多摩川通信

昭和・平成の思い出など

南極の勇者

 

 

南極大陸の面積は約1400万平方キロメートルで、ユーラシア大陸、アフリカ大陸、北アメリカ大陸南アメリカ大陸に次いで5番目に大きい。地表のほとんどが厚さ数キロメートルもの巨大な氷床で覆われている。南極点の年間平均気温は、最高気温がマイナス46度、最低気温はマイナス52度という極限の世界である。同じ極地ではあるが陸地がない北極に比べてはるかに気温が低い。

 

記録がある限り南極圏に最初に到達したのは、1773年、英国海軍の艦長だったジェームズ・クックが率いる2隻の艦船だった。古来、欧州では南方に未知の肥沃な大陸があると考えられており、その発見を目的とした航海だった。この航海で南極圏を周航した結果、人間が住めるような陸地はないことがわかった。ただし、南極海に浮かぶ巨大な氷塊を目にして、それができた陸地がさらに南に存在するはずだとクックは書き残した。これ以降、英国は南極探検に主要な位置を占めていくこととなる。

 

人類が南極大陸を発見したのは1820年である。同年1月末、米国の漁船、ロシア海軍の艦船、英国海軍の艦船が相次いで南極大陸を視認したとされる。1821年には米国のアザラシ漁の漁船長らが南極大陸に上陸したと主張した。さらに、1841年には英国海軍のロス探検隊が南極大陸の沿岸を航行し、火山の発見などの調査結果をもたらした。

 

初めて南極での越冬を行ったのは、1899年から1900年、ノルウェー人のボルクグレヴィンクに率いられた英国南極遠征隊だった。この遠征隊は英国人が資金を提供し、英国国旗を掲げたが、英国人の隊員は2名のみという変わったものだった。英国地理学会が別途の南極遠征計画を練っていたため複雑な関係があったようで、偉業を達成したにもかかわらず英国世論は冷めたものだった。

 

南極点への到達は、1911年12月14日、アムンセンが率いるノルウェーの探検隊によって達成された。英国のスコット海軍大佐が率いる探検隊もほとんど同時期に南極点を目指したが、犬橇を使ったアムンセン隊が約1カ月早く人類初の南極点到達を果たした。

アムンセン隊は南極点に到達した時、後に続くスコット隊のために食料と防寒具と手紙を残した。手紙は、帰路で自分たちが全員遭難した場合に備えて、到達証明として持ち帰ってくれるよう依頼したものだった。スコット隊は、自分たちにとっては敗北の証明となるその手紙を持ち帰った。しかし、帰途、遭難して全員が死亡した。スコットらの遺体はアムンセンの手紙とともに半年後に発見された。

 

アムンセンは元々、南極点を目指していたわけではなかった。大西洋から太平洋に抜ける北西航路の航海に成功して名声を確立した後、北極圏での科学観測を主目的とする航海を企図し、自ら資金を集めて遠征隊を組織した。

しかし、その出発前に米国のピアリーが1909年4月に北極点への到達を果たしたことが報じられたため、密かに独断で目的地を南極点へと変更した。出航後にそれが明らかになるとノルウェーでは出資者をはじめとして大変な非難が渦巻き、アムンセンは破産と破滅のリスクを背負ったが、人類最初の南極点到達という偉業達成により、ノルウェー国民は大歓喜のうちにアムンセンを迎えた。

 

ノルウェー隊と英国隊が鎬を削った時、もうひとつの探検隊が南極にいた。日本の白瀬隊である。

隊長の白瀬矗(しらせ のぶ)は少年期から探検家を志し、陸軍軍人となった後、1893年明治26年)の千島探検隊に加わって経験を積んだ。そして、スコット隊の探検計画が発表されると、これに先駆けて南極点に到達することを目指し、民間資金を募って探検隊を編成した。これに対し日本政府は一貫して冷淡だった。

木造漁船を改造した船で出航した白瀬隊は、1912年(明治45年)1月16日に南極大陸に上陸した。南極点への到達は断念したが、「大和雪原」と命名した地域を日本の領土として宣言し、学術調査を行った上で、全員が無事帰還を果たした。

出発時には成功を危ぶまれ、罵倒や嘲笑を浴びせられたが、帰国した時には日本中が歓喜に沸いた。だが、白瀬にはさらなる苦難が待っていた。後援会が遠征資金を遊興や飲食に流用していたため、白瀬は莫大な借金を背負い、残りの人生をかけて国内外で講演活動を行うことにより返済した。この講演を聴いて触発された西堀栄三郎は、後に第1次南極越冬隊の隊長となった。

 

南極大陸への挑戦において、通信・運搬技術が発展する前の、人間の力があからさまに試された時代は、ロマンを込めて「南極探検の英雄時代」と呼ばれている。その英雄時代を締めくくったのは英国のシャクルトンである。

1914年8月、シャクルトンが率いる探検隊は、南極大陸の横断を目的として英国を出発したが、南極大陸北西の湾内で船(エンデュアランス号)が流氷に閉じ込められたまま漂流し、1915年11月、氷に圧迫されて船が沈没してしまった。沈没前に食料や装備を運び出し、浮氷の上にキャンプを設営した。当時、南極圏では無線は使えなかった。

1916年4月9日、浮氷が裂けたため、探検隊総勢28人は3隻の救命ボートに分乗し、7日間かけて約600キロメートル離れたエレファント島に移動した。だが、その島は無人島だったため、救助を求めるには他の陸地に移動するしかなかった。

4月24日、シャクルトン以下6名が救命ボートの1隻で、捕鯨基地のあるサウス・ジョージア島に向かった。帆がついた全長7メートルの救命ボートで、荒れ狂う海を16日かけて渡った。その移動距離は約1500キロメートルで、東京・沖縄間の直線距離に相当する。沈没寸前をかいくぐり奇跡的にサウス・ジョージア島に上陸し、さらに36時間かけて島を横断して捕鯨基地にたどり着いた。

シャクルトンはただちにエレファント島に残してきた隊員たちの救助に努めたが、第一次世界大戦の真っただ中で英国政府は救援を出す余力がなく、チリ海軍の協力を得て4回目の挑戦で、1916年8月、全員の救出に成功した。

当初の探検目的は果たされなかったが、シャクルトンの名は南極探検の歴史にひときわ輝く英雄として刻まれている。