普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

そこに在るのに無い(味が)哲学的食べ物おきゅうと

「味がしない」という表現がある。主に味が濃いものを好む傾向にある方々によって食べ物をそう表現していることが多いように思う。僕は子供のころから腎臓が悪かったこともあり、その治療の一環として無塩、タンパク質制限食というストイックを煮詰め切ったような献立を腹に詰めるしかない時期があったので”食材の味”というものを感じることを幼い頃から余儀なくされていた。

というかそうでもしないと食事が本当に楽しくないのでそうするしかなかったという面もあるが、塩気がなくてもまあまあ”食材の味”を楽しめる程度にはなっていったのだった。とはいえ、病院食でキャベツをサラダ油で炒めただけ、というか油で和えただけなんじゃないの、これというぬるぬるキャベツ(常温)が献立のメインを張ろうとしてきたときは静かに心を閉じた。

何が言いたいかというと、妻以外と食事をしていて知人友人が「味がしない」という表現をしていても心の中ではこっそり「食材の味するしまあ僕はこれでもいいや」などと思っているということである。あくまでも「味がしない」のは調味料(主に醤油、ソースを指しているのだと思われる)の味がしないということだろうなと思っているのでわざわざ「食材の味しますけどー!」とか無粋なことは言わない。

そんな僕ではあるが、驚愕の味のなさを突きつけられた食材がある。それがこれだ。

おきゅうとである。何で知ったのだかは思い出せないけれども、そういうものがあると頭の片隅には記憶されていた。そしてある日福岡県のアンテナショップを訪れた際、運命的な出会いを果たしたのだ。

「こ、これが噂のおきゅうと…!!」

迷わず購入。こういうのはひとりで食べるものでもなかろうと行きつけの飲み屋に持って行き、常連客とおきゅうと童貞を卒業しだのだった。

エゴノリという海藻を原料にこさえられているところてんの親戚のような食べ物だが、その感想は圧倒的無。事前に「沼っぽさがある」と聞いていたが、その沼っぽさすらかなり味覚への神経を研ぎ澄まさなければ感じることは困難だった。確かポン酢的なものをつけて食べることを推奨されていたが、ポン酢を舐めるための可食物体なのだなと位置付ける他なかった。

圧倒的虚無を繰り出してくる食べ物といえば冬瓜などもあるが、あれは調理ができる。そして食感もある。しかしおきゅうとはさしみこんにゃく的なビジュアルでいながら”無”。食感は押し出す前のところてんよりもろい。そこにあるのに口の中に入れたら無となる。もはや哲学といえるほどに食べ物という次元を超越したものであると言わざるを得ない。

人生いろいろなものを食べておくものだなあと僕の心の中の珍味手帳の1ページにその存在を刻みつけたのであった。ちなみにおきゅうとは福岡ではふつうに食べられているとのことで珍味でもなんでもないらしい。食の地域性は興味深い。

本当の味がしないってのを味わえるとんちみたいな食べ物、おきゅうと。興味本位で食べてみるのも良いかと思います。経験値はあがる。

味なし対抗馬の冬瓜の勇姿