とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

「二月の勝者」の迷走とおおたとしまさ氏(4)

今回で、このエントリーは一区切りにしたいと思います。

なぜかと言えば、

・自分たちの著書を売るためのポジショントーク

・肝心の子供不在の中受礼賛

に対して真剣に考えるのがナンセンスに思えてきたからです。

 

というわけで、最後のツッコミを。

多少これまでの記事と重複するかと思いますがご容赦のほど。

一応一連の記事とツッコんでいるインタビュー記事置いておきます。

 

mikoto2020.hatenablog.com

 

mikoto2020.hatenablog.com

 

mikoto2020.hatenablog.com

toyokeizai.net

 

8)彼らの「中受はいいよ!」はマッチポンプかつポジショントーク

中受の過熱による「被害者」は子供たちなのに、お三方ともそこはスルー。「親も辛いよね」と終始親目線。

 

朝比奈氏はこう語っています(以下引用

朝比奈:中学受験をなくしたほうがいいって言われてしまうと、それはちょっと違うかなと思いますね。というのも、やっぱり塾は楽しいっていう子は意外と多い。魅力的な先生がいて、授業も面白くて、ここが自分の居場所だって思う子もいっぱいいるし、紆余曲折あって第1志望の学校に行かなかったとしても、進学先ですごく満足してる子もたくさんいるし、その子たちはみんな中学受験して良かったって思ってるので。(引用終わり)

そりゃあうまくいった子すなわち「(比較的)できる子」「親が闇落ちしなかった子」にとってはそうでしょう。それは中受に限らずなんだってそうですよ、結果が良ければ。だいたい、人は自分がやったことを「やらなきゃよかった」とは思いたがりません。自己肯定のバイアスがかかります。ましてや他人に本心などそうそうは言わない。

朝比奈氏、「みんな思ってる」と言い切っちゃうのってすごいな苦笑

 

塾が楽しいというのにも2通りあって、より高次元な勉強ができるから楽しい子と、学校や家から逃れる場所だから楽しい子がいるわけです。後者の場合は、それが必ずしも塾である必要はない。中受を擁護しようとしていろいろごっちゃになってませんか。

 

何度も書きますが、私は中受そのものを否定しているわけではありません。

勉学が好きな子はどんどんやったらいい。

でも、中受が害になる子もまた少なくない。

・勉強の面白さがわかっていない子

・メンタルの成長期がまだ来ていない子

・中受レベルの勉強が過剰な負荷になる子

発達障害を「埋めよう」として親が無理やり中受させている子

この子たちにとっては、貴重な3年間を中受に全振りすることでむしろ勉学を嫌いにさせ、成長の芽を摘んでしまうことが多いです。

mazmot.hatenablog.com

以前もご紹介しましたが、拙い私の100万語より的確に問題点を指摘してくださっているブログです。

こちらにもあるように、「小学生にはとてつもなく難しい概念」でも、学力の高低にかかわらず年齢でスッと理解できる概念は多いのです。学生時代にテストはいまいちだった方でも、例えば2人用で書かれているお料理のレシピを3人用や4人用に考え直すのはスルリとできる方は多いのではないでしょうか。「比」の概念は、年齢とともに経験を積めばたいていの人は理解できます。現在の中学受験は、(一部の飛び級レベルの子は除くとして)「いずれ自然に理解できることを無理やり数年早くやらせているだけ」に過ぎない側面が大きいです。そのためには、同じことを数年後に自然に理解する場合に比べて数十倍の負荷をかけないとなりません。そして残念ながら、多くの小学生は「真に理解」はしていません。なんとかかろうじて答えらしきものは出せたとしても。

氷が水に浮かんでいる模式図が書けない子や日常においてはまったく比を使えない子、成績中程度でもものすごく多いです。子供のキャパはそれほど大きくありませんから、テキストベースの知識を詰め込まれると「日常から学ぶ」ことが反比例してできなくなります。勉強が苦手な子にゴリゴリと机上の勉強を強いると、机から離れた途端に「勉学にかかわることは目に入れないようにしよう」という無意識が働きます。勉学が日常から乖離していくことが、私には怖いですね。

 

高瀬氏は「(上位の子は)社会全体が見えないまま大人になる」と言われていましたが、言わせてもらえば「わかってないのにわかった気になって(ついでに変なプライドを持って)る中堅層」を生み出しているのが中学受験の負の側面だと私は思っていますよ。

 

やや話が逸れました。

お三方とも「それでも中受は良い」と仰る。おおた氏などは「高校受験より得るものが多い」と言い切る。そのエビデンスは?これが教育関係の研究の難しいところなのですが、「同一人物が中受をする/しない」を両方経験し比べるということができませんから、どっちが良かったかなどというのは本人でもわからないところだと思います。ましてや、第三者には。

前回書きましたが、中高一貫校で6年間ボーっとする」ために小学校の後半を「ボーっとできない時間」にするのはブラックジョークだとすら感じます。これまた個々人の価値観だとは思いますが、小学校時代って人生で一番ボーっとすることに価値のある時期だと私は思っているんですがね(個人の感想です)。

 

なぜ、数々の悲劇が生み出されるのを知りながらお三方はそれでも中受を推すのか。

ズバリ、ポジショントーク

これは、スポーツや芸術で考えるとわかりやすいです。

要は、「裾野=競技参加人口」が広いほどそのジャンルが盛り上がるわけです。

だから才能のある子の取り合いが起きます。

この「盛り上がりを求める動機」が2種類あって、そこに問題があります。

ひとつは、参加人口が増えるほど「最高到達点」が高くなるので、そのジャンル全体のレベルアップに繋がる、だから参加人口が増えて欲しいという考え。芸術でも新規参加者(それに憧れる人)が減ると先細りですね。この辺は、星新一先生がブラックジョーク的なショートショートを書かれていました(スターが輝くためには「輝けないスター志望者」がたくさん必要でそれがテレビ界の養分だというお話でした)。

もうひとつは、単純に「その業界が盛り上がると金になる」「自分の存在価値を維持したい」という動機。

前者の動機も「夢破れる人」の存在前提でのものですからいろいろ問題ははらんでいるとは思いますが、まあ人類の進歩というのはそれが原動力だった面は否めないのでそこは今回は不問とします。

問題は、後者です。

私は数々の教育虐待家庭の悲劇を見てきました。全落ちからの子供の自己否定→引きこもり、家庭不和、エトセトラ。それでも、みんな「やってよかった」と言う。親は、ね。子供が潰れてんのにね。自分のやったことを否定できないのでしょう。そしてそれがポジショントークに繋がっていく。「クソな公立に行くより良かった」とかね。公立中に行ったこともないのになぜわかるんだろう笑。

 

私が御三方の意見に非常に違和感を覚えるのは、「中受は良いよ!(高受よりも)」と言いつつ、一方で「どこに行っても大差ないよ」「そこまで(何が何でも御三家など)頑張る必要はないよ」と仰る点です。

中受を薦めながらも「そこそこ」を薦めている

わけがわからない。

以前「親が9割」の佐藤ママについて若干否定的なことを書きましたが、なんだかもうむしろ一周回って佐藤ママのほうが好ましく思えてきたくらいです笑。少なくとも、佐藤ママの価値観は一本スジが通ってますから。人に勧める以上、「こうやって高みを目指しましょう!」と言っているわけですからね。

 

はあ。

これが習い事ならまだわかります。

「嗜み」「趣味」としてなさるご家庭が多いでしょうから。

でも、年間100万かかる「ならいごと」に誘っておきながら「高みを目指す必要はないよ」ってどういうことなんでしょうか。

中受は一歩踏み込んだら麻薬と同じくらい人を狂わせる力があります。取り込まれてしまうのです。ピアノやバレエなら「向いてなかったら辞めよう」と考えられる親御さんが、なぜか中受はそうはいきません。だから、私は万人向きではないと何度も書いています。安易にお勧めできる道ではありません。

 

これは穿ちすぎかもしれませんが、この方々が中受を薦めながらも一方で上位層に批判的なのは、自分がやったこと(自分自身が中受をした、あるいは子供にさせた)を肯定したいからではないか、そして自分が到達しえなかった高みに対しては「価値がない」と言いたいのではないかと感じられてなりません。まあぶっちゃけ言うと、自分と同じ道は行ってほしいけど自分より上に行ってほしくないというヤツですな。

つまり、ポジショントークというヤツです。

 

「〇〇に行ったって大差ない」「〇〇に価値はない」「〇〇に行ったヤツはこんなヤツばかり」と言えるのは、〇〇に行った人間だと思うんですがどうでしょうか。(ちなみに、これは「ドラゴン桜」では痛烈に書かれていましたね笑。あれはちょっとスカッとしたなあ)

 

マッチポンプだなと思う点は、たとえば黒木の行動ですね。

黒木は「お前はプロサッカー選手にはなれない」と(11歳の子供に!)言い放ち中受に誘いました。でも、それで目指させたのが「有名中」。え?「今の夢」をへし折ってまで行かせた先が中堅中?だったら「今」好きなサッカーやらせたほうが良かったじゃん。お前は子供の情熱をなんだと思ってるんだと100万回突っ込みました。また、「そこそこでいい」と思っている匠くんに海城などをちらつかせ勉強させました。でも匠くんは第一志望に落ちるわけです。そこで謎理論「第一志望に受かるのは3割」が出てきます。や、匠くんは黒木がヘンなことしなければフツーに幸せな人生だったと思うんですが。上げて落とす。その「挫折」って本当に必要だったんですか?12歳の子に?

 

お三方には、「それでも中受をしたほうがいい理由」を、ふわふわした印象論やポジショントークではなく客観的に語ってほしいところですね。

 

9)結論ありきの「取材」

おおた氏は「勇者たちの中学受験」を書くにあたり3件「のみ」に取材したそうです。

は!?

それで「取材」って言っていいんですか!?

いや、いいですよ、ドキュメンタリーならば。

でも、氏はそれをもって全体に当てはめて「今の中受はこう」「早稲アカはダメ」「灘ツアーはダメ」と言っているわけですよね。

ある家庭ではこうだった、というドキュメンタリーならばいいんでしょうが、それをもって全体に当てはめるのはルポライターとはいえないんじゃないでしょうか。

おそらく氏の中には先に結論があって、それにヒットするケースを選んだのだと思われますが、取材先ももちろんポジショントークしますよ?前回ご紹介したユウキ先生は非常に言葉を選んでマイルドに仰っていましたが、はっきり書きますと、この業界は「勝てば官軍」なところがあるんです。講師にクレームが入る場合の多くが、成績が親の思うように上がらないからです。逆に言うと、講師に多少なりとも人として問題があろうと教え方が下手だろうと、成績が上がっているうちはクレームは入りません。親がポジショントークしている可能性や子供本人が曲げて受け取っている可能性を露ほど考えずに「××は悪い!」と本にしちゃうってすごいなあ。まあ、表現の自由は尊重いたしますが、少なくとも「公平な記事」ではありませんね。

 

10)灘ツアーに批判的なのに「前受け」を受け入れる矛盾

 

前回も書きましたが、なんであそこまでお三方が灘ツアーを敵視するのかわからないんですよ、私。「他の塾生の金で行くのがけしからん!」と言いたいんでしょうが、そこはそういう問題ではないというのは前回書いた通り。あくまで可能性としてですが、貧困だけど勉強できる子が特待生制度のないサピには通えないけど特待生制度のある塾には無料で通えて遠征もできる、というケースもあるだろうし。

 

「本気で行く気がない学校を受けるべきではない」と言うなら「前受け」も批判しないと矛盾しますよね。「二月の勝者」では、埼玉校や地方校の東京受験は前受で「本番」は二月の東京と言い切っています。「その学校が第一志望で本気で目指している人もいるのに力試しで受けに来て本気の受験者を追い出すことになるのはおかしい」と言うならば、東京勢が「模試」として1月校を利用していることこそおかしいでしょ。埼玉には明の星第一志望の子がいるし、千葉には何が何でも渋幕の子がいますよ。

 

そもそも他人がそこを受験する動機の良しあしを断じちゃうことのおかしさに気づいてないのがすごい(褒めてません)。真剣じゃなきゃ受けちゃだめなどと言いだしたら、医学部出て医者にならない人や結婚したら辞めちゃう人はそもそも医学部受けるなというおかしな話にも繋がります。

 

そもそも、「なにがなんでも」の動機自体が、ある子はマウンティングのためかもしれないし、またある子は本当に勉強が好きだからかもしれない。いじめた子を見返すためかもしれない。そこは他人がどうこう言えることじゃないですよね(快不快は感じるとしても)。

腕試しで受けに来ている受験生に「個人的に」不快感を覚えるのは人間として自然なことだとしても、それを味噌もクソも一緒にして遠征受験自体を悪だととらえるのはおかしな話です。受けに行ったら灘を気に入っちゃって通う可能性だってあるわけだし。

1月校を前受けと言い切ることに疑問を抱かない一方で優秀層の遠征受験はけしからん!というのは結局「酸っぱい葡萄」なんじゃないですかね。

 

11)黒木の行動は矛盾だらけ

「二月の勝者」の前半は、世間を煽る台詞のオンパレードでした。

 

「君たちが合格できたのは父親の経済力、そして母親の狂気」

「凡人こそ中学受験すべき」

「Rクラスは『お客さん」ですから」

「高校受験、大っ嫌いです」

エトセトラ、エトセトラ。

まあ、一番有名な冒頭のセリフは開成の校長先生の訓示を一部切り取ってるらしく(そのせいで開成の校長先生の一番言いたかったことと真逆になってしまったらしい)この作品のオリジナルと言っていいのかどうかわかりませんが。

「凡人こそ中学受験すべき」は「ドラゴン桜」の劣化コピーと言った感がありますが、これは今でも個人的に容認できないセリフNO.1です。なぜならサッカーに夢中だった三浦君の夢をへし折ったから。何かに夢中になれるって素晴らしいこと。たしかに多くの人は「その道」では頭角をあらわせないことがわかり挫折を感じそしてまた別の道を探す。でもさ、それ塾講師がやっていいことか?11歳が夢中になってやってることをへし折るなよ、その後の人生に責任持てない他人が。

 

とまあ、前半は「中受、そして有名校合格こそ価値がある」と言わんばかりだった黒木が、スターフィッシュ編以降なんだか変なことになっているわけです。メインキャラはバンバン第一志望落ちているし、そもそもちゃんと指導した形跡が少なくとも漫画からは読み取れない。とうとう「第一志望には3割しか受からない」とか、中受関係者はみんな知ってることをドヤ顔で言い出した。

このままだと、まさにインタビューでお三方が仰っていた

「思い通りにはいかないことが多いけど、それでも中受って素敵だね♪♪」

というお花畑な結末になりそうな予感がしています。

これについては、かなり以前予想されていた方がいらして、慧眼だなと思います。

wagahaiblog.hatenablog.com

 

人生に挫折は不可避だし、かつ成長のために必要だとは思う。

でもそれは武田くんのように、加藤くんのように他者からまだ不必要な時期に強制的に与えられるものではないと思っている。親が勝手に目指させて。届かなくて子供が泣いて。子供が泣いたら「本気になった証拠だ」と喜んで。大人同士で「親は悪くない」と言い合う構図は、やっぱり私にはグロテスクですね。

なぜなら、武田くんも加藤くんも、12歳でなくとも十分「間に合う」子だからです。

 

漫画論、エンターテインメント論に発展してしまいそうなのでまた別記事にしようと思いますが、「作品」として考えると黒木に何もかも背負わせて黒木をスーパースターにしてしまったのが作品の失速の一番の原因だと感じます。

高瀬氏はブラックジャックをやりたかったのかもしれないが、だったら黒木は「一見悪者」を一貫して演じなければならなかった。ブラックジャックがなぜ輝くかといえば、世間からは守銭奴だと思われているが実は優しく熱い人間で、でもそれを自分からはアピールしないからだ。スターフィッシュ編で「手の届く範囲に手を差し伸べるだけ(助けられるとは言ってない)」と逃げを打ってしまったために、かえって黒木の輝きは減じてしまった。「やり方が汚いと言われようと、私は関わった子は全員助ける!!」と言い切ってこそのアンチヒーローの魅力だろうに。

黒木の方針に異を唱える講師がいないのも、かえって黒木の魅力を減じている。

かろうじて桂先生が距離をとったスタンスだが、他の講師陣が全員「黒木スゲー」の礼賛要員だ。ガラスの仮面のモブ観客だ。高瀬氏は受験マンガを書いているつもりはなく「お仕事漫画」だと仰っているが、だったらなおさら講師同士の意見の相違やつばぜりあいがないとつまらない。たとえば花恋が海浜を落とした時に「黒木さんが3冠取らせるとか無茶なこと言うからですよ、これで桜蔭落としたらどうするんですか」と誰かが詰め寄る場面はあってしかるべしだろう。これがドラゴン桜だと、しょっちゅう桜木にたてつく井野や、是々非々ではあるが学歴偏重に対し批判的な高原の存在がいいスパイスになっているのだが。灰谷も活かしきれていないしなあ。そのへんは、明らかにサピをモデルにしてしまったことで自縄自縛に陥っている気がする。

 

高瀬氏が読者に黒木をすごいと思わせたくてサブキャラに褒め上げさせていることが逆効果になってしまっていてもったいない。本来なら、青臭い佐倉が「でもそれって〇〇くんの気持ちを無視していると思います!」とか反発してバランスをとる役どころだったのだろうが、佐倉もすっかり黒木の信者だ。もはや佐倉の存在価値がわからない。

まあ、前回も書いたように購買層は親なので、「親」たちが満足するオチになるんだろう。いろいろあったけど、中受やってよかったね、と。

そういえば、今井の母親があそこまで闇落ちしていながら個別も家庭教師も頼まなかったのは不思議だな。