「ポツダム宣言」と日本の「法」
以前、ポツダム宣言の時にね、連合国の連中がそこに込めていた「ポツダム宣言の意図」について、当時の日本政府や学者などの指導層の連中がいかに無知だったか、そのためにポツダム宣言が意図するところを読み取れなかったんだということをお話ししましたね。
日本は「ドイツ法」が主流でしたから、「英米法」の考えで書かれた「ポツダム宣言の意図」を読み取ることができなかったんですね。
東京帝大には「英米法」をやっていた末延三次さんがいて、とても優秀な方ではあったんですが、やはり日本では「ドイツ法」が主流でしたから、まあ権威主義がはびこる中では色々と難しかったのかもしれませんね。
いずれにせよ、当時の日本の連中は「ポツダム宣言の意図」を全く理解できていなかったんですね。
そうなってしまった原因は何かといえば、まあ戦争末期の動転はあったにせよ、ただただ「無知」であったことに尽きるのではないかと思っています。
まあ、当時は「国體の本義」がどうだとかこうだとか幼稚なことばかりやっていて、基本的な学問、社会学の洗礼を受けてなかったということではないでしょうか。
当時の日本は「中身のない精神主義」ばかりでね。
ポツダム宣言は「直接方式」による「契約の申し込み」
日本の降伏がポツダム宣言の受諾によるものであったことは疑いようのない事実なんですが、このポツダム宣言は、日本国および日本国政府に対して「降伏条件」を提示した文書であり、その受諾によって、国際法の一般規範に則った「国際協定」になることを実体とするものだったんです。
この共同宣言自体の法的性質がどういうものだったのかについて、もう少し詳しくお話しすれば、これは結論からいうと、ポツダム宣言は法的には日本との戦争の終結を目的とする「終戦協定」という性質を持つ「契約の申し込み」に他ならないもので、日本の受諾によって国際法の一般規範に則った国際協定が成立することになるという、そういう意味を持った行為だったんですね、この宣言自体が。
そして、この「ポツダム宣言の意図」を理解するための前提として押さえておかなければならないのが、ポツダム宣言を出すにあたって連合国が選んだ「契約の申し込み方式」についてなんです。
実際にこの時連合国が選んだやり方は「直接方式」というんですが、つまり連合国としては、この方式を採る以外にも別のやり方があったということなんです。
日本としてはどうしてもこの点については押さえておく必要があったんですがね。
そして「連合国がなぜ別のやり方でなくて『直接方式』を選んだのか」ということについて、よくよく考えなければならなかったのに、当時の日本の連中はそういうことについて全く「無知」だったということなんです。
しかも、この状況は今に至るまで全く変わっていないのかもしれません。
私の他にこのことを指摘している人を知りませんのでね。
「直接方式」と「間接方式」
実際に「直接方式」でないやり方に「間接方式」というのがあるんです。
例えば、映画の看板を出して「今こういう映画をやってますよ」というのは、これを法律上は「申し込みの誘因」といいます。
「申し込みそのもの」ではなくて「申し込みを誘うためのもの」だということですね。
あとは、それに応じてお客が入場券を買うかどうかということになるんですが、それでお客が入場券を買えば、それがすなわち「契約の申し込み」「契約の申し入れ」になるんです。
つまり映画の看板を出すというのは、お客に対して「申し込みの誘因」を示し、これに応じてお客が入場券を買って「契約の申し込み」をしてくるかどうかを待つということであり、これを「間接方式」というんですね。
しかし、連合国は日本に「申し込みの誘因」を示し、それに応じて日本が入場券を買うといったように、「契約の申し込み」つまり「降伏の申し入れ」をしてくるかどうかを待つという「間接方式」は採らなかったんですね。
連合国はこの多様性に富む「間接方式」を採らなかった。
日本に「契約の申し込み」をさせるための「申し込みの誘因」を示す「間接方式」を採用せずに、連合国はポツダム宣言を発するという「直接方式」を採った、ということなんです。
「直接方式」を採って、いきなり日本に具体的諸条件を示して直接受諾を迫ったんです。
連合国が「直接方式」を選んだ意図
つまりね、連合国から色々な申し込みの仕方があるよと、立て看板のようなものをいっぱい示して、それに応じて日本から申し込みをやらせて、それに対して連合国が「いやこれはああだ、こうだ」という風に進める交渉のやり方もあったはずなんですが、そんなものは全部ふっ飛ばしちゃって、もういきなり「直接方式」で条件だけを示すというやり方を連合国は選んだんです。
つまり、連合国としては「もう『直接方式」以外の方式を採るような悠長なことはしてられない」と判断したからなんでしょう。
だから、日本としては「これは連合国としてはどうしてもここでポツダム宣言を日本に受諾させて、これで戦争を終わらせようという意図なんだな」という風にすぐに受け止めて、これをすぐに受諾しなければならなかったんです。
それだけ連合国としては、とにかく一刻も早く戦争を終わらせたかったということであり、実際この宣言からは「どうしてもこれで戦争を終わりにさせるんだ。日本の意思など聞く必要はない」という意図がはっきり読み取れるんですから。
これ以上戦争が長引くと、日本本土での決戦を覚悟しなくてはならなくなるし、そうすると双方にとってこれまで以上にたくさんの犠牲が出るだろうし、当然ながら戦費もかさむし、戦争を続けるうえで国民の理解を得るのも難しくなってきているし…などなど、連合国にとって抜き差しならぬ、差し迫った事情があったということなんでしょう。
いずれにせよ、日本としては「ああこれは『直接方式』でやってきたな。連合国は否応なく戦争を終わらすという決意でやってきているんだな」という風に読むべきだったのに、日本はそういう受け取り方をしなかったんです。
そうしなかった証拠に、日本政府は「これを無視する」という談話まで出しているんですから。
これは本当にまずかった。
日本は一番やってはいけないことをやってしまったんです。
「我等の条件は左の通り、我等は右条件より離脱することなかるべし」が意味すること
さらにポツダム宣言には「これは『直接方式』なんだよ。我々には戦争を否応なく終わらせる決意があるんだよ」ということを、どうしても日本に伝えるべく、ダメ押しの文言まで入れてあるんです。
それが「我等の条件は左の通り、我等は右条件より離脱することなかるべし」というものです。
これは紛れの余地なく周到に準備された文言に違いないんです。
というのも、そもそもポツダム宣言は「英米法」の考えで書かれたものなんですが、この文言は本来、「英米法」では絶対に書かないものなんです。
それでもポツダム宣言にこの文言を入れてきたというのは、日本は「ドイツ法」の国だということを彼らは知っていたからなんですよ。
とりわけ「我らは右条件より離脱することなかるべし」という文言を後ろにくっつけたというのは、これは何ら特別な意思を示すものではなくて、その文言をつけておかないと、日本は「英米法」の国じゃないから「それ、実は知らなかったんだ」という言い訳をしてくるかもしれないので、そう言わせないためにわざわざくっつけて、重ねて注意を喚起してきたということなんです。
向こうとしては「どうしてもこれで戦争を終わらせるんだ」ということを決意しているんだから、あとで「いや~実は日本は『ドイツ法』の国なので、そういうこととは知らなかったもんで…」などとはよもや言わせないぞと、日本に「ポツダム宣言の意図」が必ず伝わるよう、紛れの余地もないようにこの文言をくっつけたということなんですよ。
つまり、連合国側としては「『英米法』では本来必要のない文言だけれども、我々の決意をどうしても日本側に理解してもらわないといけないので、『ドイツ法』の日本でも分かりやすいように、わざわざこの文言を入れたんですよ」というメッセージをポツダム宣言に込めたということなんです。
「ポツダム宣言の意図」を読み取れずに右往左往していただけ
だから我々日本人としては、ポツダム宣言という「契約の申し込み」で示された諸条件に目を移す前に、連合国側があえて「直接方式」を選んだということ自体に、つまり連合国側に戦争終結への並々ならぬ決意があるということを認めるとともに、そこに「日本の存亡をかけて受け止めるべき法的課題が提示されているんだ」という風に受け止めなければならなかったんです。
それなのに、全くそういう風に受け取った形跡がなくて、当時から日本ではポツダム宣言で示された諸条件ばかり注目してきたんですから。
もう本当にどうしようもない。
そもそもポツダム宣言には「これに代わる条件なし」という文言が入っているんだから、連合国側があとで新しい条件を提示してくるとか、天皇に対してどうこうしようとか、そういうようなことを言う余地はすべてなくしてしまっているんですよ。
だから日本としては「連合国はこれを受けさせる以外に道がないということを日本に分からせるために、十分な文言を向こうは用意して腰を据えてかかってきているな」ということをちゃんとわきまえて交渉に臨まなければならなかったのに、それを「無条件降伏」がどうだとか、「天皇制だけは担保されなければ受け入れられない」などとか全く的外れな議論ばかりしていたんですから。
「ポツダム宣言の意図」をちゃんと理解できていないから、「天皇制を維持出来るのか、それさえ認めてくれればいいから…」などと右往左往していたんですね。
そんなことはもうポツダム宣言の中ですべて言っているんですよ。
すべての条件が提示されていたんですから。
だから「天皇のことまでは求めないよ」ということだったんですよ。
連合国にとっても自らを拘束する文言をわざわざ表明したということ
さらにいえば「我等の条件は左の通り、我等は右条件より離脱することなかるべし」というのは、第六条から第十三条に至る諸条件が連合国をも縛るものだということを明らかにしているんです。
そして「…右行動における同政府の誠意につき、適当かつ充分なる保障を提供せんことを同政府にたいして要求す」というのは、「降伏条件」の履行が、日本国政府の「誠意」を基礎としていながらも、連合国による「適当かつ充分なる保障」の下になさるべきことを示した、ということなんです。
これは法的にはどういうことかといえば、「日本の降伏というは、国際協定による『条件付降伏』という実体をもったものなんですよ。ドイツのような『無条件降伏』ではないんですよ」ということなんです。
ましてや「日本を占領する」なんてことは一切求められてなくて、日本国政府がポツダム宣言を受託することで求められていたのは、ただ「軍隊のみ解体します」ということを、日本国政府が連合国に対して保証することだけだったんです。
「本当の敗戦」と戦後日本の不幸
それにも関わらず、「日本国政府には反対提案の余地のない」からと、「宣言を受諾すれば契約が成り立つ」という本来の法律上の性質をも否定してしまうような「法的誤解」がまかり通ってしまったんです。
そればかりか、これは「日本の無条件降伏」だとする風潮がいち早く、ジャーナリズムをはじめ、動かし難しい世論を形成してしまった、ということなんです。
日本側のこのような重大な不注意が、1945年9月6日に出された「連合国最高司令官の権限に関する通達」で「日本の無条件降伏」が強調されるに至った大きな理由の一つになったことは間違いありません。
「我々をこんなにも苦しめた『日本』はこの程度の国だったのか」「日本は立派な『文明国』だからと思って、対等に、礼を尽くして『申し入れ』をしたのに、こんな基本的な『法』のことも分からないのか」「日本が『無条件降伏』だと思ってるなら、そうしてしまえばいい」「とことん占領してやろう。そして二度とアメリカに立ち向かえなくなるように改造してしまえ」という風にね。
だからこれが「第2の敗戦」というか、これこそが日本の「本当の敗戦」だったんではないかとさえ思えるんですよ。
ポツダム宣言への対応を誤ったために、ポツダム宣言に対する正しい認識を持てなかったために、戦後日本は国家としての存亡の危機にずっと瀕することになるんですから。
このことが、どれだけ国民に不幸をもたらすことになったか、ということを考えると当時の指導層連中の責任は非常に重たいんですよ。
確かに、連合国との戦闘に敗けたのはもちろん軍人の責任が大きいでしょうが、「ポツダム宣言の意図」を読み取れなかった学者や官僚、政治家、政府高官などの文官連中の責任というのも決して軽くはないんですね。
そもそも国によって「法」の意味するところは違う
では、なぜ見誤ってしまったのか。
それは「日本の指導層のレベルが低かったからだ」としか言いようがないんですが、まあ単に「日本に『法」だとか『法律』というものを本当に理解している人間がいなかった」ということに尽きるんです。
今でも日本には本当に「法」というものを理解している人間が何人いるのか、はなはだ心許ないのですがね。
特に戦後はずっとそういう状態ですので。
しかし、実は明治維新以来ずっとそうだったのかもしれませんがね。
そもそも日本の法学者で「『法』とは何なのか?」についてしっかり説明できる人がいるんでしょうか、という状態なんですから。
昔、アメリカの国務省の招きで向こうへ行った時、ハーバードロースクールで昼食会に呼ばれましてね。
そこで、あちらの学者さんたちと大議論になってしまったことがあるんです。
その時門まで迎えに来てくれた人が歩きながらいきなり「日本の『法』って何ですか?」って訊いてきたんで、えらく感心したことを覚えています。
日本じゃそんなこと訊いてくる奴なんて一人もいませんでしたから。
で、それに答えて私が色々と話をしたら「ちょっと待て!そんな話は聞いたことがない!」ということになりましてね。
そのうちだんだんと人が集まってきて、色々な人があちこちから口を出してくるんで、しまいには昼食会なんかすっ飛んで大議論になってしまったんです。
議論をしている時にコーヒーを持ってくる奴がいて、そいつがついでに質問をしてくるんで、それに答えたらまた議論になってしまうといった具合でした。
私はどんな時も本音でしか話をしませんから。
こちらが本音で話してやると、向こうも本音で話してくるような感じなんです。
まあ、アメリカ人というのはそういう意味ではとてもフランクなんでね。
それで結局まともな昼食会もできなくなってしまったんで、招いてくれた責任者の人が文句を言っていましたけどね。
そもそも初めに私を門のところまで迎えに来てくれた人がブラジル人だったんです。
それできっとブラジルの「法」とアメリカの「法」というものの違いを意識するようになって、それで「日本の『法』というのはどういうものなんだろう」とでも思ったんじゃないですかね。
アメリカの「法」とドイツの「法」とは
まあ当たり前のことなんですが、アメリカの「法」とドイツの「法」と日本の「法」はすべて違うものなんです。
例えば、アメリカの「法」はどんなものかといえば、それは「手続法」でしてね。
アメリカでは「人間は間違える動物である」ということをまずは受け入れて、その代わり「間違い」を少なくするために、結論を出すまでにいくつかの手順を踏むことにしたんです。
それで、その正式な手順やら手続きを踏んで出した結論については「正しい」ということにしようというのが、いわばアメリカの「法」なんですよ。
そうやって出した答えの方がまだいくらかマシなんだろうというくらいの考えでね。
だからアメリカで「法」というのは「まあそうした方がいくらかマシじゃないか」という、その程度のものなんですよ。
一方、ドイツ人にとって「法」とは「正しい」ということなんです。
ドイツでは「法」のことを「レヒト」と言うんですが、そもそも「レヒト」という言葉には「正しい」という意味があるんですね。
だから、ドイツでは「これは正しい」ということが「法」なんですよ。
「正しい」ということなので、「法」は「善いこと」であり「道徳」なんです。
だからアメリカとドイツでは「法」の意味するところが全く違うんです。
「正しいこと、善いこと、道徳」であるドイツの「法」と、「こっちの方がまだましかな」というアメリカの「法」とは、根本的に意味が違うということが分かるでしょ。
それを東大の有名な法学者でも、「法」と書いた後に括弧してドイツ語で「レヒト」と書いてみたり、英語で「ロー」と書いたりするんですから、「ああこの人はまるで『法』のことが分かってないな」ってことがもう丸分かりになってしまうんですね。
何で日本人がね、ドイツの「レヒト」やアメリカの「ロー」から引っ張り出してきたようなものを日本の「法」として考えなきゃいけないのかっていうことなんですよ。
それは「法」というものの根本を全く理解していないからなんですよ。
日本に馴染まない外国の「法」を使い続ける日本
そもそも日本の法体系はドイツのものを参考にしてこしらえたものではあるんですが、そのために本来の日本の「法」ではない部分がかなりあるんですね。
いい加減なままで来てしまったんですよ。
日本の民法は初めフランスのものを元に作られたんですが、法政大学のあの高いビルは「ボアソナード・タワー」っていうでしょ。
あの名前になっている人はフランス人ですが、その人が自分の国の「法」をそのまま持ってきて日本語に訳しただけなんですよ。
だから日本に馴染まないのは当たり前でね。
しかも、日本の民法は初めフランスのを元にしたけれど、そのうちにフランスが戦争でドイツに敗けたら、それじゃ今度はドイツのものにした方がいいっていう風な具合でやってたんですから、本当にいい加減なんですよ。
それを日本では明治時代からずっと改正しないで使ってきたっていうんですから、おかしいでしょ。
それで日本は「ドイツ法」の国になったんですね。
本当は今の「学問分類」「学問体系」も日本に馴染まない
まあそもそも「学問分類」なんかもカントがやったものなんで、今の学問体系そのものがドイツの考えを元に作られてはいるんですがね。
今の学問の考え方というのはものごとを突き詰めて考えていく上で、優れている点は確かにあるんですが、ただ日本のものを捉えたり、突き詰めていくのにも適しているかといえば、必ずしもそうはいえないとは思いますね。
ものごとをそれぞれ学問の分野ごとに1つ1つ分けて捉えると、その分野のものだけを掘り下げていくには良いのかもしれませんが、ものごとというのは本来すべて繋がっているでしょ。
それを格子状に分けてしまうと、その枠の中から見渡さなければならなくなるんで、どうしても窮屈で視野が狭いものになってしまうんですよね。
特に日本の文化とか精神性(八百万の神、多種多様、拡がりのある世界観)だとかを考える上では、そもそも日本のものは四角四面で凝り固まったようなものではなくて、何でもありで柔らかすぎるくらいのものなんで、そんな枠なんかはいったん取り外して見渡さないと、とても捉えきれないんじゃないですかね。
確かに柔らかすぎていい加減になってしまうところもあるんですがね。
ドイツの国民性を示しているのが「レヒト」
それに比べるとドイツ人っていうのは細かいんですよ。
まあドイツ人というのは、色々と細かいことまで想定して「こんな時はどうする」ということをあらかじめ決めておかないと「動けない」という国民性なんですね。
その代わり決められたことは、きっちりその通りにやるんです。
例えば、この部屋のエアコンの設定は28度にすると決めたら、どんな時でも28度にするという些細なことまでね。
そもそもドイツ人は「森の民族」なんで、質素で贅沢はしないし、純朴で勤勉なんですよ。
融通が利かない面も多くあるんですけどね。(きっとユダヤ人には嫌がられたでしょうね)
こうと決めたらその通りにしないといけないという風にね。
どこかの街では戦争で破壊された街並みを、残っている古い写真を手掛かりにバラバラになった破片をみんなで何年もかけて集めてきて、実際に使われていた建物の欠片の部分をですよ。
それらをひとつひとつ組み立てて、元通りに復元させるっていうことを何十年もかけてやるような人たちですから。
だから「レヒト」も同じようなものなんですよ。
細かいところまで想定して、色々と決まりごとを書いてあるんですが、でもドイツ人にとって「レヒト」は日常のことなんですね。
ドイツ人にとっては、彼らの日常の「正義」のことですからね、本当に身近なものなんです。
でも、日本では外国のものを持ってきてね、これが「法」だというからね、日本人にとってはなじみの薄いものばっかりが「法」になっているんですよ。
ドイツで「法」といわれているようなものを日本人が見ても、何か自分の日常とは全然関係ないものに感じるのは当たり前じゃないですか。
「輸入法学」と法の「解釈学」ばかりの日本
昔は「輸入法学」という言葉を使いましたけどね。
自分の国の「法」を「法律」として規定していくのではなくて、ドイツではこういう文面がどうなっているかということで、ドイツで適用されているものをそのまま、同じようなものを持ってきて日本でも適用させるっていうことでね。
ドイツに留学した奴が、向こうで習ったことをそのまま日本に持ってきてね、「これが法律学だ」ってね。
そんなことをやる馬鹿がどこにいるかっていうんですよ。
だから日本の法学では「解釈学」が幅を利かせているんです。
ドイツのものだから日本の実情に合わなくて、それじゃあ「日本に当てはめるためにはこういう風に解釈すればいいだろう」という具合にやっているだけで、ただの辻褄合わせなんですよ。
そんなことは、ほんの小手先のことにすぎないんで「解釈学」なんてものは学問でも何でもないんです。
だからドイツでも「解釈学」というのは「パンの学問」だと言われているんですよ。
飯を食うためにやるものであって、本当の学問じゃないということでね。
日本では「法哲学」だけが学問だといえるんじゃないですか。
(だから日本では時代によって有力な人の学説が採用されるので、解釈がコロコロ変わる。ちなみに日本の刑法が明治以来ずっと変えられなかったのは、委員会の委員長が毎回反対の学説を唱える人に次を任せるという風潮があったので、結論が出ずに変えられなかったんです)
外国へ留学した連中はそこで勉強してきたものがすべてになっていた
つまりね、「ドイツ法」をやっている人間はそれだけしかやらないでね、ドイツに留学してきた人間でもそこで受け取って帰ってきたというだけで終わってしまい、つまり比較法的な見地がなくて、それが「すべて」になっているんですね。
だから非常に狭い見識になっているんですよ。
なぜそうなってしまうかというと、それはやっぱりね、留学した人たちが「秀才」だったからなんです。
帝国大学ではいわば点数だけで、みんな「優」を取りたくて勉強をやった馬鹿な奴ばかりを教授にしたせいなんですよ。
僕がボン大学に呼ばれて行った時に、大分後になってからですが、そこでかつてここに留学していた鳩山秀夫と穂積重遠がどういう風な勉強をしていたのかっていうのを調べたらですね、向こうの学生と一緒に机を並べて、ただ講義を聴いていただけの単なる「学生扱い」だったんですよ。
「まさか」とは思いました。
それで日本に帰ってきてからは、向こうで色々勉強してきて「新帰朝者」だって言ってたんですからね。
根拠のない西洋への「劣等感」
僕が向こうに行った時に、どうして当時駐独大使をしていた吉野文六さんがわざわざ私のためにね、あんな大使館で晩餐会を大々的に開いて歓迎してくれたのかというと、それまで来た日本人というのは、みんな背中を丸くして、何か講義でも聴きに来るような奴ばかりだったのに、それが今度は教授として「何か生意気な顔をして、偉そうな顔をした奴が来たな」とでも思ったからじゃないですかね。
吉野さんは飾らない人でね。
私の妻は「どこかの田舎の歯医者さんみたい~」なんて言ってましたよ。
普段は股引姿でただガウンを引っかけて出てきたりして、まったく飾り気のない人でしたから。
その時の晩餐会では人をたくさん呼んでくれましてね。
日本人で初めてドイツのケルン放送交響楽団の首席指揮者になった若杉弘さんという人がいましてね。
向こうでは晩餐会を開く時に現地の代表の人を立てるんですが、それを若杉さんにお願いしたりしてね、私をもてなしてくれました。
しかし、どうも日本人というのはみんな向こうに行くと小さい顔になっちゃうんですよ。
明治維新の時にどうも日本人はみんな洗脳されちゃってますからね。
「日本のそれまでのものはすべて遅れていて、欧米のものはすべて進んでいて良いものなんだ」と頭から思い込まされているもんだから、向こうに対して根拠のない「劣等感」みたいなものを持っちゃっているんですね。
向こうの連中からすれば、そうするのが目的だったのかもしれませんがね。
やっぱり我が国は、明治維新についてもっと検証しないといけませんね。
「明治になって良かった」という話ばっかりでしょ。
外国に行っても日本に対する理解を深めようとしてこなかった日本人
まあ外国に行く日本人というのは、向こうのことをお伺いするばかりで、「日本はこうなんだ」ということを主張したり、日本に対する理解を深めてもらうようなことはやらないんですね。
「箸」の話でも、僕がしたら向こうの人はみんな「初めて聞いた」と言ってましたから。
「何で日本人は木の箸を使うのか」っていう話ね。
日本ではナイフとフォークなんてのを使えないと恥ずかしいなんていう風潮があるでしょ。
そもそもあんなのは野蛮人が使うものなんですよ。
フォークなんていうのは、もともと熊手のことでしょ。
不器用な連中が農具で飯を食ってるだけなんですよ。
箸を使えないからあんなものを使ってるんです。
第一、金属だから食器を痛めるでしょ。
そこにいくと木の箸は食器を痛めることはないんです。
日本人はそこまで考えているんだってね。
まあ日本ではあらゆるものに神というか命というか魂というか、そういうものが宿っていて、自分たちと同等のものとして考えるでしょ。
人が作ったものに対してもそうだから、いたわりというかやさしい気持ちを持っているんですね。
日本ではあらゆるものが調和して共存することを良しとするんでね。
それを「和」の心とかいうでしょ。
だから食器に対しても箸が当たって痛むことがないようにと考えるから、箸も象牙や金属じゃあ意味がないんですよ。
そんな話をするとみんな「初めて聞いた」と、それで「よく分かりました」って言ってくれますよ。
「箸」のことだけでも、日本のことを色々伝えることはできるんです。
そんな話もしないで、向こうに行ってきた連中は一体何をしてたのかって思うんですよね。
あんなところで講義だけ聴いて、承ってきて、それで日本に帰ってきたらふんぞり返って「新帰朝者でござる」という調子でいたんですから。
(まあでも、東京帝大の初代総長になった加藤弘之さん(現在の東京大学の直接の前身機関の一つである旧東京大学の法文理三学部の綜理を務め、その後大学全体の長としての総理が置かれた時に初代総理となった)の論文が残っていて、向こうで見たんですが、まあ立派なドイツ語で書かれていてびっくりしましたよ。辞書もない時代に、あんなに立派なドイツ語で書いてあるんですからびっくりしました。明治維新前の教育を受けているからなんでしょうね。)
明治維新以来、日本人はそもそも自国の「法」について検証してこなかった
「法」の話だけに限らないんですが、日本ではいい加減なことばっかりで来すぎたんですよ。
日本の「法」とはどんなものなのかについて、本当は明治維新の前からしっかり検証しないといけないんです。
まあ例えば、書いてあるものだけが「法」とは限らないんですけど、書いてあるものだけでも日本の幕府の制度には「お触書」や「立札」があって、それらをたくさん出しているんです。
だから本当はそれらをもっとちゃんと調べないといけないんです。
「お触書」の量といいますと、「ナポレオン法典(フランス民法の元になっている)」の何倍かくらいの量になるんですよ。
それなのに「ナポレオン法典」なんていうのを金科玉条のごとくに扱っているでしょ。
本当は我が国の「お触書」をよく見てみるだけでも、良い参考になると思うんですが、向こうの人でも。
まあいきなり明治維新で近代になりましたからね。
それで外国の「法」を輸入してきちゃったんで、本来あるべき、日本の「法」はこうなんだというのをすっ飛ばしちゃってるんですね。
「お触書」と「立札」
ちなみに施政者に対して出しているのが「お触書」で、庶民に対して出しているのが「立札」なんです。
日本では物事は慣習的に進められていたんですけれども、特別、何かしらやややこしいことが起こるような場合には、混乱が生じないようにと、その都度例外的に「この時にはこうしましょう」ということを「お触書」と「立札」で示していたんですね。
まあ庶民としては、普段はそういったものには関係なく慣習的なことに従って生活していたわけですけれども。
しかし昔の日本には「法」として書いたものがないだとか、そういったことを言う人がいるんですが、実はそうじゃなくて日本にもあることにはあったということなんです。
武士階級の場合には相続の問題が色々起こったりしますので、そういう問題に対して「お触書」を出したりしているんでね。
そういった江戸時代の「お触書」や「立札」などを通じて、日本の「法」について理解を深めれば、当時の日本人はどういったことを大切にして、どういった社会を目指していたのか、幕府はどうのような国づくりを目指して運営していたのかが分かるんじゃないでしょうか。
みんなもうちょっと日本の「法」について勉強すれば、ドイツの人もフランスの人ももう少し利口になると思うんですけどね。
「成績主義」という「無責任主義」
しかし明治維新が起こって色んなことが、まあ外国にぐちゃぐちゃにされたわけですけれど、ぐちゃぐちゃにされて、でもその中から、近代化した方がいいという方向にばかりいきましたが、本来は一つひとつ修正を加えなければならなかったんでしょうけどね。
修正をしないでただ外国の真似をすることばかりしていましたから、それで随分日本的な良いものが失われてしまったんだと思います。
(夏目漱石はそれを非常に危惧していたんですがね。)
でも実際には、本来の日本の「法」に照らし合わせて修正するといった余裕などなかったのかもしれませんがね。
余裕がないところにですね…、まあ軍人でも何でも成績のいい奴ばかりを用いすぎたんですよ。
それを僕は「無責任体制」「無責任主義」だと言っているんです。
まあ「成績の良い奴を用いたんだからいいじゃないか」っていう風に。
上にいる人間がその人の能力や人格をしっかり見極めるということをしないで、ただ成績だけで判断してしまって「成績が良ければ文句ないだろう」と、人を見極める自分の判断力や責任をすべて「成績」に転嫁して「あとは知らない」というんでしょ。
大学でもそうですわ。
成績さえ良ければいいというような風潮ですね。
しかし、成績が良いとかそういう奴はね、何というかケツの穴のちっぽけなのが多いと思うんですよ。
まあ大学で成績を良くしたいと思うような奴は、相当半端な奴だと思うんですけどね。
しかしそういうのだけ残そうとするでしょ。
そうするとやっぱり大学はくずの集まりになっちゃうんですわ。
私たちの頃は「秀才」というのは本当に「バカ」の代名詞でしたからね。
「秀才」と言われちゃったら、もうどうしようもなくて、救いようのないくらいのものでしたから。
「慣習法」で有名なイギリス式の「三権分立」
本来、日本というのは「慣習法」でやってきた国なんですよ。
「慣習法」で色々とやってきて、それでややこしい問題が起こった時にその都度「立札」や「お触書」を立てて対応するというやり方できたんですね。
まあ、だから今でも実際は「慣習法」的にやっているところもあるんですけどね。
ちなみに「慣習法」で有名な国がイギリスです。
「慣習法」について知る上でイギリスの面白い話があるんですが、イギリスは「三権分立」のはずなんだけれども司法のトップが他のトップも兼ねていたりするという話ね。
行政を行う司法大臣は閣議の時には司法大臣の席にいるけれども、最高裁、向こうでは大審院というんですけど、司法のトップである大審院に行くと、大審院院長の席にはまた司法大臣のそのおっさんがいるんです。
大審院長は司法の関係で一番偉いんですが、じゃあ大審院は独立した司法、裁判所としての体を成しているのかというと、それは立法府である貴族院に置かれてるというわけでね。
司法のトップである大審院は立法府である貴族院に附属しているというんですね。
それで立法府である貴族院の院長というのは院長室にいるわけですが、そこに行くと今度はその大審院長の人がいて、自分が貴族院の院長をやっているというんですよ。
裁判所は立法府に帰属しているんです。
それで帰属している方の大審院長は、大審院にいる時は大審院長の部屋にいるんですが、大審院は貴族院に属しているので、貴族院に行ってその長に会いたいというと、貴族院議長のところにはその大審院長がいるわけですよ。
だから貴族院長もやってるということなんです。
どっちが本職ってことはないんです。
貴族院長であり、大審院長であり、閣議が開かれる時には司法大臣でもあるわけです。
じゃあ「何でそうなっているのか?」って訊くと、それは「同じ人間がやっていないと、何か問題が起きた時にややこしくなるからだ」っていうんです。
貴族院の意見、それから裁判所の意見、そして行政府の意見が違うとややこしくなるので、同じ人間にしているんだと。
これがイギリスの「三権分立」なんですね。
議院内閣制だけど、しかし「慣習法」でやっているので、規定などを書いたものがないですから。
書いたものがあると、ややこしいことを言う人が出てきて困るんですよ。
だから憲法とかも書いたものがないんですが、それで「憲法通りにやってる」というんです。
でもイギリス人で誰もそのことについて不思議だとは思わないから、そんなことを問題にする奴なんて誰もいないんですよ。
日本にはイギリスをお手本にしたはずの「議院内閣制」があるにはありますけど、日本のものとは全然違うものでしょ。
明治時代に日本からたくさんの人が色々イギリスに見学しに行ったはずですけど、一体何を見に行ってたんですかね。
本当にイギリスのものを真似たのかしらと思うくらいで、まあ日本では形式的なことばっかりやってねえ、万事中身が伴っていないんですよ。
イギリス式の論理
イギリスっていう国もまあ面白いでしょ。
あっけらかんとしてるところが面白いんですよ。
昔、バルフォードという外務大臣がいて「バルフォード宣言」というのを出したんですけど、イスラエルを国家として認めるだけではなくて、パレスチナも国家として認めると言っちゃうんです。
イスラエルに向かっては「イスラエルを国家として認めるが、パレスチナは認めない」と言って、パレスチナに対しては「パレスチナもちゃんと国家として認める」って言ったに違いないんですよ。
あっちにもこっちにも矛盾するようなことを平気で言うわけで、イギリス式の論理をもってすれば別にまったく嘘をついているわけでも何でもなくて、相手にとって都合の良いことを認めておけば、どちらに対してもカドが立たないからという風にね。
だから皇太子にも「Prince of Wales」という称号を付けたりするでしょ。
それでウェールズをなだめているわけですよ。
しかし、簡単に言うとデタラメ風ですけどね。
まあ「看板なんて別にどうだっていいじゃないか。実を獲ればいいんだから。表立ってまともな看板をあげたりしても、ロクなことにならないじゃないか」っていう式で、だからそう言っとけっていうことだけなんですよ。
イギリス式の統治
それで戦後、自分の所の植民地はみんな独立したんだけど、あそこのクイーンはちゃんとオーストラリアに行ってもニュージーランドに行っても、カナダに行っても、どこ行ってもやっぱりクイーンで通ってるわけでね。
まあ、それだけの手は打ってあるんでしょうけどね。
でも、それはかなり大変な労力がいるんだと思いますよ。
あの王室を維持するためには。
エリザベス女王は本当に賢くもあるし、努力家でもあるし、まあ大変な人ですけどね。
あれだけ植民地をいっぱい作って、日本的に言えば悪いことをたくさんやってね、アフリカも切り刻んじゃって、さんざん今の揉め事の元を作ってね。
今世界で揉めていることの多くは、そもそもイギリスが元凶であるような問題が本当に多くて、でもそういう中で生きていくためには、もう脛に傷がありすぎて、いわばイギリスなりの「三権分立」のやり方じゃないと乗り越えられないということなんじゃないですかね。
公明正大とか潔白さにこだわっていられないですよ。
インドだって会社を作ってインドの面倒をみさせるくらいですから。
東インド会社がやったんであって、イギリスは直接関わっていない風にしてね。
会社が勝手にやっただけで、そこの取締役会が色々な問題を扱ってやったわけでしょ。
それで日本でも同じようなことをやっていたんじゃないですかね。
グラバー商会かなんかにやらせておけばいいっていうことで、色々とエサをまいて、それに集まってきた人たちを使ってね。
渋沢栄一やら誰やらに、メンバーシップを与えてやってやらせるとかね。
それでいて日本人は「渋沢栄一は300以上の会社を作った偉い人だ」とか言って、今度はお札にもするっていうんですから人が良すぎるんじゃないですか。
イギリスでも面白がっていると思ってますよ。
外国の「法」が日本に馴染まないのは当たり前
話が大分逸れましたが、要するに日本の「法」でない外国の馴染のないものを持ってきて「これが日本の法です」なんてやってるのが実情なんですよ。
無理やり向こうのものを日本に持ってきて、それを無理やりあてはめようとするから、日本人にとって「法」というのは何か難解なものになっているでしょ。
だから今の「法」はそもそも日本人の文化や生き方にそぐわないんですよ。
憲法だけの問題じゃあないんです。
民法は初めフランスのものを持ってきたといったでしょ。
それで明治の時に、そのことをはっきり指摘している人はいるんですよ。
明治から大正時代にかけて法学者をしていた穂積八束という人。
この人は「民法出デテ忠孝亡ブ」という有名な言葉を残していますからね。
「足入れ婚」の風習に見られる日本の生きた「法」
日本の「法」について考えるうえで、「足入れ婚」の風習というのが、いい例になると思うんですよ。
※「足入れ婚」:嫁入り婚の一つの方式で、形からいうと婿入り婚に近い。現在嫁入り婚とよばれているものは、嫁が夫のもとに移り、夫の家で生活が行われるものであるが、足入れというのは、最初婚姻の行われるのは嫁方で、以後嫁の引き移りまでの間、夫が妻のもとへ通う様式がとられている。この期間は婿入り婚的な形をとり、ある期間を経て、妻は夫の家に移る。つまり婚姻の成立と、嫁の引き移りとの間に、ある程度年月があるのであって、このなかには伊豆の島々のように、嫁は主婦となる日、すなわち夫の母が亡くなってから、家の主婦として引き移るという習わしもあった。
現在アシイレとよばれる結婚はほとんどなくなっているが、しかし老年の婦人のなかにはアシイレで嫁にきたと語る人も多い。その場合、いささかの躊躇(ちゅうちょ)もなく語るのは、どこでもごくありふれた方式であったためであろう。アシイレのほかデイリソメ(出入り初め)、アユミソメなどの名称もあり、またハシトリ(箸トリ)、一晩ドマリなどともいうが、これらのなかには夫と妻との年回りとか、忌中であるとか、または経済的理由もあって披露の宴を延期したり、簡略にする場合もあった。なかには試験婚のような形で嫁を引き取る例もあって、世間の指弾を浴びることもあった。
「足入れ婚」をしてみて上手くいかなかったら「なかったことにしましょう」ということで、地域ではみんながそうしているということでね。
生きていくための知恵ですよ。
「あの人は一度失敗してね」なんてことをきちきち言ったって、誰も得しないですからね。
だからそんなことは「なかったことにしましょう」という、そこの地域にいるみんなの「合意」がなされているということが大事で、これこそが「法」なんですよ。
書いたものがあるわけではないんですが、これこそがみんなの「合意」を元に守られているいわば「法」であって、これが「慣習法」なんですよ。
「道徳」とまではいわないけれど、これがみんなが生きていくために、先祖代々これまで積み重ねてきた生活をしていくための知恵をもとに醸成された「慣習法」というものであり、これこそがそこに暮らす人たちにとっての生きた「法」になっているんですね。
熊本にも「足入れ婚」の風習があったことを示す民謡「おてやもん」
ちなみに僕はこの「足入れ婚」というのは東北地方だけにあったのかと思っていたら、「おてもやん」という民謡が熊本にもあったんですよ。
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ピーチク パーチク ひばりのこ♪
[一番の歌詞]
おてもやん あんたこの頃
嫁入りしたではないかいな
嫁入りしたこつぁしたばってん
ご亭どんが ぐじゃっぺだるけん
まあだ 杯ゃせんだった
村役 鳶役 肝煎りどん
あん人たちの おらすけんで
あとはどうなと きゃあなろたい
川端町っつあん きゃあめぐろ(曲がろうたい)
春日ぼうぶらどんたちゃ
尻ひっぴゃあて(ふっぱって) 花盛り 花盛り
ピーチクパーチク ひばりのこ
げんぱくなすびの いがいがどん
[歌詞の意味(現代語訳)]
おてもやん あなた最近
お嫁にいったんじゃなかったの?
嫁入りしたにはしたんだけど
旦那が痘痕(あばた)で酷かったから
まだ式はあげてなかったのよ
村の役付きや火消し役、世話役
あの人たちがいるから
あとはどうにかなるわよ
川端町の方へ廻って行きましょ
春日のカボチャ達は 尻を出して
花盛り 花盛り
ピーチク パーチク鳴くひばり(雲雀)の子
醜いなすびのイガイガ達
*「おてもやん」の意味は?
仲井幸二郎「口訳 日本民謡集」(蒼洋社)によれば、「おてもやん」の「ても」は、下働きの下女を意味する「テマ」が訛ったもと解説している。
「お」は丁寧語、「やん」は身分の低い者への呼称・愛称であることから、「おてもやん」は「女中さん」といった意味合いに解釈できることになる。
これ以外にも、肥後の女性全般を指す言葉とする説や、 「ても」とは「つくね芋」を意味する「手芋(ていも)」のことだとする説など様々ある。
*ぐじゃっぺだるけん
「ぐじゃっぺだるけん」については、「ぐじゃっぺ」と「だるけん」の二つに分けて考える必要がある。
まず「ぐじゃっぺ」とは、ネットで調べた限りでは、「天然痘のあと」、「あばた顔」、「醜い顔」といった意味合いがあるようだ。「頼りない」「頼りにならない」という訳を当てる解説も見られた。
「だる」は「である」、「けん」は理由を表す「だから」。「だるけん」全体で「~だから」の意味になる。発音的には「だーけん」に近くなるようだ。
*カボチャ以降の歌詞について
ぼうぶら(カボチャ)以降の歌詞については、単なる現代語訳では意味がとおりにくく、ある程度の意訳や補完が必要になってくる。
ネットで調べていくと、主人公の女性「おてもやん」が見栄えの悪い男たちをうっとうしく感じてる様子として解釈するケースが多いようだ。
なお、ピーチクパーチク以降については、一番の締めくくりのお囃子(おはやし)としての意味合いが強く、1番の歌詞本文とは意味上のつながりはないと考えられる。
ただ、ここもあえて本文と意味をつなげて解釈してもそれは聞き手の自由であることは言うまでもない。
*げんぱくなすびとは?
「げんぱくなすび(茄子)」の意味については諸説あるが、「解体新書」で知られる江戸時代の蘭学者・杉田玄白が広めたナスとする説がネットで散見される。
他には、「げんぱく」を「気持ち悪い」「吐き戻す」などを意味する方言として解釈し、げんぱくなすびを「見た目の悪いナス」として説明を試みる考えもあるようだ。
また、げんぱくなすびとは「イガナス(朝鮮朝顔)」(上写真)であると説明する書籍もある(写真の出典:ブログ「野草が好き」)。
イガナスは曼荼羅華(マンダラゲ)とも呼ばれるナス科の植物で、江戸時代に華岡青洲(はなおか せいしゅう)が麻酔薬の原料に用いたことで有名。
イガナスの実はいがぐりのようにとげとげしい見た目なので、歌詞の最後の「いがいがどん」とも自然な流れでつながり、「気持ち悪い」の意味の「げんばく」としても意味が通る。
[二番の歌詞]
一つ山越え も一つ山超え あの山越えて
私やあんたに 惚れとるばい
惚れとるばってん いわれんたい
追々彼岸も近まれば
若者衆(わきゃもんしゅう)も寄らすけん
くまんどん(熊本)の よじょもん詣りに
ゆるゆる話を きゃあしゅうたい
男振りには惚れんばな
煙草入れの銀金具が
それもそもそも因縁たい
アカチャカベッチャカ チャカチャカチャ
[歌詞の意味(現代語訳)]
いくつも山々を越え
私は貴方に惚れている
惚れてるからこそ言えない
やがてお彼岸も近づいてきて
若者たちも集まってくる
熊本の夜聴聞(よじょもん)のときに
ゆっくり話をしてみたい
見た目で惚れたわけじゃない
煙草入れの銀金具に惹かれただけ
(アカチャカ…は意味のない囃子詞)
*夜聴聞(よじょもん)とは?
「夜聴聞(よじょもん)」とは、夜にお寺で行われる説教・説法を聴く会のこと。住職のありがたい法話を聴くという建前の下、男女の出会いの場としても機能していたようだ。
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嫁入りしたといえばしたんだけれど、公に結婚したわけではないと。
公にする時には杯(さかずき)はするけど、今はそういう状態なわけで…という歌ですから。
同棲してお互いにそういう関係にはなってはいるんだけど、まだ杯はせずに、みんなにはオープンにしてないよということです。
それでうまくいくようだったら杯をしてみんなにオープンにしていくつもりだし、うまくいかなかったらそれはなかったことにするということなんです。
だから「足入れ婚」は何も東北地方に限ったことではなく、九州の方でも同じようなことが行われていたんだということなんで、それで大事なのは、そこに暮らす地域の人たちがみんなそういうやり方を認めているということですから。
これこそ「慣習法」であり、「婚姻」に関する「法」だったわけです。
だから後になって「いや~あの時は結婚してこれこれだったのに…」とかいったようなことは「なかったことにしましょう」という仕掛けになっていたということです。
うまくいき始めたら、みんなにオープンにして一杯やるというんですね。
まことに合理的で賢いやり方です。
それでもしうまくいかなかったら「いや~本当は、実は、あそこで誰と誰とが関係があって…」などということはみんなで「なしにしよう」という「合意」があったわけです。
この「合意」が「法」としてその地域の人たちを支配していたわけです。
「愛」がありますよね。
この「合意」をあからさまではなく、「おてもやん」という民謡にして、子供でも誰でもみんなにとってなじみやすいものにしていたのもいいじゃないですかね。
日本の「法」というものを、こういう風に掘り起こしてみると分かりやすくなるんじゃないでしょうか。
今の日本でも、こういうことで苦労している人がたくさんいるんでしょうから。
「能」の世界における「合意」も日本的な「法」である
これはある意味、芝居の「黒子」と一緒なんですよ。
能でも「黒子」がいて鼓を持ってきたり、衣装を替える手伝いなど色々なことをするんだけれど、そういう手伝いをしてくれる「黒子」は「いなかったことにする」というのが、「能」の世界ですから。
「黒子」は舞台の上で目立たないように黒い服を着てはいますが、実際にはみんなに見えてますよね。
でも能の世界では演者も客もお互いに「いないことにしましょう」という「暗黙の了解」というか、「約束」が成り立っているんです。
演じる側と観る側との間で、そういう「合意」がなされているということであり、これがいわば「能」においては「法」なんですね。
それで「能」の世界では「黒子」はなくてはならない役割を果たしているんです。
そもそも日本には「大事なことは書かない。大事なことは言葉にしない」という古来からの文化の特徴があるんですね。
書いてないことの方が大事だという文化です。
「何が書いてあるのかではなくて、何が書かれていないのか」が大事
特に刑法なんていうのがそうですが、男女の問題でもそうですよ。
「国家権力が介入しなければならない問題は何か」という点が刑法のポイントですからね。
それはそこの慣習に任せておいてもいいんじゃないかっていう問題もいっぱいあるんですよ。
ただ、慣習というのは書かないものですが、慣習が分かっていないと書いてある法をちゃんと読み解いたり、運用することができないでしょ。
男女の問題でいえば、国家権力を行使して刑法上の問題として何か、その「不倫」の問題とか何とかっていうのも…昔の姦通罪みたいなもんですしね、う~ん、そういう問題かっていうこともありますしね。
慣習というものは法として明文化はされていませんが、長い年月をかけて日本人が培ってきたものであって、合意がなされているものですから、日本社会の法であることはもちろん、文化でもあるわけですから。
そして日本の文化であり、外国の言い方でいう日本の「哲学」というものは、前からお話しているように、日本では古事記や源氏物語などの物語の中にあるんですね。
しかも物語の中にしっかり書かれているかと言えばそうではなくて、「大事なことは書かない。大事なことは言葉にしない」ので、「何が書いてあるのかではなくて、何が書かれていないのか」が大事であって、行間や余白の中に詰まっているんですね。
外国人や今の日本人にも分かるように日本の文化や哲学を体系化することが大事
だから本当は、日本人は日本の文化の中からそういったものを、外国人でも分かるように、物語として存在したものを体系として示すことが必要なんですね。
それが本来の学者の役割だと思うんです。
できなければ外国人の導入を図るとかしてもいいでしょう。
そして誰もがはっきり分かるように、日本の文化や哲学を明文化して体系化すればいいんです。
それができないから外国人には日本にはしっかりした哲学や文化がないと卑下されてきたわけで、もし体系化できれば日本の安全保障にもつながるんです。
外国人だけでなく今の日本人にも分かりにくいものになっているんじゃないですか。
日本の文化や哲学をある程度体系化することができれば、日本の「法」についても、それらと照らせ合わせながら、これは法律という形にしなければならないものかどうか、どこまでは慣習法のままでそれを適用した方がいいのかということが分かりやすくなっていくんですよね。
だから日本人はよっぽど考え直さなければならないんですが、そういうことを誰もやらないんですよ。
これは何も法律だけでなくて、学問全部に通じることなんですよね。
文語体が読めない日本人ばかりじゃ根無し草と同じ
ただ、これをやるにはみんな文語体から始めないといけないですがね。
昔の文章が読めないとダメですから。
それでなぜ今自分がここに至っているのかというところを、捉えていかないとただの根無し草ですから。
自分というものがどういう仕掛けで、どこから自分になっているのかとかね。
だから、法というのは本当に大事なことなんですけどね。
日本の哲学や文化に基づいた国づくりにもつながっていくことなんで。
どういう秩序を作っていくのか、どういうことを良しとするのかというね。
1週間から2週間で日本国憲法を作ったとかいうことも含めて、今の憲法の素性というものをだんだんと明らかにしないといけないですね。
9条がどうとかこうとかに関わったような議論ばかりしていても埒が明かないのが分かるでしょ。
法というものが一体どういうものなのかを分かってないから、盛んにああいったことに引っ掛かってみたりするんですよ。
まあいわゆる日本国憲法というものに限らず、大日本帝国憲法から民法から、法律というものの多くが一気に輸入されてきましたから、本来日本において「法」というものがどういうものなのかということがおざなりにされたままなんですね。
学問と一緒ですね。
ブレッドサイエンスといって、パンを食うために法律の勉強(法の解釈学ばかり)をして、飯の種にするというだけのものになっちゃってるんですよ。
そうすると法律家にとっては、たくさん争いがあった方がいいということになりかねませんから。
本当はそういうことから考えて作り替えていかないといけないんですがね。
日本国憲法の出自
はじめに
これからご紹介するお話はすべて、私が人生の師とするAさんから伺ったものです。
わたしにとってこれらのお話は、毎年「憲法記念日」を迎えるたびに思い出されるものなのですが、いわゆる「日本国憲法」について考えるうえで、大事なことがいくつも含まれているようにも思えますので、今回思い切ってご紹介することにいたしました。
ただ、Aさんは何分ご高齢なので、ご本人も「記憶があいまいなところがある」とは言われます。
しかし、その話しぶりや話の内容はまだまだいたって明晰であり、さらには伺うたびに新しいお話が出てくるといった具合なので、わたしの方は驚かされてばかりいるのですが、いつもご自分で経験されたことや考えたことを中心にお話ししてくださいます。
そのため、果たしてその内容の「真偽」について誰かに問われたとしても、わたしとしては「確かめる術(すべ)がない」というのが実情なのですが、ただ個人的にはこれまでのAさんの生き方や人柄から、お話しされることは「真実」であると確信しております。
あとは、このお話を読まれた方それぞれのご判断にお任せいたしますが、きっと読まれているうちに「真偽はどうなっているのか」といった思いなどは超えて、色々と気付かされたり、啓発されることが出てくるのではないかと思います。
もしそうなれば、わたしにとっては何よりもうれしいことですので、少しでもご興味がございましたら、ぜひご一読をお願いいたします。
行きたくもなかったのにアメリカへ
昭和48年、行きたくもなかったのにアメリカ国務省からの招待でアメリカへ行くことになったんです。
そもそも、わたしが京都の○○センターの連中になぜか見込まれてしまったことが発端でした。
わたしは講義でよくそのセンターを利用していたので、その時に目を付けられたんでしょう。
興味のないアメリカなどには本当は行きたくなかったんですが、そこの連中がしつこくて、熱心に勧めるものだから、つい行くことになってしまったんです。
わたしのビザまで勝手に作って持ってきたんです。
どこから手に入れたのか、ちゃんとわたしの写真まで貼ってありましたよ。
それで「これは12階級あるうちの最上級のものだから」などと言うんです。
それでしぶしぶ行くことにしたんです。
「日本国憲法」の原案を作った占領軍の中の一番のインテリは
ただアメリカに行ってやるかわりに、わたしが会いたい奴には全部会わせろと言ったんです。
連中はその条件を飲まざるを得ませんでした。
連中にとっては、わたしには是非アメリカに行ってもらわなければならなかったし、そうしないと彼らの面子が立たなかったんでしょう。
それで実際に向こうでは何人かの人に会ってきたんですが、その中のひとりがマクネリーでした。
わたしはそれまでマクネリーのことは知らなかったんですが、アメリカに行くんであれば「『日本国憲法』の原案を作った奴に会わせろ」と連中に言ったんですね。
そうしたら「日本国憲法」の原型を作って日本を占領統治しようという案を作った占領軍の中の一番のインテリは、メリーランド大学のマクネリー教授だというんです。
いうなれば、彼らはわたしがする質問に対しては本当のことを答えなければならない羽目に陥っていたわけで、それで「日本国憲法」の原型を作った張本人のボスはマクネリーだと白状せざるを得なかったんでしょう。
それでメリーランド大学までマクネリー教授に会って行ってきたんです。
「日本国憲法」の実体はあくまで「占領規範」
マクネリーには「日本国憲法」のこともそうなんですが、その他にも確認しておきたいことがあったので、むしろそちらの方の話を主にしたと思います。
「日本国憲法」については、彼に「本当はどういう気だったのか、『憲法』は持って帰ったことにしろ」と言ったんですが、彼は「今でもあれを使っているという前提で話をしているとは思いもよらなかった」と、「日本国憲法」がまだ日本で使われていることは知りませんでした。
わたしは「お前さんのところが『占領規範』に『日本国憲法』なんていう名前を付けるから、いまだにややこしいことになってるじゃないか」と文句を言ったんですが、彼は「あなたの言う通りだ。ただそうした方が万事都合が良かったので。占領中はわずかなスタッフで日本を統治しなければならなかった。あれが『占領規範』だと言われれば、確かに中身はそうだ」と。
「確かにあれは占領中の『規範』であって、それを『憲法』としていまでも日本人が使ってくれているというのは、わたしとしてはもちろんうれしくてありがたいけれども、占領が終わった後もそれでどうこうしようかとか、そういうつもりでは全くなかったし、いつまでも万年これでやらなきゃならんとかそういうのではなくて、あくまで占領中のことだけを想定していたので。だから日本人に『憲法』としてずっと使ってもらうつもりで作ったのではもちろんなくて、あくまで占領をうまく遂行していくために作ったんだ」と言っていました。
まあ、彼らにとってみれば当然のことをしたまでで、「その後のことまでは責任持てないよ」というのが本音なんでしょうけれどね。
占領が終わった時点で「日本国憲法」の実体はなくなっている
そうであろうということは大体分かっていたので、「日本国憲法」についてはその程度しか話をしませんでした。
まあ、あれをいまだに「日本国憲法」として使っている日本人がどうかしてるんですよ。
あれの「実体」というのは、あくまで彼らが占領をうまく遂行するための「占領規範」に過ぎず、占領が終わった時に彼らが持ち帰っているんですから。
だから「実体がない」ものなんです。
それを「『日本国憲法』と書いてあるから『日本国憲法』だ」と信じ込んでいる日本人がどうかしてるんですよ。
「法」の観点から言っても、ありえないことなんです。
それを「憲法改正」がどうだのこうだのというのは、わたしにとっては「何をバカなことを言ってるんだ」ということになるんです。
あれは「憲法」でも何でもなく、いまでは全く「実体がない」ものなんですから。
「憲法学者」なんていうのはいったい何をしてるんでしょうかね。
「ポツダム宣言」は対等な「契約」の申し込み
マクネリー教授と「日本国憲法」の話をする前にしたのは「ポツダム宣言」(ベルリン時間の7月26日午後9時20分に発表された)についての話です。
彼らが「ポツダム宣言」をどういうつもりで出したのか、条文から読み取れることがあったので、彼にそのことを確認したんです。
そうしたら彼も「その通りだ」と。
そもそも彼らの考え方というのは、誰かからお金を借りたとしても、お金を貸す方も借りる方も「『契約』の当事者としては『対等』だから『契約』が成り立つんだ」という考え方なんです。
お金を借りてやってるから、借りてやっているこちら側がいるから「契約」が成り立つんだと。
戦争の時も同じで、負けた方の我々がいたから、勝った方のお前たちがいて「契約」が成り立つんだという具合なんです。
要するに、彼らには戦争に勝った方だから、負けた方だからという意識はないんですよ。
だから「ポツダム宣言」を発する時に、これは「『契約』の申し込みだよ」という発し方をしているんです。
実はそういう申し込み方をするほかにも、違う申し込み方がいくつもあるんですが、それを彼らは「『契約』の申し込みでいいよ」という申し込み方を選んだんです。
つまり「対等な『契約』をしようではないか。それで対等な『契約』にして『国際条約』を両方で決めようじゃないか」ということだったんです。
すると、そこでは両者が「対等な当事者」になるから「契約」が成り立つのであって、戦争に勝った方だの負けた方だのという関係はないんです。
それで「国際条約」を作ろうとしたんですよ。
独立国家の基本的な権利である「戦争権」
なぜかというと、日本が戦争をした頃には「戦争権」というのは独立国家の基本的な権利であって、戦争をすることは国家としての正当な権力行使だとされていたんです。
しかも、ジュネーブの平和条約を読めば分かるんですが、「戦争権」については「戦争をするよ」と宣戦布告をしてから戦争しなくてはならないとはなっていないんですよ。
そこには「いきなり戦争行為をやっても良い」ということが書いてある。
そして、もしそれが戦争行為であるかどうかが分からない時には、「これが戦争である」ということを規定するための「戦争の定義に関する条約」というジュネーブ条約があるんです。
つまり、どういうものを「戦争」とみなして良いのか、独立国家が勝手にやっても許されるものとしての「戦争」というのは、どういう場合のことについていうのかなど、「戦争」というものを定義するための条約がジュネーブ条約にはあるんです。
それに該当する場合には、宣戦布告がなくても「戦争」だとみなして良いということになるんです。
「戦争の定義に関する条約」というジュネーブ条約には
その条約にはいくつか例が挙げられているんです。
例えば、何キロ以上離れた場所から相手の領土に大砲を打ち込んだ場合には「戦争」とみなして良いといったようなものです。
そういった例に該当する場合には「戦争」とみなしても良く、国際法でいうところの戦争行為を彼らは独立国家として行ったんだという風に認定しても良いということなんです。
つまり「戦争」は黙って始めてもいいんですよ。
黙ってやってもいいけれども、そういう行為を黙ってやった場合には、これは国際法上の「戦争」を、独立国家が国家の主権行為として行ったんだという風に国際法的に認定することになるよ、という条約なんです。
そのことをお互いに了解しようねという条約なんですよ。
だから真珠湾攻撃でも何でもやったって一向に構わないんですよ。
真珠湾攻撃をやったのが宣戦布告が届くちょっと前だったからけしからんということはないんです。
ないからあんなことで戦犯になった奴は1人もいないんですよ。
国際条約で認められていることなんですから。
だから「宣戦布告の前に真珠湾を攻撃しかけてけしからん」というのは戦争論でもなんでもないです。
素人が勝手にいちゃもんをつけているだけで、それは当時の国際法でちゃんと認められていることなんですから。
そういう戦争の仕方が卑怯かどうかは別にしましてね、一向に差し支えないわけです。
宣戦布告の文書を相手に申し渡す前だったとか、文書を差し渡すのが少し遅れたというのはそれは一向に構わないことなんですよ。
つまり「戦争」の定義に関する国際条約上は、主権行為というのは黙って攻撃を仕掛けるとかね、宣戦布告の前に先につぶてを投げておいてから始めるとかいうのは全くの自由なんです。
「ポツダム宣言」の真意を汲むことができなかった日本
向こうとしては、「ポツダム宣言」を発した時に「もうこの辺で止めようじゃないか」ということだったんです。
結局上陸してもずいぶん多くの死傷者が出ることになるでしょうし、そういうことが背景にあったでしょうが、それで「対等な『契約』を結ぼう」と申し込んできたということなんです。
だから、その申し込みをこちらが受け入れますよとか、どうとかこうとか言えば、それでもう対等な交渉が開かれることになったんです。
それを日本は向こうの真意を汲むことができずに、ただ黙殺してしまったんです。
日本は勝ったとか負けたとかばっかりこだわっていたから。
本来は、戦争を止める時にも、どちらか一方からでも申し込みがあれば、それが対等な「契約」の申し込みになるので、「それじゃあ『契約』の申し込みだから同じテーブルの席に着こうか」とか、そういうことを判断すればいいんです。
そこは勝ち負けに関係ない対等な席になるんですよ。
つまり「ポツダム宣言」を発した時も、「これは対等な席に着いて話し合いをするための申し込みなんだよ」ということだったんです。
しかも、日本は勝ち負けばかりにこだわる国だから「自分たちは戦争に負けた国なので、同じ席に着いたら勝手なことをばかり言われるのではないか」ということを心配する向きがあるかもしれないし、そういう風に誤解されると、こちらとしてはせっかく申し込みをしても意味がなくなってしまうので、そう誤解されないように…ということまで伝えてきてるんですよ、あの申し込みでは。
「我々は右条件より逸脱することなかるべし」という条文の意味
「ポツダム宣言」にはこう書いてあるんです。
「我々は右条件より逸脱することなかるべし(五 吾等ノ條件ハ左ノ如シ:吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ 右ニ代ル條件存在セズ 吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ)」と。
本当は「契約」の申し込みに、後からそんなことを重ねて書く必要は全くないんですよ、普通は。
普通の申し込みでいいわけなんです。
それを日本に誤解されないように「席に着いてから、こちらから何か新しい条件を出したりすることはありませんよ。我々が出す条件はこれだけですよ。この条件だけで申し込みをするんですよ」ということをわざわざ追加して書いてあるんです。
「ポツダム宣言」は「英米法」に基づいて書かれたものなんですが、この一文は本来「英米法」では書かないものなんです。
普通の申し込みだけでいいんです。
それを、彼らは日本は「英米法」の国じゃなくて「ドイツ法」の国だということを知っていたからだと思うんです。
日本人の中に戦争をもっと続けたいという奴がいて、あとになってから「いやー日本は『ドイツ法』の国で『英米法』のことをよく知らなかったから」ということを言い訳にされて、それで席につかなかったんだということになると困るので、我々は「英米法」の国だから本来はそんなことを言う必要がないのは分かっているけれど、そういう言い訳に使われると困るから、我々としては本当に一生懸命その席に着きたいと思っているんだから、この条件のことだけしかやりませんから、そこの席に着いてから新しい条件を出すことは一切ないんですよ、ということを伝えたくて、本来は「英米法」では書かない余計な一文を入れたんです。
日本に拒否されることを恐れて、念のために二重に「我々は右条件より逸脱することなかるべし」ということを付け足したんですよ。
帝国大学は「ドイツ法」が主流だった
つまり、日本人は戦争の「勝ち」「負け」だけにこだわって、日本だけの狭い了見で物事を判断してしまい、相手側の理屈である「英米法」の考え方で「ポツダム宣言」の真意を受け止めることができなかったんです。
これは、日本側に本当に優秀な人というのがいなかった、ということにもなるんですが。
実は日本にも「英米法」の専門家がいなかったわけではないんです。
東京帝国大学には末延三次さんという優秀な学者さんがいました。
彼には分かっていたんだと思いますが、当時の帝国大学は「ドイツ法」が主流だったんですね。
法学部のお偉いさんはみんな「ドイツ法」だし、法学部を卒業して高等文官試験に受かって役人になった連中も「ドイツ法」しかやってなかったというのが多かったんでしょう。
それも原因だったと思うんです。
それで、日本国政府には「ポツダム宣言」の真意を理解できる人間がいなかったんだろうと。
これこそ「成績主義」のなれの果てであり、「権威主義」の弊害なんです。
本当に優秀な人材がいたとしても、表に出てこれなくなってしまう。
要するに帝国大学で大学に残って教授になろうというような連中は、わたしたちの時代から、特に成績が良かった連中なんですね。
だからろくな奴がいないんです。
「成績主義」というのは「無責任」ということ
旧制の高等学校では成績の良い奴っていうのは馬鹿にされてましたから。
他にやるべき大切なことがたくさんあるはずなのに、何でそんなことに時間をかけて良い点をとってるんだと。
そういう奴は、要するに物事の道理が分からない一本足りない奴だということになるんです。
だから高等学校ではすべての科目で及第点ギリギリっていう奴が尊敬されていました。
我々の中では「秀才」っていうのは「バカ」の代名詞でしたから。
そういう連中が教授になったりするからろくでもないことになる。
それに「成績主義」っていうのは「無責任」なんですよ。
上にいる者に見る目がなくて、それで成績が良いからいいだろうと引き上げる。
成績が良ければ文句が出ないだろうということで、その人の能力に関わらず引き上げる。
成績を言い訳にして、責任逃れをしているんですよ。
だから成績が良いだけで引き立てるっていうのは「無責任」だというんです。
本当は成績が良い奴ほど気をつけなければならないんです。
そういう連中に限って「○○でござる」って能力もないのにふんぞり返って偉そうにしたりするから、そういう連中が集まると「権威主義」に陥ってしまうんです。
本当のエリートというのとは全く違うんです。
「戦闘」に負けたことは交渉カードの一枚に過ぎない
それで「ポツダム宣言」の真意を汲み取れずに、日本はそれを黙殺するという、一番やってはいけない対応をしてしまったんです。
そもそも何で「宣言」にしたのかということもあるんですけれどね。
あちら側の考え方では、「ポツダム宣言」というのはあくまで「契約」の申し込みであって、まずはお互い対等な席に着きましょうということだったのにも関わらず、さらには「戦争」において実際の「戦闘」というのは全体の一部であって、「戦闘」に勝ったとか負けたとかいうのは、交渉おいてはただ一枚のカードに過ぎないものなんです。
それにも関わらず、「日本は戦争に負けたから相手の言うことは全部聞かないといけない。『無条件降伏』だ」などと勝手に思い込んでしまったんです。
それに、そもそも「ポツダム宣言」では「政府の責任で軍の処理をお願いする」というだけで、占領することまでは要求していません。
それを「『ポツダム宣言』を受諾したから、すべてアメリカの言う通りにしなければいけないんだ」などと、日本政府はアメリカが初めは求めてもいなかった自国の統治権までを、自らアメリカに委ねるという愚行を犯してしまったんです。
「ポツダム宣言」への対応を誤ったことこそが戦後の悲劇の根本原因
これでは彼らが日本人に対して「お前たちアホか?」と思うのも無理はありません。
「せっかく文明国として対等の評価と待遇をしてきてやったのに、それで対等な『契約』の申し込みまでしてやったのに、お前たちはそんなことも分からないバカだったのか」という気持ちになるのも分かります。
そんなバカな連中だったら、徹底的にバカにして取るものは取ってやろうじゃないかと。
実は敗戦よりも、日本政府が「ポツダム宣言」への対応を誤ったことこそが、戦後の悲劇の大元の原因なんです。
さらにまずいことに戦後日本においても、この根源的な失敗に気づく人が、まずいなかったんだろうというのがわたしの考えです。
そして、そういったまずい対応があったうえで初めて「日本国憲法」という話が出てくるんですよ。
つまり、戦後の色々な問題の原点は「ポツダム宣言」の処理に失敗したことであり、「日本国憲法」の問題はそれから派生したもののひとつに過ぎないということです。
だからマクネリーに「ポツダム宣言」の条文に込められた彼らの「真意」というものを、「法」の観点から確認したかったんです。
そうしたら彼も「その通りだ」と答えたんです。
ただ、どうもわたしのあとにマクネリーに文句を言いに行った奴もいないようなので、困ったものです。
「日本国憲法」をはじめ、戦後の日本の安全保障等の諸問題を正しく処するためには「ポツダム宣言」の処理に失敗したことを、まずは日本人が広く認識することが必要なんです。
その上で「なぜそうなったのか?」「そのためにどのような不具合が出てきたのか?」についてしっかり検証し、「正すべきところは正す」ということが、実は「戦前」「戦後」を超えて日本人が取り組まなければいけない大きな課題なんですよ。
今日出海さんから伝えられた話
私と随分交流があった今日出海(こんひでみ)さんからも、憲法についてこんな話を聞いたことがあります。
今さんというのは面白い人でね。
とにかく話が面白かった。
いつもどこまでが本当でどこからが作り話なのかわからないんですけれど、といかく話が面白かったんです。
今さんがしてくれた面白い話はたくさんあって、逸話もたくさんあるんですが、その中のひとつで、いま考えてみると、今さんにしてみれば是非わたしには伝えておきたかった、伝えておいた方がいいだろうということだったのかもしれません。
今さんは初代文化庁長官になった人ですが、そもそも幣原(しではら)内閣の時に文部省に芸術課を作ることになって、「それじゃあ誰に任せようか」という時に「それなら今さんがいいんじゃないか」ということで初代芸術課長になっているんです。
その時、今の官房長官にあたる官房書記官長(1946年1月13日~5月22日)をしていたのが楢橋渡(ならはしわたる)さんだったんですが、今さんと楢橋さんはフランスで3年間一緒に下宿していたことがあるんですね。
今さんも変わっていましたが、この楢橋さんという人も変わった人だったようです。
幣原さんが総理大臣になる時に「楢橋が一緒にやってくれるんだったらやってもいい」ということだったそうで、でも本人と連絡が取れない。
楢橋さんはどっかに行ってしまっていて、まったく連絡が取れなくなっていたというんです。
それでラジオの尋ね人番組で呼びかけたら長野の疎開先にいて、それで呼び出されたという人です。
官房書記官長室で「日本国憲法」の翻訳作業をさせていた
今さんと楢橋さんはそんな仲だったものですから、今さんが芸術課長になった時には何かと頼みに行ったそうなんです。
それで今さんが芸術課長になったのはいいけれど、「じゃあ手始めに何をやろうか」と思案していたところ、なにせ戦後で物がなかった時代でしたから、芸術をやるとはいってもまずは紙が必要になるだろうけれどそれがない。
それじゃあ、まずは紙を調達しなきゃならんということで、それで楢橋さんに頼みに官房書記官長室に行ったそうなんです。
そうしたら楢橋さんが「ちょっといま忙しくて大変なんだ」と。
「紙のことは分かったから、あとで何とかするから、しばらく待ってろ」と言われたそうなんです。
「シー」というように鼻の前に指を立てて「実はコレなんだが、上からの命令で学者たちに部屋で憲法の翻訳作業をさせているところなんだ。1週間で仕上げなきゃならんということなんで」と。
その時、官房書記官長室に学者たちを集めて、GHQから渡された「日本国憲法」の英文を急いで日本語に翻訳させていたというんですね。
おわりに
「はじめに」において、私はあえて「いわゆる『日本国憲法』」と表記しました。
今回のお話を読んでいただいた方にはきっとその理由がお分かりになったのではないでしょうか。
しかし「日本国憲法」は、日本の統治における最高法規としていまなお「存在」しております。
そして、アメリカによる占領統治が終わってから70年近く経つというのに、日本は内政面においても外交面においても、国家レベルにおいても民間レベルにおいても、「独立国家」にはなりえていません。
そのことを象徴する存在が「日本国憲法」であることは間違いないでしょう。
わたしたちを含め、「日本国憲法」を結果的に放置してきた戦後日本人の責任は非常に大きいと思います。
いわば先人たちが積み重ねてきた精神的、物質的「遺産」を食いつぶすようにして、ようやく「いま」に至っている感もいたします。
ようやく近年「憲法改正」の機運が高まってきたとはいえ、いまだ本質的な議論がなされているとは到底言えないでしょう。
それゆえわたしには「憲法改正」の掛け声がむなしく響くのです。
そもそも「『憲法』とは何なのか」、「日本の『法』とは何なのか」について、明治維新以降「放置」してきた問題の原点に立ち戻り、日本人にとっていわば血の通った「法」を自分たちで表わすことこそが、いま本当に必要とされていることなのではないでしょうか。
しかし日本の安全保障については、日ごとに情勢が差し迫ってきており、「待ったなし」の対応を迫られていることも事実でしょう。
ではどうしたら良いのか。
Aさんは以前こんなことも言っておりました。
「戦後日本人は『日本国憲法』を、実質的には『都合の良いところは利用する』というように、『慣習法』的に運用してきたんです。『憲法』が禁じているはずの自衛隊の存在や私学助成金が許されていることが、その証拠です。『憲法』では禁じられているけれども、『それで良いだろう』と日本人が認めて『合意』が形成されているからそうなっているんです。そのことこそが大事なことであり、それこそが日本人にとっての『法』になるんですから。だから建て前は『憲法』であっても、実質は『慣習法』みたいなものなんです。『憲法改正』だとか何だとかいう前に、内閣総理大臣か誰かが、はっきりそのことを内外に宣言すればいいだけのことなんですよ」と。
わたしにとっては今回ご紹介したお話が、みなさんにとって少しでも、いわゆる「日本国憲法」について、さらには「日本の『法』」について考えるきっかけになれば幸いです。