金子兜太 十句
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
華麗な墓原女陰あらわに村眠り
殉教の島薄明に錆びゆく斧
手術後の医師白鳥となる夜の丘
バスと並ぶ星夜ブルドーザーの男
粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に
夜の鏡に星が導く海のうねり
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島
火星汚れて会議のあとの窓を飾る
金星ロケットこの日燦燦とパンむしられ
五島高資 十句
我が影に蛙飛び込む光かな
葉は波に梅は実となり朝羽振る
竹の花咲く逆鱗のあたりかな
驟雨来て那須の篠原うねりたる
くれないにみどり鮑の殻光る
みどり差す皇居やミトコンドリア
鹿の子の眼のみどりなす常夜かな
みどりなす胆嚢ぬばたまの闇夜
凩や海石まで来て振り返る
天草の海髪に大和は沈くなり
昭和32年、金子兜太は俳句創作理念としていわゆる「造型」の詩法を提唱し、実作面では現代俳句協会賞を受賞している。また、翌32年には、朝日新聞阪神版俳句欄の選者に就任する。まさに「社会性俳句」あるいは「前衛俳句」の旗手として他の追随を許さない旺盛なる創作活動が展開された時期である。
昭和33年、兜太は日本銀行長崎支店へ転勤となる。ちょうどこの年、長崎にて〈彎曲し火傷し爆心地のマラソン〉の句を得るが、実はこのあたりに兜太の作風における一つの大きな転換点があったと私は見ている。それはまず肉体的問題から始まったのである。
翌34年に兜太は不惑を迎えるが、その頃の体調について兜太は次のように述べている。「四十歳の声を聞く前後から体調が変化しやすくなり、体力の低下を感じはじめた。(中略)作品もだんだん脂気が抜けて、漂白されてゆくように思えた。それがはじめは不安だった」(『蜿蜿』後記)と。しかし、この肉体の衰えを自然の摂理と諒解し、むしろ、逸る精神をこそ肉体に順応させることによって兜太は「自然(じねん)」という生き方を見据えるようになる。そして、これまであまり気にも留めなかった肉体とその母体としての風土というものにかけがえのない詩情を見出していくことになる。こうした思いに成ったのが、前掲した〈湾曲し〉の句なのである。まだ被爆の傷痕の残る長崎という土地の悲痛を火傷の疼痛という体感的共有感覚を以て自然に受け止めているのである。逸る心を抑えて身体のペースを保ちながら忍耐強く駆け抜けるマラソンランナーの姿に兜太は自らの在り方をも重ね合わせていたのかもしれない。
昭和35年、兜太は東京へ戻るが、戦後のアメリカナイズに伴う急速な物質中心主義や合理主義による「風土」の崩壊はすなわち日本語や日本文化の危機を露呈していた。兜太はそのことにいち早く気付く。コンクリートジャングルあるいは東京砂漠という言葉通りの殺伐とした東京にあって、わずかに土が残る自宅で〈果樹園がシャツ一枚の俺の孤島〉と詠まざるを得なかった所以でもある。「社会性俳句」や「前衛俳句」と呼ばれた兜太の作風はすでにこの頃から「風土」に根ざした「造型」の詩法によって超克され新しい詩境の展開が始まっていたのである。季題を突き抜けて物事の本質に迫るその詩法は今でも私を魅了して止まない。「造型」の詩法の集大成と位置づけられる〈人体冷えて東北白い花盛り〉という白眉が詠まれるおよそ六年前のことである。
白い影はるばる田をゆく消えぬために 兜太
朝はじまる海へ突込む鴎の死 同
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 同
昭和36年『俳句』に掲載された「造型俳句六章」における「造型」の方法であった。そのなかで、兜太は、花鳥諷詠や山口誓子の写生構成を諷詠的傾向、中村草田男らの人間探求を象徴的傾向、富沢赤黄男らに見られる現実を主体の内に求める傾向を主体的傾向と分類している。そして、諷詠的傾向ではあくまで対象物を自らの外に置くことによりその在り様を描写するという主客二元論的な観念に捕らわれ易く、また象徴的傾向と主体的傾向では主体へ執着することにより芸術的真理からかえって遠ざかってしまう傾向を指摘している。つまり、それらはみな、私があって、その周りに世界もまた無条件に存在しているという安易な主客二元論に陥っているというのである。
そこで造型の方法においては、主客の間に「創る自分」と兜太が呼ぶ新しい自我が導入されることにより、主客という二項対立的観念を超えて芸術的真理としての「物自体」に迫ろうと試みる。そのためには外在する物象について一旦それらを括弧の内に入れて判断を保留するという現象学的エポケーが必要であり、そこから新しい物象世界が再定立されなくてはならない。しかし、エポケーされた「物自体」としての世界は「原初的世界」であるが故に、そこから再構築される世界はややもすると独り善がりになりがちである。
粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に 兜太
この句が作られた当時、小西甚一は、「わからなさ」にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の「わからなさ」であり、そのわからない理由は、現代詩における「独り合点」の技法が俳句に持ち込まれたからだと批評した。つまり小西の批判はまさに〈粉屋が哭く〉の句における自我中心的一面に向けられていた。一方、原子公平は、〈粉屋が哭く〉の句の魅力は異質な運動感覚の同化作用にあるとし、他者にも共有可能な詩的感覚の存在を認めている。つまり、小西説における自我とは個別的自我であり、それはあくまで小西氏という個別的自我から見た金子氏の個別的自我に過ぎない。それはまさに主客二元論的見解である。一方、原子説による自我とは間主体的自我であり、それは原子氏という間主体的自我から見た金子氏の間主体的自我なのである。ここに、二つの相交わらない自我論的テクストを垣間みることができる。もっともそれぞれの論説はそれぞれのテクストにおいて間違ってはいない。しかし、あくまで私の独断ではあるが、自我の深化という意味ではどうしても後者の立場を支持しなければならない。
さて原子氏は〈粉屋が哭く〉の句における「粉屋が哭く」「山を駈けおりる」という二つの言表を他我の現象として捉えたが、さらにその他我もまた自我と同じく、自我と比類的に自己の原初的世界を持ち、却って自我をそこにあらしめているとも言える。つまり個別的自我とは区別されるこうした自我と他我の相互交流の場において認められる自我こそが間主体的自我なのである。このように間主体的還元においては、自我と他我との相互作用により現実性が獲得されるものであるが故に、必然的に社会・文化・歴史などに深く関ってくることになる。かつて社会性俳句と称された金子兜太らの一群の俳句もまた何か特別な俳句というわけではなく、俳句における自我の探求という欲望から必然的に産み出されたものということができる。
金子兜太による間主体的自我の導入という新たな方法によって、近代俳句を束縛していた「仮の主体」から脱して現実を直視できるようになったと言ってよいだろう。それはまさに俳句における現象学的展開であた。しかし、この間主体性はまだ相互性の立場におけるものであって総体性の立場におけるものではない。そして、それは完全な統一性を獲得したわけではなく、従って万人に対して共通の世界を構成しうるとは言えない。この点が小西氏による「独り合点」という批判に繋がってくるのだと思う。そこで間主体性における自我と他我という二項対立的観念をも超越し、自我と他我が純粋に相互滲潤するという超越論的還元によって間主体的自我は超越論的主体にまで高められなければならない。この超越論的還元によってこそ言葉は観念という「死(タナトス)の世界」から「生(エロス)の世界」へと生まれ変わるのである。
のちに兜太は俳諧を「情(ふたりごころ)を伝える工夫のさまざま」であるとし、自己の内に閉じこもる「心(ひとりごころ)」に対する他者に開かれた「ふたりごごろ」に注目するようになる。このことはまさに個別的自我や間主体的自我から超越論的自我への志向を示すものである。フッサールの超越論的還元においては、その総体性を保証するものを類比的統覚という漠然とした概念で捉えているのに対して、兜太はその超越論的還元の保証を「風土は肉体である」という体感的共有感覚に求めている。
人体冷えて東北白い花盛り 兜太
「わたし」はエポケーによって「人体」という「物自体」と同列に置かれるている。また東北地方を連想させるリンゴの花や辛夷の花などの具体的な言葉はなく、むしろそれらの要素が抽出されたものとして「白い花」が提示されている。「物自体」として冷える「わたし」=「人体」と「白い花」との絶妙な共鳴の根底にはまさにそれを保証する東北の風土が横たわっているのである。この共有感覚が「ふたりごころ」として私のこころに響いてくる。その時、俳句はエクリチュールを超えて、タナトスからエロスへの還元として詩的昇華を獲得するのである。