NHKで長時間の番組をやっていた。私の中には”死刑判決には冤罪もある”とか、”科警研が証拠を捏造することもある”等の認識があるから、全然、中立な立場では観られなかった。刑事司法が中世レベルの国じゃなければ中立な立場で観られただろうけど、そもそも中世レベルの国じゃなければこの事件がこういうことになってたかは分からない。番組を観て驚いたことは一つもなくて、”日本だから起こりうることだし、想定内”としか思わなくて、それが悲しいなと思った。”日本でこんなことが起こりうるの?”と思えた方がましではあるから。

 

 最後の方で新聞社の人が言っていた「”疑わしきは被告人の利益に”に照らし合わせれば無罪」という言葉が全てだと思った。”疑わしきはとにかく有罪”の中世レベルの国ではそうはならないけど。「日本人は”民度”が高い」とよく自分たちで言っちゃってるけど、司法が中世なのに”民度”もへったくれもない(民度という言葉自体、いい言葉ではない)。死刑制度の有無以前の問題。国民は関心がないし、刑事司法に関してはずっと中世レベルだろうなと思う。公文書の破棄で政治は原始時代にまで遡ってしまったけど、原始時代だと刑事司法に関しては逆に平和だから、刑事司法が今より悪くなる時代の目安としては古代あたりかも知れない。日本人は親切とか優しいとか、やたら海外の評価を気にするけど、司法が中世レベルという批判は全力で無視している。またはシャラップ発言のように逆ギレ。単にポジティブな評価しか聞く気がないんだろうけど。

 

 事件自体は試料を全量消費して再鑑定不可とか、よくあるパターンだった。Wikipediaは判決を支持したい人が書いているのか知らないけど、真犯人と死刑囚の血液型が違うこととか、冤罪白書2019に書いてあることが書かれていなくて、Wikipediaだけを読むと死刑囚が犯人ではと思えてしまう書かれ方だった。判決を支持したい人がせっせとWikipediaの記事を書いたんだとしたら、それはそれで面白いけど…。死刑囚と家族の証言が二転三転してることに関しては、私がその立場なら、有罪を逃れるために二転三転させることもあるかも知れないと思う。やってないのであればあらゆる可能性に賭けるのも分からないではない。番組で言っていた「警察の捏造を防ぐために車の中をとことん掃除した」というのも、私には考えつかないけど、なるほどなと思った。私の中では警察は絶対に捏造をしない組織ではないし。単に年を取って記憶が書き換えられただけかも知れないけど、元刑事の妄言とも取れる発言をそのまま放送していたのがよかった。

 

 私は中立に見られないけど、日本を素晴らしい国と思ってる人も中立には見られないと思う。司法を信用するにしては冤罪が多い。警察や検察の証拠の捏造なんて権力の側としては一件すらあってはいけないことだけど、何故か許されている。あと、根本的な問題として、目上が絶対の社会で、裁判が常に正しく機能しうるのかという問題があると思う。冤罪事件をたくさん手掛けている弁護士の本に、”裁判員裁判のメリットは、顔色をうかがわずに判断をくだせること”と書かれていたし。裏を返すと裁判官は顔色をうかがって判決を出すことがあるということ。

 

 日本としては平常運転だから、観て暗い気持ちになったかというと、もう慣れてしまってならなかった。単にいつまでこういうことが続くんだろうなという思い。殺人とか重い罪ではなくても、冤罪で人生をめちゃくちゃにされた人はたくさんいるんだろうなと思う。シャラップ発言から来年で10年だけど、特に大きないい変化はない。法務大臣(弁護士)が”無実の立証責任は被告人が負う”と読める文を世界に英語で発信してしまい、やはり中世レベルなんだなと再認識させられたことはあった。9つの冤罪を生もうとも1人の真犯人が捕まればそれでいいという精神とか、取り調べに弁護士が同席出来ないこととか、検察に都合の悪い証拠は開示しなくていいとかがあるのに、「日本は人権問題で先を行っている」という嘘を平気でつくし、この国の闇は深い。