それが早良親王廃太子の原因でもあった。仏教勢力や氏族間の争いが交じり合い起こった結果の事件であったと思われる。

 

 早良親王は直接関わってはいなかったにもかかわらず、廃太子された早良親王は身の潔白を証明するために絶食したといわれる。そして淡路配流の途中高瀬橋で亡くなったという。遺体はそのまま淡路に運ばれ埋葬されたという。その後の早良親王の怨霊を鎮魂するため、桓武天皇は祟道天皇の号を贈り八嶋陵に改葬したといわれる。それでも早良親王の怨霊は収まらなかったため、ついに平安京遷都となった。これらの一連の事件により発案された平安京遷都は、1180年の平清盛による福原京遷都の中断を除き、平安京が都として現代まで“千年王国”として続くことになった基となる出来事であった。

 

 そうして平安京は造営された。当初の大極殿は今の京都の中心にあったといわれる。今の京都御所の位置より西にあったことになる。度重なる火災や洪水のため東に移動したといわれる。平安京は鴨川と桂川にはさまれた地であり、水には困らなかったが、洪水が多発する地であった。御所は東に移動してからも鴨川の治水対策が必須の場所であった。

 

 桓武天皇の第一皇子であった小殿皇子は早良親王に代わり皇太子となった。安殿親王とも呼ばれる。妃の母であり夫のある藤原薬子を寵愛した。薬子は娘を差し置いて自分が安殿親王の寵愛を受け東宮宣旨となったといわれる。その後桓武天皇によりいったん追放された薬子は、桓武天皇崩御後に即位した安殿親王こと平城天皇により戻され、薬子の夫である藤原縄主は大宰帥とし九州に赴任させられたという。これにより薬子とその兄の藤原仲成が力を持つようになったといわれる。彼らは藤原種継の子でもあったため、削除されていた藤原種継暗殺事件を続日本紀に復活させたともいわれる。

 

 その後の平城天皇は病気が重篤となったためわずか三年で弟の神野親王に譲位したという。薬子の反対をきかずに平城天皇は平城上皇となり、神野親王が嵯峨天皇として即位したのであった。そして、嵯峨天皇は皇太子として平城上皇の子高岳親王を立てたという。

 

 ところが平城天皇のその病気は単なる風邪のようのものであったらしく、回復した平城上皇は譲位したことを後悔し、旧平城京に移り住んだという。これには薬子の意思が反映されていたといわれる。譲位にも反対であった藤原仲成と薬子は平城上皇に進言し平城京への遷都の詔を出したという。

 

 しかし、「平安京より遷都すべからず」との桓武天皇の勅を破ることになるため、嵯峨天皇はそれに反対し薬子の官位を剝奪した。それに反応した平城上皇側は挙兵したが嵯峨天皇側の坂上田村麻呂に収められ、最終的には平城上皇は仏門に入り薬子は服毒自殺したという。高岳親王は廃太子となり大伴親王が皇太子となったという。これが一般に言う薬子の乱であった。その後の平城上皇は平城京に滞在し、上皇(太上天皇)の称号もそのままとされたという。

 

 

 平城上皇は都を平城京に戻そうとしたが、弟の嵯峨天皇は平安京を去らず、そのため平安京は千年の都となったのであった。

 

 

 つづく