Aさん(男性=職業デザイナー)が語ってくれた話である。


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代なかばを過ぎた頃、彼は大きなデザイン事務所で働いていた。

仕事は多く、毎日、深夜まで納期に追われた仕事をしていた。土日も休めないことは多かった。

月曜日だった。締め切りが迫った仕事を抱えていてその日も深夜になりそうだった。

夕方の5時前くらいだったという。デスクの上で携帯が鳴って、出ると実家の母親からだった。

母親は沈んだ声で言った。

「杉田さんちのヤッちゃんが亡くなったいうんよ」

Aさんは「どうして、なんで」と聞き返した。電話の背後どこか遠くで犬が鳴いていた。

「事故らしいけど、まだわからんが。さっき葬式出すって近所の人が教えにきんさった」

Aさんは西日本のO県の出身だ。しかも、郡部で田んぼと山しかないような田舎町で育った。

高校を卒業し、東京の専門学校に進んで、それ以来東京で働いている。

ヤッちゃんとは、Aさんの幼なじみである。家も近くずっと遊び友達で親友だった。同い年で地元の小学校中学校そして進学した高校も同じだった。親同士も近所の顔見知りで、互いの家を行き来することは当たり前だった。

ここしばらくは会えていなかったが、3年ほど前の正月に帰省した時に、家を訪ねてくれてビールを飲みながら仕事の話などをしたのだった。

ヤッちゃんは就職で大阪に出たが、会社がいわゆるブラック企業で先の望みが持てないから、春には実家に戻りO市で仕事を探すと言っていた。

その半年後くらいだろうか、メールが来てO市のアパートに引っ越し、住宅メーカーの営業になったと書いてあったように思う。ぜひ会って話したいことがあるから、こっちに帰ってきたら必ず連絡をくれとあったが、Aさんはその後一度も故郷に帰ってなかった。

 

「今晩が通夜で、葬儀は明日、公民館でやりよんさって。あんたは帰ってこれんやろうから、アタシがお参りしてアンタの名前で香典出しとくて」

という母親に、香典をお願いしてAさんは電話を切った。

仕事に戻ったAさんだったが、時間が経つうちにじわじわと体の奥から湧き上がってくる悲しみに耐えられなくなってきた。PCのモニターが涙でぼやけてまったく見えない、ついには嗚咽を漏らした。

涙が止まらないなんて、子供の頃から記憶になかった。高校を卒業して以後は数えるほどしか会っていなかったが、兄弟以上だった幼なじみの訃報に大きなショックを受けていたのだ。

隣のデスクの同僚が心配して声をかけてくれた。周囲がAさんの異変に気付いた。

上司の女性チーフがAさんから事情を聞き出した。

そしてきっぱりと言った。

「お葬式に間に合うなら行って来なさい。あなたの仕事なら心配しないでも私が全部やっといて上げるから…」

 

Aさんは押し出されるように事務所を出てタクシーで自分のアパートに帰った。

大急ぎで喪服と替えの下着だけをバッグに入れて東京駅に急いだ。ぎりぎりだったが、8時のO駅行き最終ののぞみに間に合った。O駅からは深夜にもう乗り継ぐ電車はないだろうから、タクシーかレンタカーだなと考えながら暗くなった車窓の外を眺めていた。

のぞみの車内は半分以上が空席ですいていた。

Aさんは二人掛けの席の窓際に座っていたのだが、おそらく新横浜を過ぎて静岡あたりでうとうととした。のぞみに乗ったことで一時の興奮状態がおさまり、ずっと睡眠不足で働いていた疲れが出たのかもしれなかった。

「ここ空いていますか?」

突然、通路から声を掛けられてAさんは目を覚ました。青いワンピースを着た若い女性で、小さな茶色い革のバッグを提げていた。

Aさんは咄嗟に、どうぞと言って、周囲を見回した。

先ほどまでは空席だらけだったが、なぜか8割がた席は埋まっていて3列のシートも通路側はほとんど埋まっている。いつの間にか名古屋を過ぎたのかも知れなかった。

Aさんは隣に腰かけた女性を見るともなしに見て息を飲んだ。

沙奈絵さんだったのだ。

人違いかも知れないと思った。もう一度、怪しまれないように横目でそっと見た。

記憶の中の沙奈絵さんよりは、ずっと大人びていてお化粧もしている。しかし、過去に幾度もこうしてすぐ左隣に座る彼女の横顔を見つめたことがあった。確信に変わった。

10分くらい様子をうかがったが、我慢できなくなったAさんは声をかけた。

「あの、間違っていたらすみません。石田さん、石田沙奈絵さんじゃありませんか?」

女性は落ち着いた様子でAさんのほうに向きなおった。

「ええ、石田です。すぐにわかりました? 私はすぐにAさんだってわかりましたよ」

「サナちゃん…」

Aさんは思わずかつて呼んでいた懐かしい呼び名で呼んだ。彼女はにっこりとほほ笑んだ。

「え、いまどこに住んでいるの? O市に帰るの? 何年ぶりだろう」

Aさんが早口で投げかけた質問に、彼女はなに一つ答えなかったが、親しげにとても懐かしそうにAさんの目をまっすぐ覗き込んだ。

沙奈絵さん、サナちゃんは、Aさんが生まれて初めてつきあった女性だった。高校2年生のときに同じクラスになり、席が隣同士であっという間に親しくなった。Aさんが美術部で絵を描いていることに興味を示し、部員が4人しかいないのに広い美術教室を占有しているのを放課後に見学に来たりした。Aさんは勇気を振り絞って、一学期の終わりに沙奈絵さんに絵のモデルになって欲しいとお願いした。

それは、恋心の告白とほぼ同じだった。沙奈絵さんは一晩考えて、大いに照れ恥じらいながらもOKの返事だった。夏休みは長い時間を二人は美術室で過ごした。

あっと言う間に、Aさんと沙奈絵さんが付き合っているとクラスで噂になり、すぐに飽きられた。絵は秋になって完成し、文化祭で展示された。

まだAさんがきちんと告白して恋愛関係に踏み出していなかったが、石田さんからサナちゃんに呼び方がかわり、日暮れの公園でぎこちなく手をつないだりした。

冬が来る前には、陸上部でやり投げをやっていたヤッちゃんにも正式にサナちゃんを紹介した。ヤッちゃんは、親友に彼女が出来たことを自分のことのように喜び、なぜか顔を上気させ、ファストフード店の2階で「こいつはいいやつだから…」と連呼した。

サナちゃんとヤッちゃんはすぐに打ち解けて仲良くなった。冬休みに入って、サナちゃんの友達も交えて4人のダブルデートで映画を観に行ったりした。初詣にも行った。

Aさんにとって、忘れえない青春の思い出だった。

 

季節が一巡りして卒業が近づき、それぞれの進路はバラバラになった。Aさんは東京のデザイン学校へ。サナちゃんは地元に残って大学生になった。ヤっちゃんは大阪で就職した。遠く離れて、メールのやりとりは間延びしながら続いていたが、いつしかそれぞれの日常に押し流されるように細い糸は消えていった。

Aさんがデザイン学校の課題制作の最後の仕上げに、東京の寒いアパートでひとり苦闘しているときに、数か月ぶりにヤっちゃんからメールが来た。

〈成人式に行った。中学高校の同級生たちと再会した。みんなAがいまどうしてるか気にしていたぞ。みんなの写真撮ったんで送るわ。振袖着た女子大生サナちゃんカットもあります。ぼっけかわいいんじゃ〉

 

Aさんは、Aさんの目を覗き込むようにしたサナちゃんの丸い瞳の中に何年も前の風景が走馬灯のようにあわただしく映し出されていくような錯覚を覚えた。

 

「ヤっちゃんが、ヤっちゃんが死んだーいうんじゃ。お袋から連絡が来て、明日葬式やけ、いま帰るとこなんよ」

唐突にAさんの吐き出した言葉に、サナちゃんは驚くでもなく、冷淡なほど静かに、

「知っちょるが」と懐かしい方言で応えた。

 

次の瞬間、Aさんは目を覚ました。車内アナウンスが京都駅への到着を伝える。Aさんはサナちゃんを探した。隣の席には誰も座っていない。立ち上がって、車両の中を見回す。まばらな客の中から、京都駅で降りる者たちが立ち上がり通路を歩いて行く。その中にサナちゃんの姿はないが、じっとしていられずにAさんも乗降口に向かった。

Aさんは一度、ホームに降りて左右を見回した。パラパラと降りた乗客がホームを歩いている。すぐに発車ベルが鳴ったのであきらめてAさんは席に戻った。

 

大阪、新神戸を過ぎるころには夢だったのだとはっきりわかった。

ヤっちゃんの死の知らせで、ともに過ごした高校時代の記憶が呼び覚まされて夢に現れたのだと思った。しかし、夢の中のサナちゃんは生々しい印象を残していた。Aさんが知らない大人の女性になっていた。