此岸も彼岸も | さびしいときの哲学

さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

こんにちは、本当にご無沙汰しておりました。

 

まさしく厳寒を迎えようとするこの頃、本来なら、地面に落ちた山茶花の花びらや落ち葉を拾い集めなければならないところ、つい見ないふりをして、今日は休日よろしく家に閉じこもっています。

 

久しぶりだからと言って、思索を止めたわけではなく、新しいことを始めて、そのことで時間を取られてしまい、ブログを書く心の余裕がなかったというところでしょうか。

 

1ヶ月か2ヶ月に1回、上京しながらのグリーフケアのボランティア活動は、私にとっても心の支えになっています。それとともに、30年間不在だった福岡に、お気に入りのスポットができ、新しい出会いもあり、旧交を温めることもでき、またこれまで避けていた友人関係も、少しずつではありますが、再開していく心もちにもなれました。

 

哲学は、此岸と彼岸の間にあって、そこから此岸を、いわば私たちが居る世界を見渡すもの、そして、彼岸を思索するものと思っていました。そこには、ここからここまでが此岸で、ここから先が彼岸という区別の仕方が前提とされているわけです。此岸が地上ならば、彼岸は天上でという垂直的な志向がそこにあり、此岸と彼岸に上下関係ができている。

 

けれども、果たして、此岸と彼岸とは、そんなにきちんと区別できるものでしょうか。それは今生にいる私たちがそう思っているだけで、実は重なり合い、グラデーションのある連続性をもちながらあるもので、その全体の中にいる。だけれども、生と死を区別してしまった私たちには、その全体の一部しか見えていない。

そういう思いが強くなったのは、先日、上京した折に、知人に勧められて、世田谷美術館で開催されている藤原新也写真展「祈り」を観たからだと思います。

 

 

 

 

藤原新也 死を想え「メメント・モリ」より

インドの聖地バラナシ。諸国行脚を終えたひとりの僧が自らの死を悟って、河原に横たわる。夕刻のある一瞬、彼は両手を上げた。そして両手指で陰陽合体の印を結び、天に突き出す。その直後、彼は逝った。死が人を捉えるのではなく、人が死を捉えた。そう思った。

 

 

ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。

 

ともしび。 ガンジスの岸辺。ひとりの老人が死者に線香を手向けるためにマッチを擦る。川風から火を守るように囲うその手のひらは、聖なる彫像のように美しい。

 

世界のはじまり。

バリ島の山中。無人の沼に半身を浸かり、朝の暗いうちから蓮の花の咲くのを待つ。東の空にあかね色がさしはじめると、それに呼応するかのように、ゆっくりと蓮の花弁が広がりはじめる。世界のはじまりは、こんなにも美しいのかと息を飲む。

 

混沌のなか、可憐ながらも屹立として咲く蓮の花、それは再生のイメージでもあり、わたしが追い求める哲学のイメージでもあります。

 

死にざまは、まさに生きざま。「今」もまた、死につつ再生する。

 

そして、わたしは、生と死の連続のなか、その度ごとにあの人の幸せを祈り、その度ごとに信じ続ける。

 

祈りとは、それは全体が在り、そして今ここに在るという証ゆえに。