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君は『喧嘩芸・骨法』を覚えているか?

80年代後半から90年代中期にかけて『骨法』という格闘技が注目を浴びていた。その格闘技は「喧嘩芸」と称してその神秘的な実戦性を喧伝していた。しかし、その神話はある日突然崩れることになる。

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1989年、当時中学三年生だった私は、ある深刻な悩みを抱えていた。

それは私にとって幼少時から始まり、最も多感な時期である中学時代になるや爆発的に増大し、私自身を内面から苛むようになった悩みだ。

それは、ケンカが弱いことだ。

それは思春期特有の自意識過剰なあまり、自分で勝手に悩むようになったからではない。

実際に不利益と実害が大いにあったからだ。

ぶっちゃけ、私は中学校でいじめに遭っていた。

持ち物は取られるわ、ズボンは下げられるわ(女子の前で)、砂場に首まで埋められるわ、修学旅行の宿ではオナニーさせられるわ。

かといってちょっとでもやり返したら、当然の権利のごとく返り討ちに遭うなど、苦痛と屈辱を大いに味わわされていたのだ。

何とか反撃、あわよくば倍返できるようケンカに強くなるためのハウツー本はないかと、本屋に行ったある日、私はある本に出合った。

それは『喧嘩芸骨法』だ。

喧嘩芸…、殺し文句だった。

これぞ、私の求めていた本ではないか!

表紙の写真は、長髪にひげを生やしたおっさんが構えを取っており、そのおっさんはいにしえの侍もかくありや、と思わせるような感じの迫力とインパクト満点の容貌をしており、「喧嘩芸」という言葉に説得力を持たせている。

だが、思わず手に取って読んでみたか、というとそうでもなく、

中学生ながらそんなもん読んだからって、すぐに強くなれるはずないと分かっていたし、第一金がなかったから、そのまま立ち読みをしに成人誌のコーナーへ向かった。

しかし、その時から「喧嘩芸」「骨法」というワードは、頭に残った。

神秘の必殺拳・骨法

骨法とは、先ほどの長髪でヒゲのおっさん・堀辺正史氏が創始した格闘術である。

堀部氏によると、骨法は柔術とは異なる流れの古来の日本武術を復興させたものであり、その著書『喧嘩芸骨法』において、

東條英機のボディガードを務めた父からその技を相伝され、骨法司家の第52代・源一夢(みなもとのいちむ)を襲名し、伝統的骨法の修行の傍らケンカ・他流試合に明け暮れた日々の中から、実戦的な格闘技術を習得、古流の骨法を改革して喧嘩芸骨法を創始した

と述べて、その実戦性を盛んに主張していた。

もっとも、古来から骨法が実在したことの信ぴょう性は乏しく、実際は他流派の古流柔術などを学んだ堀辺氏が、独自に創始したとされている。

しかし、骨法とその創始者の堀辺氏は、同書を世に出した80年代後半から90年代にかけて世間に広く知られるようになり、メディアにも多数出演するようになった。

また、新日本プロレスとも交流があって、アントニオ猪木や船木誠勝などの日本を代表するレスラーにも指導を行い、骨法由来の技がプロレスに使われるようにもなった。

プロレスが最強の格闘技だと思われていた時代に、プロレスラーから認められていたのである。

よって90年代初めまでは、マスコミの影響もあって、骨法はまさに神秘的な超実戦的格闘技だと信じていた人は本当に多かった。

だが、現代のユーチューブにも公開されている当時の骨法の組手動画を実際に見てみると、長いグローブをつけてペチペチ叩き合っており、こんなものが強いわけないだろ!と疑ってしまう。

また、1993年に開催された骨法のイベント『骨法の祭典』での演武では、技を決められた選手が「あだだだだだだ!!!」とか叫び声をあげたりして、あまりの大げさぶりに笑えたりもするが、当時の格闘技ファンの多くの目には、骨法が「参った」した相手でも極め続ける危険な殺人格闘術に映っていた。

格闘技専門雑誌『格闘技通信』もたびたび骨法を取り上げており、その強さを疑う声はあまりなかったのだ。

しかし1996年、メッキがはがされたと言われても仕方がない出来事に見舞われることになる。

骨法の他流試合

1996年、骨法に試練が立ちはだかった。

同年8月4日に開催される『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』で、ブラジルの選手と対戦することになったのだ。

今まで骨法の選手同士の試合はしていたが、これは事実上初めての他流試合である。

これより前の1993年11月12日、海の向こうのアメリカでUFCの第一回大会が開かれ、格闘技界に衝撃を与えていた。

現在でこそMMA(総合格闘技)の最高峰の一つとなっているUFCだが、当時の考え方は「ノールールの戦いの勝者こそが最強」というもので、この大会のルールは打撃や投げ技、寝技はもちろんのこと、グローブなしの顔面パンチもOKなばかりか、嚙みつきと目つぶし以外は「何でもあり」、だからノールールと称しており、当時としては恐るべきものだった(何と金的も禁じられていなかった)。

この大会はトーナメント制で、ケン・ウェイン・シャムロックやジェラルド・ゴルドーなど90年代の日本でも名が知れた格闘家が参加したが、倒した相手の顔面に蹴りを見舞ったり、頭を踏みつけたりのストリートファイトさながらの凄惨なものとなった。

そして、この大会で上記名だたる選手を制して優勝したのが、それまでまだ世に知られていなかったグレーシー柔術のホイス・グレーシーだ。

ホイス・グレーシー

ホイス・グレーシーはブラジル出身。

ブラジルでは昔からこのような何でもありであるノールールの試合「バーリトゥード」が開かれており、ホイスの父であるエリオ・グレーシーが興したこのグレーシー柔術はその中で磨かれてきた格闘技である。

そして自身も、それまで道場破り相手にバーリトゥード形式の試合を行っていたため、何でもありの試合の対策を熟知してもいた。

ホイスは、翌年開催されたUFCの第二回大会も、圧倒的な技術で制する。

そして、この「バーリトゥード」は、94年日本にも上陸。

同年と翌年には「バーリトゥードジャパン94」と「バーリトゥードジャパン95」が開かれ、これにはホイスの実兄であるヒクソン・グレーシーが出場して、弟と同じく圧巻の強さで連覇。

ヒクソン・グレーシー

日本人の格闘ファンに「グレーシー柔術強し」という印象を、問答無用で植え付けた。

また、日本のプロレスラーや総合格闘技の団体である修斗の選手などが、このノールールの試合で敗れることが多かったからなおさらである。

ノールールの試合とグレーシー柔術はまさに黒船だったのだ。

一方、実戦格闘術を売りにしている骨法の創始者・堀辺氏は早くからこのノールールの考え方に賛同していたようで、骨法のスタイルをそれに合わせて、元来の打撃技を中心とした立ち技系から寝技系へと変革していた。

格闘技通信も、それを進化として大々的に取り上げ、特集を組んで堀辺氏の持論や試合に臨む骨法の選手が、米国に渡ってブラジリアン柔術(グレーシー柔術から発展したブラジルの柔術の総称)の技術指導を受ける模様を読者に伝えていた。

紙面には、これまで神秘的な最強説が唱えられていた骨法なら何かやってくれるだろうという期待感が作り出されていた。

プロレスも空手も修斗もやられたが、まだ日本には骨法があると。

そして、読者の多くもそれを信じていたことだろう。

当時の私もそう信じていた一人だった。

骨法神話の終焉

そして迎えた8月4日の『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』。

骨法は二人のエース級の選手、小柳津弘選手と大原学選手が出場した。

彼らの相手はどちらもブラジル人であったが、グレーシー柔術をはじめとしたブラジリアン柔術ではなくルタ・リーブリというグレコローマンレスリングを発展させた格闘技の選手である。

ルタ・リーブリは、グレーシー柔術と同じくノールールの試合で磨かれてきた技術を有し、ブラジル本国では因縁すら生じているほどのライバル関係で対抗戦も行われるなど、柔術と渡り合ってきた。

そのため、アメリカで骨法の両代表選手は手の内を知るブラジリアン柔術の選手から技術指導を受けてきたのだ。

準備は万端。

これまで日本の他の格闘技の選手はブラジル勢に負け続けていたが骨法は最後の切り札、負けるわけにはいかない。

そして、今まで秘められていた真の実力を見せる時である。

だが、

両選手とも負けてしまった。

まず最初に試合をしたのは小柳津弘選手、骨法内の試合では打撃技を繰り出して相手選手を撃破してきた「骨法の狂気」という異名を冠せられた看板選手だ。

小柳津選手の相手は、カーロス・ダニーロ選手。

前述のとおりルタ・リーブリの選手ということになっていたが、本来はキックボクサーで、ルタ・リーブリは試合が決まった一か月前に始めたばかりだったようである。

試合が開始されるや、小柳津選手は打撃ではなく組みつきに行ったのだが、ダニーロ選手に腕を取られてしまう。

そのままコントロールされて転がされるも、腕を振りほどいて今度は相手を倒したが再び下になった相手から腕を取られた。

そして下からパンチと肘の連打を浴び、三角締めでタップしてしまう。

この間たった1分0秒。

完敗である。

次に登場したのは、小柳津選手と並んで骨法最強と言われた大原学選手。

対戦相手は、ペドロ・オタービオ選手。

オタービオ選手は、ブラジル国内では中堅どころの実力と見られていたが、この年の4月に東京で開催された『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング』にも出場。

大相撲の元横綱で、ノールールなら日本人最強とも目されたこともあるプロレスラーの北尾光司選手を、1RTKOで破っていた。

そして、このオタービオ選手は身長190cm体重100kgであり、身長170cm体重90kgの大原選手に体格で大いに上回っている。

しかし、小柳津選手は秒殺に等しい完敗だったが、その精神力と寝技の技術で定評のあった大原選手ならば、もう少しいい勝負ができるのでは?という期待はあったようだ。

こうして始まった骨法の第二試合、大原選手は果敢にオタービオ選手に組み付いて、テイクダウンを奪った。

だが、両者とも決定打を欠き膠着状態になったためにレフェリーがブレイクを命じ、再びスタンドでの試合再開となる。

だがその後、大原選手は倒されてしまい完全にマウントポジションを取られて、上からオタービオ選手のパウンドの猛攻を加えられた。

レフェリーもストップせず、セコンドもタオルを投入しなかったので、100発以上のパンチを浴びせられてしまう。

しかし、大原選手は耐え抜いて、マウントポジションから脱出することに成功。

そのまま30分の試合終了まで戦い抜いた。

大原選手は、体格差をものともせず最後まで善戦したと言えるが、マウントパンチを浴びるなど劣勢だったことは否めず、結果は2-0の判定負けであった。

骨法の完全敗北である。

それも、骨法の中でもツートップの選手が負けた。

喧嘩芸だのなんだの言っていても、このほぼ喧嘩であるノールールの試合で、その威力を発揮できなかったのは間違いなかったのだ。

骨法最強幻想は、ブラジルからやってきた現実の前に崩れ去ったと言ってもよかった。

これまで骨法の話題をさんざん取り上げ、日本格闘技界の最後の切り札とばかりの論調だったくだんの『格闘技通信』は、この試合結果を伝える記事において、「負けたとはいえ、大原選手は素晴らしい選手だった」とか、まだまだこれからだというような一見前向きな意見を書きつつも、

結論―。

「これまで骨法に多くのページを割きすぎました」

という一文がその中にはあった。

そして、その一文は紛れもない本音だったことが、後に証明される。

骨法のその後

それまで、あれほどまで骨法を持ち上げてきた『格闘技通信』は、手のひらを返したかのように骨法を話題に取り上げなくなった。

その他のメディアの露出も以前ほどなくなり、多くいた門下生も減ってしまったという。

本格的な他流試合であるブラジル勢相手の試合での敗北は、かなりの痛手となっていたのだ。

一方で、96年に骨法がブラジル勢に敗れて以降、一時期ノールールにおいて日本の格闘技界は、世界において「日本最弱」とまで言われていたが(これはくだんの格闘技通信が言った)、翌年97年から日本の格闘家の逆襲が始まる。

1997年2月7日、UFC 12に出場した日本のプロレスラー・高橋義生選手がブラジリアン柔術の選手から判定で勝ち、日本人のUFC初勝利をあげる。

1997年10月11日には今や伝説となった格闘技イベント『PRIDE』が始まり、第一回大会で当時日本のトップレスラーだった高田延彦選手が、バーリトゥードジャパンを連覇した前記ヒクソン・グレーシー選手に敗れはしたが、同大会では、和術慧舟會の小路晃選手が、同じグレーシー一族の一人であるヘンゾ・グレーシー選手と引き分けに持ち込むなど大健闘。

その後『PRIDE』に桜庭和志選手が登場し、ホイス・グレーシーを含めたグレーシー一族の選手を連覇して「グレーシーハンター」の異名をとるなど大活躍、「日本最弱」の汚名を大いに返上する。

しかし、この一連の逆襲劇の中に骨法の姿はなかった。

もはや、以前ほどの注目を浴びることはなく、汚名を返上できるような選手も結果的に現れなかったのだ。

とはいえ、骨法は創始者の堀辺正史氏の下でその後も存続し続けた。

2015年12月26日に、堀辺氏は心不全でこの世を去ったが、時代が令和になった2022年の現在でも『日本武道傳骨法會』の名で活動している。

ちなみに格闘技だけでなく整体もやっているようだ。

今から思えば、グレーシー柔術をはじめとしたブラジル勢が無敵だった時代もはるか昔だ。

90年代は喧嘩大会だったUFCも今や洗練され、MMAの最高峰の大会となった。

それ以上に、骨法が最強だと信じられていた時代があったことが信じられない感がある。

まだネット社会になる前だった90年代はマスコミに取り上げられたりしようものなら、それだけで真実だと無条件に信じられてしまった時代だった。

その当時、青少年期を過ごした私は、まさにそんな一人だったからこそそう思う。

その時期骨法に入門した人々も、その神秘性に魅かれて入った人も多かったのではないだろうか。

骨法最強神話は、90年代までの若者だけが信じることができたおとぎ話だったのかもしれない。

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