【日本国記】 第二章 10 平城京 1 日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―       土方水月  

 

 10 平城京 1 平城天皇は奈良天皇とも呼ばれた。

 

 平城天皇は病気が重篤になり、そのためいつ死んでもよいように弟の神野親王に譲位し、自分の子の高岳親王を皇太子に立てるように遺勅したという。

 

 ところが平城天皇の病気は治癒してしまい、譲位したことを悔やんだといわれる。もともと譲位に反対であった藤原仲成と薬子は平城上皇とともに旧平城京に移り住み、平城上皇に進言し平城京への遷都の詔を出させたいわれる。

 

 しかし、「平安京より遷都すべからず」との桓武天皇の勅を破ることになるため、嵯峨天皇はそれに反対し薬子の官位を剝奪した。それに反応した平城上皇側は挙兵したがすぐに嵯峨天皇側に鎮圧され、高岳親王は廃太子となり大伴親王が皇太子となった。

 

 その時に平城上皇が居た旧平城京は710年に造営された第一次平城京ではなかった。もとの第一次平城京の建物はその後の遷都により長岡京に移築されたといわれる。そして、長岡京から平安京に遷都した後は平安京に移築された。さらには当初の第一次平安京も洪水のためになくなり、今はもう山城国の国分寺にその名残があるだけといわれる。

 

 もとは飛鳥や難波にあった都はなぜ移転したのか?

 

 あまり知られていないが、福岡県には今も京都郡がある。もとは九州にあったかもしれない都は、神武東征によってなのか東へ東へと移動し、さらには今の大阪の難波や奈良に移った。その後は北へ北へと移動した。飛鳥板葺宮、岡本宮、新益宮(藤原京)と移り、平城京、さらには長岡京、平安京となっていった。

 

 その理由はあまり知られていない。しかし、奈良に遷都した理由はすぐわかる。奈良王寺町の明神山に登ればだれでもわかる。ここからは360度見渡せる。西には淡路島と明石大橋が見える。南は和歌山、東には三輪山と大和三山が見える。北は信貴山や生駒山が見える。この明神山からは奈良盆地を守るための情報が手に取るように見えるのである。西からの攻撃があれはそれにいち早く対応できる物見やぐらの役割を果たしていたに違いない。

 

 日本列島に渡来するものは必ず西からやってくる。奈良に都ができる前には大阪にあった都はより攻撃されにくい奈良盆地に移動した。さらにはより遠い、北の地へ移動していった。最終的には琵琶湖周辺にたどり着いたのである。

 

 神武東征の当初の失敗はこの明神山が原因であった。神武天皇はヤタガラスの導きによって山の多いより発見されにくい南からの攻撃によって奈良を征服することができたのである。

 


 しかし、この神武天皇はイツセの兄弟であり、知る人ぞ知るよく知られた人物ではあったが、第一代天皇である〝本当の神武天皇〟ではなかったのである。

 つづく