キリストとの霊的な出会い (人智学) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

「友情のイコン(キリストと聖メナス)」コプト正教会

 

 “私たちが考察したいのは、アメリカの心理学者ジョージ・リッチーによる『明日からの帰還』という本に述べられているエピソードです。本書のテーマは著者が一九四三年末に受け取ったある超感覚的な体験なのですが、このとき彼は二十歳のアメリカ軍新兵として、とある軍事キャンプで第二次世界大戦従軍に向けての訓練を受けていました。

 ジョージ・リッチーはキャンプでの訓練中に、重度の肺炎を患い生死の狭間をさまよったのですが、このとき体外離脱による超感覚体験をもちました。彼の意識がまだそのようなものを受けとる準備ができていなかったこと、その体験以前には霊的な事柄への興味がほとんどなかったことで、彼の体験はかなり物質的、地上的にゆがめられたものでした。にもかかわらず人智学的視点から見るとき、そこには、少なくとも表面より内実において、多くの真実が見てとれます。

 著者がもったたくさんの霊視体験は周辺部分から核心に至るまで、疑いなく地上界に隣接した霊界におけるエーテル的キリストとの出会いだと断言できます。

 ジョージ・リッチーの霊的キリストとの出会いを詳しく紹介するのは本書の役割ではありませんが、印象的なことが一つあります。キリスト体験は彼の人生にとって決定的に重要なことでした。それ以降、彼の人生の歩みは大きく変わりました。以前は典型的な現代の即物的な若者であったジョージ・リッチーは、この体験をしてから深い意味でのキリスト教徒になったのです。宗教的伝統からではなく、霊的世界から直接導かれたキリストの真実について、個人的な確信をもつようになりました。

 しかし、カルマによってもたらされたジョージ・リッチーの超感覚体験は、彼にとってまったく別の展開をもたらしました。霊視によってキリスト自身と出会えたことは彼に人生の中心的出来事になったのですが、それ以降、彼の魂の中でもう一度キリストと出会いたいという願望が何にもまして強まりました。「その年に私が感じた孤独感、現実世界や日常の出来事からの疎外感-これらはもう一度あのときに戻り、キリストの御前に立ちたいという憧憬であった。」リッチーは著書の中でこのように述べています。

 ジョージ・リッチーはこの願望を抱きながら何ヶ月も過ごしました。キリストとの霊的な出会いがあって一年以上過ぎてから、霊界から一つの答を得たのです。それはキリスト体験についてまったく異なった見方を与えてくれました。その新たな希求が彼のその後の人生で最も重要なテーマになったのです。それについてリッチーはこのように述べています。

 「ただ過去に現れたキリストを求め続けるのが誤りであることに、突然気がついた。その日の午後、レーテルからの途上、もしキリストを間近に感じたいのならば、これこそそれまでの私の願望だったのだが、キリストが私の前に現してくださる人々の中に求めるべきなのだと理解した。」

 ジョージ・リッチーにとってまったく新しいキリストへの道が開かれたのです。それについてリッチーはいかにもアメリカ人らしい率直さで語っています。

 「まず最初のステップは天国的なイエスのビジョンを追いかけるのをやめることだった。そして、(軍隊の)給食テーブルの向こう側に並んでいる顔の中にキリストを捜すことだった。」

 次に、彼が出会う現実の人々を通してキリストを直接体験できた多くの瞬間があったことが述べられています。自身の霊視体験を思い出すことで、人々との出会いにおいてはっきりと断言できたのです。 

 「そう、自分の前に立っているこの人の目を通して、キリスト自身が私を見つめている。私にとって、この人物の顔にはキリストの顔(かんばせ)が映し出されている。」

 ジョージ・リッチーにとって、このような形で出会った人たちがどこまでキリストについて自覚していたかはそれほど重要なことではなかったのです。

 

(セルゲイ・O・プロコフィエフ「赦しの隠された意味」(涼風書林)より)

 

*この本の著者セルゲイ・O・プロコフィエフ氏(1954~2014)は、ロシアの有名な作曲家セルゲイ・プロコフィエフの実の孫であり、ソビエト連邦時代から人智学に関わっておられた方です。ここで引用させていただいた文章の他にも、数々の重要な霊的な教えが非常にわかりやすく説かれています。価格は2,800円+税で決して安くはないのですが、かなり内容が濃く、購入する価値のある本だと思います。

 

 

*『このような形で出会った人たちがどこまでキリストについて自覚していたかはそれほど重要なことではなかったのです』とありますが、高野山の奥之院では、入定中の弘法大師は訪れたすべての人の中に、たとえ悪人であったとしても、その内なる仏性を認められ、霊身をもって一人一人全員を橋の所までお見送りになられると言われています。

 

*私は、聖書に預言されている『キリストの再臨』とは、全ての人の中の内なるキリストとの出会いのこと、つまり、各人がそのような深い霊的な境地を達成することを意味しているのではないかと思います。

 

*2016年に列聖されたマザー・テレサもまた、キリストについて、ジョージ・リッチー氏と同じような認識を持っておられたようです。ちなみに、マザー・テレサについては、何年か前に彼女の修道会である「神の愛の宣教者会」が人身売買に関わっていたとかいう話を耳にしましたが、修道会が身寄りの無い孤児達の養子斡旋をしていたのは昔から知られていたことで、ドキュメンタリー映画でもその事業が紹介されていましたし、おそらく悪質な人身売買の業者に宣教者会が利用されてしまった、というのが真相だと思います。

 

・マザー・テレサ

 

 “「私がもし聖人になるなら、それは『暗闇の聖人』でしょう」、マザー・テレサは生前、手紙の中にそう書き記した。暗闇の中に生きた自分は、暗闇の中に生きる人々の為に働く聖人になるだろうというのだ。マザーが生きた暗闇、それは一体どのようなものだったのだろう。

 

(喪失ゆえの苦しみ)

 この暗闇を、マザーは「喪失ゆえの苦しみ」と呼んでいる。この闇は、イエスを失ったことによる苦しみだというのだ。

 マザーが1946年9月10日、ダージリンへ向かう列車の中でイエスと出会った話は有名だが、その体験以来マザーの傍らにはいつもイエスがいたようだ。「すべての祈りとミサのあいだ、イエスがわたしに語りかける」とさえマザーは書き残している。寄り添うイエスに励まされ、手を引かれるまま、マザーはスラム街へと出て行き「神の愛の宣教者会」を設立した。ところがそのイエスが、ある日突然マザーの前から姿を消してしまったらしい。1950年ごろのことだ。

 そのころ指導司祭にあてた手紙の中に「私の心は苦しみでいっぱいです。この苦しみは、喪失ゆえの、あこがれゆえの苦しみです」とマザーは記している。この苦しみは、イエスを失い、その愛にあこがれることによる苦しみだというのだ。

 

(イエスの聖心を信じて)

 どれほど呼び求めても、イエスが戻ってくることはなかった。冷たい闇の中に取り残されたマザーは、ただ「盲目的な信仰」だけを頼りに進んでいくことになる。このときの心境をマザーは「わたしはもう『イエスの聖心よ、あなたを信じます』としか祈ることができません」と記している。イエスの愛を実感することができなくなった今、マザーは、イエスの聖心にあふれているはずの愛をひたすら信じて進むしかなかったのだ。

 

(闇を愛する)

 変化が訪れたのは1961年のことだ。ある黙想会の後、指導司祭にあてて書いた手紙の中でマザーは次のように語っている。

 「この十一年で初めて、わたしは闇を愛することができるようになりました。なぜなら、今のわたしは、この闇が地上でイエスが味わった闇の小さな一部でしかないと信じているからです。」

 苦しみは残り続けたが、深い祈りの中でマザーはその苦しみをイエスが十字架上で味わった闇の一部と感じられるようになったらしい。イエスは、十字架上で神のために自分の命さえ捨てようという時に神の存在を見失い「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ。この神の喪失の苦しみをイエスと共に担う使命を神から与えられた、とマザーは受け止めたのだ。その時以来、苦しみはマザーとイエスを結びつける絆としてそれ自体が恵みの源となった。

 闇の苦しみを味わい尽くしたマザーは、神の愛を感じられずに苦しむ人々に心から共感し、彼らのために働く「暗闇の聖人」になることを希望した。マザーは今日も苦しむ人々の傍らにいて、彼らに微笑みかけているに違いない。(片柳弘史神父 イエズス会)”

 

(「カトリック新聞」2010年8月1日号より)

 

 

 “……私たちは、貧しい人びとのなかに生きておられるイエズスに仕えているのです。貧しく、見捨てられ、病気で、孤独で、死に直面した人のなかに現存しておられるキリストを看病し、食べさせ、着物をきせ、訪ね、なぐさめるのです。このほかにどんな理由も、動機もありません。私は二十四時間キリストに仕え、やること、なすこと全部キリストのためにやっているのです。」”

 

(千葉茂樹偏著「マザー・テレサとその世界」(女子パウロ会)より)

 

・ミロクの世になれば宗教はなくなる

 

  “宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである。主義・精神が第一であって、大本であろうと何であろうと、名は少しも必要ではないのである。今までより広い大きい考えで、世を導く精神にならねばならぬ。

 大本は大本の大本でもなく、また世界の大本でもなく、神様の大本、三千世界の大本であることを取り違いしてはならない。”

 

            (「神の国」大正13年新年号 『宗教不要の理想へ』)

 

・「教会」の最終目的 〔ルドルフ・シュタイナー〕

 

  “未来において人間の中で発達することになる自由な宗教性はすべて、「単なる理論ではなく、直接的な人生の実践において、個々の人間の中に実際に神性の似姿が認められる」ということをよりどころとするのです。そうなるともはや宗教が強制されることもなくなります。もはや宗教を強制する必要がなくなるのです。というのも、そのときには、それぞれの人間が他の人間と出会うということがすでに、宗教的な儀式、秘跡となるからです。そのときには誰も、物質界に外面的な機構を持つ特別の教会によって宗教上の生活を支える必要がなくなります。人生全体が超感覚的なものの表現となることによって、教会がもちうるただ一つの意図は――もし教会がそれ自身を正しく理解するならば――「教会それ自体を物質界で不要のものとすること」のみになるのです。”

        (ルドルフ・シュタイナー「天使と人間」(イザラ書房)より)

 

*もちろん、霊的な進化の度合いは人によって異なるのですから、他者の中に神の似姿を認めることのできない人が存在する限りは教会は必要ですし、ほとんどの人は、教会や僧団などの何らかの組織の導きを得なければ霊的な向上は不可能だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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