唐津観光と唐津線に乗車していて感じたこと | 模工少年の心

唐津のホテルのロビーにて、まず目に入ったのは、ビーチ用品の展示でした。

海水浴の人気が薄れている中で、何かとても懐かしいものを見たような気がしました。


とは言え、3年ぶりの行動制限なしの夏ということで水難事故が増えているようです。

海水浴などに行かれる人は十分に気をつけて…、と思いました。

 

この地へ来る前は、「呼子の朝市に行きたい。名護屋城址にも行きたい。」と思っていましたが、車がなければ、時間的にとても行って戻って来れそうにありません。

名物のイカは、前夜、ホテルで活き造りを出していただき、十分に堪能しましたので、それもあって呼子行きはあっさりと諦めることができました。



代わりにホテルからほど近い唐津城へ行くことにしました。

唐津城は、海を背にして高台にそびえたっています。

天守閣に登ってみると、360度の展望は気分爽快にさせてくれるし、何より人が少なく、雑踏がなく無音の静けさがうれしいです。

 

昼食は唐津駅の改札口横のラーメン店でラーメンを食べました。

普通のラーメンなのに、佐賀牛の炙り肉が付いてくるのはお値打ちです。


店内は、男女別の高校生のグループで賑わっていて、次々に替え玉などを注文する食欲旺盛さに羨ましさを覚えるばかりです。

 

そうして、改札口を抜け、唐津駅のプラットホームに行ってみると、入ってきたのは、国鉄時代の生き残り、キハ47系DCです。(下は筑肥線筑前前原行き103系1500番台電車)



九州旅客鉄道各線で見ることのできるワンマン運転対応の黄色い気動車、キハ125形よりも大型ですが、その分軽快さがありません。

 

蒸気機関車か走っていた時代、どの線区でもオールマイティという機種はなく、各線区ごとに使い分けがされていました。

使われる機関車の種類で、地形がある程度想定できる便利な尺度だったわけです。

松浦線はモーガルの8620形、唐津線はコンソリデーションの9600形。

(筑肥線はタンク機関車のC11だったのは、今から思うと力不足の感が否めません。)

 

若干、今も同じような傾向が見てとれます。8260形がキハ125形、9600形がキハ47形というところでしょうか。

 

キハ47形気動車に乗り込み、網棚にキャスタートランクを乗せて、一つ後方より座席に座っていました。

そうしたら、唐津駅で出発間際に一人の年配の男性が乗車され、キャスターを乗せてある位置の座席に座られました。

 

それで、失礼かと思い、自分の座っている座席の上へとキャスターを移動させると、その男性から「そのままでよかですよ」と声かけされました。

私は、「いえ、何かの時には心配ですから」と返したのですが、そのような会話があったせいで、その方が岩屋駅で下車される間際に、「写真を撮るなら次の厳木(きゅうらぎ)駅がいいですよ。石炭時代、賑わいましたから。面影が残っていますよ。」と教えてくれました。(煉瓦造りの給水塔が残っていること。後で知りました。)

 

私が、山本駅の前面展望を写真に収めようと、前方に進み出て運転席横のウインドウ越しに撮影している様子に、鉄道ファンだと見抜かれたのでしょう。

先程の言葉はそんな私へのアドバイスでした。

 

ところで、地名と人名には関連性があることは承知していますが、久保田駅、山本駅は、いかにも人名という感じで、しかも両駅とも同じ唐津線というのも不思議な気がしていました。



また、山本駅は、筑肥線の唐津方面への乗換駅であり、支線も伸びていて、時刻表の案内図には地域の拠点駅として大書されていたので、どんなところなのか?興味があったのです。(人家もまばらで、小さな集落に位置する駅であったことに驚きました。)



列車が厳木を過ぎると、次の多久駅まではそれまでとは違って確かにかなりの急勾配でした。

 

かつて、唐津線は石炭の積み出しで重量貨物列車が行き来したため、9600形が配置されたので、喘ぎながら勾配を上るその姿はさぞや壮観だったことでしょう。

 

地図をみると、筑紫山地に位置する笹原峠が分水嶺となっていることがわかります。

こういうところが、走行写真の好撮影地になるわけですから、鉄道ファンには地形図は、非常に便利なツールです。


多久を過ぎれば、佐賀平野が広がり、違う景色が見えてきました。

久保田駅で長崎本線と合流し、列車は終着駅、佐賀駅を目指します。




佐賀駅で乗り換え、鳥栖、久留米を経て、当日の宿泊先の筑後吉井へと向かいます。