普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

モノマネのモノマネもまたひとつの文化か?

僕が小学生の頃、今に比べてテレビでモノマネ番組が盛んに流れていたように思う。そしてそれをけっこう楽しみにしていた。しかしいつ頃からか他人の芸を真似することで糧を得るという行為に違和感を感じ、それだけでなく嫌悪するようにまでなった。真似るだけでなく茶化してるわけでしょ?そんなの侮辱じゃないかと。

たぶんそのタイミングはギターを始め、自分でも曲を作るようになった頃からなんじゃないかと思う。オリジナルであることこそが正義、パクリなんぞ言語道断。オマージュって言っても言い方やんけと何かと融通のきかない面倒くさい思想に燃えていた頃の話である。一言で言えばこじらせてたということに他ならない。

しかしバンド活動を経て、ライブハウスで勤務するなどして数えきれないほどのバンドの楽曲に触れ、考えは次第に変わっていく。

オリジナルのパクリ(それをひとは「影響」と呼ぶ)まではありなんじゃないの?まんまパクったらそれは問題だけど、そのひとのそれまでの様々なインプットを頭の中でがっちゃんこしてぬるりとアウトプットすると「あー、○○っぽいけどそのひとらしさもあるね!」になるのではと。いわゆるパクリの中にも独自解釈を加えるということである。

モノマネ芸人でいうところの茶化しだと思っていた部分、コロッケでいえば美川憲一×ロボコップなどもただうまくやれちゃうだけのモノマネの中に独自解釈というエンターテイメントを埋め込んだというわけだ。そう思えたとき、プロフェッショナルとしてのレベルの高さにおののいた。

中途半端なオリジナリティを求めようとしてクオリティを上げられないのならそんなものはさっさと捨ててアウトプットの方法を変えるべきということだったのである。

バンドでいうなら(というかメタルでしか例えられないけど)メロスピの雄であるHELLOWEENが好きすぎるからと言ってその楽曲に寄せた楽曲をいくら発表しても「HELLOWEENが好きなんだろうなという二番煎じバンド」でしかない。そこにやはり好きすぎる美麗なるネオクラシカルフレーズ使い、イングヴェイも掛け合わせちゃいますかという発想のもとに生まれたのがメロスピ×ネオクラシカルStratovariusであろう。真相は知らんけど。でも要はそういうとこなんだとおもう。そしてきちんと人気バンドにのしあがっていった。

ただね、ここでStratvariusの真似をまんまやってしまうという現象もまた頻出するケースなのである。それはもう全然ダメっす。ダメというか人気の範囲が限定的すぎる。

ここでまたモノマネ芸人の話に戻るとコロッケのあのぶっとんだモノマネ芸はやはりすごい。真似したくなる。したいと言ってそう簡単にできるものでもないが、仮にそれをマスターしたとする。それをクラスメイトの前で披露したらどっかんどっかんウケることだろうと思う。しかしそこまでなのだ。所詮は他人の芸。よそでできるものではないので知人の前でのお披露目レベルかつそこでの人気まで柄限界だ。そこでまた「コロッケのモノマネ+α」としたら話は別であろうけれども。

長くなってしまったけど、結局何が言いたかったかというと、僕がバンドをやっていた時代、対バンに「モノマネバンドのモノマネ」みたいなバンドがけっこういたなということをふと思い出したので本日のエントリーということでしたのよ。そういうバンドってやってることうっすいわりにはMCでアツいこと語ってうっすらファンをつけたいたりとかしてね。やってることは真似てる先とほぼ一緒だから当然聞きやすさ、入りやすさはあるわけなのよ。なんだかなあ、なんだかなー(©️阿藤海)と思いながら眺めたりしていたのだ。

当の僕らはメタルという鋼鉄の魂にどうチャラいエッセンスをまぶせるかという非常に高尚な試行錯誤を繰り返し、なんかうまくいくかもなんて思いかけたころに解散しちゃったんですけども。

僕の受け取り方が変わったということもあり、現在はきちんと独自解釈をもってモノマネをしている芸人さんについてはリスペクトできるようになってきた。コロッケとか普通にすごいと思えるもの。希代の方だ。

こうして歳を重ねるごとに物事に対しての理解は深まっていくのだが、やはりかつて放送されていた「夜もヒッパレ」についてはいまだに良さが理解できない。なんで芸能人のカラオケパーティー見なきゃいけないんだと。

あれもそのうち良さがわかるんでしょうかね。楽しみ方を知ってるひといれば教えてください。