上発地村から

標高934mぐらい日記

私とスキー

2021年02月22日 | Weblog
スキーというスポーツは今でも好きだ
小学校の時はたいして足も速くなく(短足なので)球技も大して得意じゃなかった。
僕の通っていた小学校は近所に堤義明さんが作ってくれた軽井沢スケートセンターっていうのがあって、高学年になると(たしか四年生)スケートクラブっていうのに入部することができて多くの子供たちがそこに入れられた(少なくとも僕は自分の意志ではなかったような気がする)
早朝練習では今の中軽井沢駅近くからスケート場のあった今の千ヶ滝温泉まで約2.5kmを朝のランニングと称して歩かされ(走ってたな)上級生のおさがり、自分の足よりちょっと小さめのスケート靴に足を押し込め、かじかんだ手で紐を結んでタイツ一枚と薄いヤッケ、軍手の二枚重ねという最悪の装備で-15度の寒空の下で(昔は結構軽井沢も寒かった)氷の上を何周も滑らされた。腰は痛いは手足の指先は冷たいわ、多分僕の足のサイズが24.5cmしかないのは纏足(ウィキ参照してください)ばりの矯正スケート靴によるものだと確信している。
ここまで何の滞りもなく文章がスラスラと書けるのは相当な思いというかスケートに対しての怨念みたいなものがあるからなのかもしれない。
大してスケートも上手ではなかったのでタイムもよくなかったし、成功体験もない。どっちかっていうと劣等感ばかり感じるような経験だった。ただ唯一良かったのは記録員(リレーの補欠が大会に同行して雑用をこなす係)として感謝状みたいなものをもらったことだった。これは昔書いたブログにも記してある(どんだけトラウマなんだっつーの……)
そんな小学生時代だけど、なんかあるとき、多分スケートクラブに入る前の三年生ぐらいだったかなぁ…近所に住む親せきのおじさんが軽井沢プリンスホテルスキー場に僕を連れてってくれた。まあおじさんも教えることなんてしなくて、スキー板をはかせていきなりリフトに乗せて上まで連れていかれた。当然とっ散らかってひどい目に遭い、もう二度とスキーなんてするもんかって思った。
だいたい運動が得意なほうじゃないのだ。小学一年生の時は竹刀を持った女教師に水泳の授業でこっぴどくしごかれ、トラウマで水泳が嫌いになった。高学年になるまで泳げなかったのだが、なにかのきっかけで急に覚醒し中学校ではかなり泳ぎが得意になった。
運動とか勉強ってなにかちょっとしたきっかけで覚醒してうまくスムーズにできるようになったりする。これは教育っていうものが奥深いことを物語っていて、教え方次第でよくも悪くもどっちに転ぶかわからない。だから教育者は覚悟して事に当たらなければならないし、僕はそういう職業を選んだことに本当に心から敬意を感じるが、それとともによくそれを覚悟したなっていう驚きと、もしや事を軽く考えてんじゃないだろうな?!っていう疑念や不安ともいうような思いを感じざるを得ない。

話しがだいぶそれた…私とスキーだったな…

近所に「お店のこうちゃん」っていう同級生がいた。頭がよく僕にとって興味深い小学生だった。
ある日こうちゃんちで一緒に遊んでいたらちょうど小包が届いて開封したら「がんばれロボコン」の超合金が出てきた。少年雑誌の懸賞に応募して当たったのだ。それはそれは羨ましかった僕は無茶苦茶悔しかった。彼は博学だったので僕ほとんどいろいろ論破されてた。
今でも彼が村に帰省してくると昔の話をするんだけど敵わない。「日本の政治はアホな文系の奴らがやってて理系の優秀な人間が表に出てこない」って言ってはばからないけど、たしかにそうかもしれない。もっと論理的に政治をすればスッキリうまくいくかもしれない。彼はこのコロナ禍をどう見てるんだろ、今度帰ってきたらきいてみよう

話しがまたそれた…私とこうちゃんだったっけか…

続きは次回…





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