江戸中期の人さまざま
なんだかいつまでも続いている『折たく柴の記』です。
新井白石は、荻原重秀が大っ嫌いだった、という前回の続き。
白石と重秀の対立の主要因は、貨幣改鋳。
経済を回せれば、貨幣の質は大きな問題ではない、と金銀含有率を下げて改鋳を重ねる重秀。
金含有率低下は改悪でしかない、と考える白石。
通貨は極論、紙でも石でも良いという重秀の貨幣観は、電子マネー(モノでさえなく、データ)によるキャッシュレス化がすすむ現代からすれば、完全に時代を先取りしている。
白石のせいで悪役のイメージがついていた荻原重秀の再評価は、その世界(学問のあたり)では常識だろう。
ただ白石も、金含有率にこだわる理由があった。
それは(別の本になってしまうが)『西洋紀聞』に見ることができる。
そのまま追い出すこともできたが、白石は彼を江戸まで呼び寄せ、自ら取り調べている。
(キリスト教義について、旧約の天地創造や楽園追放等から、新約の処女懐胎やイエスの犠牲による救済まで、きれいにまとめている。
またローマ時代の迫害、コンスタンティヌス帝の改宗と国教化、ヨーロッパ全土への拡散、宗教改革にプロテスタンティズムといったキリスト教史を、現在の私たちの認識と大きく外れることなく記している。
取り調べは、イタリア人シドチの話を、長崎から引っ張ってきたオランダ人に通訳させた。
カトリック宣教師と、カルヴァン派の蜂起で独立を勝ち取ったオランダの人。
白石の前で二人は、宗教論争を繰り広げている。
そんな状況で、世界史の予備知識のない白石がここまで理解し、まとめられるのか、と感心する。
頭の良い人って、本当にすごい。)
白石がこの宣教師に興味を持ったのは、太閤秀吉の禁教宣言以来、キリスト教禁止を打ち出している日本に、どうして今、宣教師がやってきたのかということだ。
そう、白石は布教にかこつけた偵察を疑っていた。
後世の私たちは、黒船来航まで幕府にはまだ時間があると知っているが、白石はそれをこそ恐れていた。
(時代を大きく先取りという点では、重秀と同じだ。
西洋について聞き込み、科学技術などの一定の分野については、当時すでに日本が西洋に遅れをとっていると、しっかり判断している。)
話を戻すと、貨幣改鋳による金含有量の低下により(民間で海外へ流れていく小判等から)、日本の国力低下が、海の向こうでささやかれているのではないか、と白石は危惧している。
(この『西洋紀聞』も面白いので、おすすめ。)
そんなわけで白石と重秀は、貨幣政策に関して完全に対立していた。
なにしろ幕府にお金がないという現実が目の前にあり、対応を迫られる両人は、いやでも対立を激化させる。
「国財すでにつきはてて、すべて今より後の事共に取用ゆべきものもなし」(P142)
政治を任されたとたんこんなことを言われたら、今まで何やってきたんだよ、とは思うだろう。
いやあ、内裏が消失したし(P143)、富士山は噴火するし(P144)、元禄大地震と火事があったし(P146)、と重秀はいう。
(たしかに、とんでもない時代だ。
それにしても「天下の事変はかるべからず」(P146)というエクスキューズは、いつの世も用いられる。
福島第一原発メルトダウンの時にも、「想定外」という言葉が、さかんに飛び交った。
江戸時代ならいざ知らず、科学的データが揃い、リスク社会論の練れた現代では、聞いている方が恥ずかしいけれど。)
幕府の金庫が底をつくたびに、貨幣改鋳でしのいできた、と重秀はいう。
ただ、貨幣改鋳の下、銀座からキックバックを受けたり(P357)、事業落札は賄賂で請負人を決定したり(P266)、重秀にはダーティな面もあった。
また白石は、強迫的なまでに潔癖症の人だ。
白石にはとても我慢できなかった。
重秀を罷免させるために、白石は三度、意見書を上げる。
結果、重秀は罷免となり、その5日後に死去。
注釈には「自ら断食して」(P356)とある。(食を断つだけではすぐには死ねないから、水も断ったのだろうか。壮絶…。)
真実のほどは知らないが、憤死には違いないだろう。
そしてまた、重秀罷免の申し立てが三度にまで及んだのは、家宣がすぐには頷かなかったからだ。
白石の訴えに、家宣は言う。
「才あるものは徳あらず。徳あるものは才あらず。真材誠に得がたし。今にあたりて、天下の財賦をつかさどらしむべきものいまだ其人をえず。年比重秀が人となり、しらざる所にはあらず」(P268)
才能と人柄、どちらも兼ね備えた真の逸材は、簡単に見つからないね。今、天下の経済を任せられる人材がない。重秀の人となりは、分かっているのだが。
そんな家宣に、白石は言う。
「古より此かた、真材の得がたき事は申すにも及ばず、重秀がごときは、才徳ふたつながら取るべき所なし。しかるを、なほ徳あらざれども其才ありと思召れむ事、もつともしかるべからざる事」(P268)
真の逸材がいないなんて、昔から当ったり前です。重秀には、徳もなければ、才もない。あいつに才能があるだなんて、冗談じゃない。
このくだり、私には地団太踏んでいる白石の姿が、見えてくる。
「いいから、とっとと辞めさせろー。」という雄叫びも、聞こえてくる。
結局、三度目の封書にして、「我言の激切なるを聞召驚かせ給ひ、明れば十一日の朝に、詮房朝臣仰を奉りて、重秀職奪はれし由を告給ひたりけり」(P269)と、白石が力技で押し切った。
「激切なるを聞召驚かせ給ひ」って、もう、何をやっているんだか。
この主従のやりとりが、私には超絶におもしろい。
おっとり君主と、怒り狂う臣下。
家宣は、優しく、おっとりした人だった(と思っている。専門的分析を知らないけれど)。
そもそも白石が家宣の侍講になったのも、家宣が初めは林家に相談したところ「うちには紹介できる者がおりません」と言われたからだ。(P96)
天下の林家に、人がいないはずが、ない。
綱吉に嫌われていた家宣が、(綱吉へ尻尾をふるために)当時の権力者たちから受けたであろう嫌がらせは、推して知るべしだ。
にもかかわらず、将軍着任後の、吉保や重秀、信篤へのリベンジが、見えない。
むしろ家宣は、彼らを慰留する側に回っている。
白石から講義をうける時の家宣は、暑くても寒くても静かに端座していた(P105)とか、大地震の時は、庭に控えた臣下に「そなたら上野の花見のようだ」と言ってほほえんだ(P113)とか。
太宰治が好きだった「美しい人」(『駈込み訴え』や『右大臣実朝』に描かれている人。高貴で、静かで、運命を従容として受け入れる、哀しみの陰を帯びた人)に、かなり近い人物だったのではないかと、思っている。
一方、白石は父から「男児はたゞ事に堪ふる事を習ふべき也。」(P59)と教えられたにもかかわらず、「もとより我性急に生れ得しかば、怒の一つのみぞ堪がたき事どもありき。」(P60)と、怒りだけはコントロールできなかった、と告白している。
穏やか家宣に、短気な白石。
はたで見て、こんなにおもしろい取り合わせはない。
『折たく柴の記』、他にも多様なエピソードがあり、読む人ごとに違った面白さを提供してくれると思う。
ぜひたくさんの人に、ご自身で読んでみてほしい。
これにて、『折たく柴の記』は終了。
ダラダラと、ずいぶん引きずってしまった。
お読みいただき、ありがとうございます。