こんにちは、私です。
ついに、ついに年末がやってきました。
多分投稿したのは年跨いだ後になってしまってるんですが、
ここまでは年末の体で、お願いします
いやー本来であれば年末に終わる予定だったんですけど、
いろいろ予定が詰まってて投稿できませんでした。
企画的には潰れたんでこのあとどうしようかなと思ったんですが、
「始めたものは終わらせなければ」と小狼や侑子さんも言ってたので、
ちゃんと最後までやります。
今年もなにとぞよろしくお願いいたします。
鎮座地:京都市上京区御前通今出川上ル馬喰
御祭神:菅原道真公
旧社格:官幣中社
例祭:8月4日
御朱印:あり
ということで、今回の旅の終点、京都の北野天満宮です
道真さんの足取りを追って京都を旅立って太宰府まで行き、
一個前に大阪に行って最後は京都に。帰ってきちゃいましたね。
みなさんお忘れかもしれませんが、この巡礼地は双六なんですけど、
コマ的には完全にワープしてますよねこれ。
桃鉄だったら…どうなんだろ、やったことないからな。
ちなみに真ん中に映る女性は知らない方です
表参道は松が立ち並んでおります。
三大天満宮の防府、太宰府に比べてもかなり参道は広いです。
ちなみに旧社格が今までの天満宮で太宰府さんと同じく一番高い官幣中社で、
実は信仰の面ではかなり特例で列格しています。
明治の近代社格制度での官国幣社は、『延喜式』神名帳での名神大社、各地の一宮、国府八幡宮などの地方で力のある神社や、明治神宮などの政府が建てた神社は官幣大社〜国幣小社に列格しています。
そして中世以降、日本の歴史に名を残すほどに国家に殉じた偉人たちを祀って建てた英霊信仰発祥の神社は別格官幣社という特殊な社格が与えられました。
このうち、道真さんはこの2種類だと後者に属するのですが、
建てられた由来が御霊信仰であり、天神信仰が全国にかなり広がっていたため、
本宮にあたるこの2社は官幣中社となりました。
特に北野天満宮は二十二社の下八社に属していたのもその一因となったでしょうね。
こちらは参道で一番初めに通る末社の伴氏社です。
小祭神は道真さんの母君で、お名前は不明です。
家系としては伴真成という方の娘さんで、その一族から社名が来ていますね。
もともとは大伴氏を名乗っており、第53代淳和天皇さまが即位されるとき、
淳和天皇さまの諱が大伴親王だったことから被るのを避けて伴氏に改名しました。
天忍日命という天孫降臨に同伴した神さまを祖神とする神別氏族で、朝廷内では葛城氏に替わって物部氏とともに軍事を司っていました。
また、末社ではありますが『延喜式』神名帳で山城国葛野郡鎮座として記載されている伴氏神社の論社に比定されています
現在では愛情を持って道真さんを育てた御母堂を祀ることから、
子供の健康と安全をご神徳とする神社として崇敬を集めています。
そして特筆すべきはこの石鳥居です
一見なんでもないんですが、この図にあるように貫と島木の間にある額束が嵌め込まれてるだけでなく、
島木にめり込んでいます。これはなかなかないものです。
また、写真では分かりにくいですが、足下の台石が菊弁という花の形になっています。
このような普通の鳥居に見られない構造を含んでいることから、
木嶋神社の三柱鳥居、京都御苑内の厳島神社の唐破風石鳥居とともに、
京都三珍鳥居と言われています
神牛さまもおられます。つか目でっか
満願札が貼られてますね。
さて楼門が見えてきましたね。立派なものがあります。
そういえばこの記事を書いているときになんか神社の拍手の作法で、
鳥居の両側に手を叩いて開門閉門をする作法というのが出てきてましたが、
むしろ鳥居じゃなくてこうしたガチの門にやった方がいいと思うんですよね。
まぁその前にソース元を知りたいですね
また、扁額には「文道大祖 風月本主」と書かれており、
これは平安時代中期の学者、慶滋保胤、大江匡衡という方々が道真さんの業績を讃えた言葉なんだそうです。
たしかに文官として最強でしたからね…
これは…どこだっけ。宝物館じゃなくて…社務所?
忘れてしまいました
手水舎はコロナ前はこんな感じで全方位手を洗えるようになってます。
屋根の形も本殿と同じく入母屋造でとてもカッコ良いです
参拝した時期はちょうど七夕あとで、こちらは笹を旧暦の七夕まで飾っているのか、煌びやかなままでした。
ちょうど神主さんがこの笹の位置を調整してましたが、
この笹刺してるだけじゃなくちゃんと土に埋まってる生きた笹らしいですね。
こちらは社殿前にある中門で三光門と呼ばれています。
この三光というのは太陽、月、星を表す言葉で、この門にその3種を模した彫刻があるからその呼び名になったそうです。
しかし、実際には星の彫刻が無いんだそうで、これが天神さんの七不思議になっていたり、星欠けの三光門とも呼ばれているとのこと。
さて、こちらが拝殿ですね
道真さんが延喜三年(903年)にこの世を去り、太宰府天満宮の前身である安国寺に葬られてから20年後の延喜二十三年(923年)に、
醍醐天皇さまの皇子である保明親王さまが薨去され、
さらにその皇子である慶頼王さまも薨去されてから左遷した張本人である藤原時平公とその長男である保忠が相次いで亡くなり、
宮中の清涼殿に落雷があったことから道真さんの祟りが起こったとされ、
その怨霊を鎮めるために時平の甥、藤原師輔によって建てられたのがこの北野天満宮です。
このあとに自らの後継が2代とも薨去したこと、落雷を受けた上に重用していた時平公が亡くなったことでかなり心労がたたり、醍醐天皇さまも崩御されてしまいます
かなりの損害が出ていますね…そりゃ三大怨霊に数えられますわ
北野天満宮も今までの天満宮と同じくお寺との関係が深く、
現在ももみじ苑の南にある東向観音寺が朝日寺という名で神宮寺を務めており、
その後も神仏分離令になるまで松梅院、徳勝院、妙蔵院の社僧が神官を務めていました。
本殿は拝殿と本殿を接続した権現造で、日本で最初の権現造と呼ばれています。
かつてはその拝殿の左右に「楽の間」と呼ばれる広間があることから八棟造とも呼ばれていて、
現在の社殿は豊臣秀吉公の遺言により秀頼公が造営したものです。
慶長十二年(1607年)のの建物なので、国宝に指定されています。
このように、道真さんを鎮めるために建てられ貴族の崇敬だけでなく、
武士からも熱い崇敬を集めました。
また、江戸時代以降に寺子屋などの教育機関ができると、学問の神様としての崇敬が高まり、
寺子屋に道真さんの肖像画が置かれたり、分社が邸内に作られたりしました。
休憩所兼絵馬堂には、百人一首の読み札が大きく掲げられています。
道真さんは菅家という名で「このたびは幣もとりあえず手向山 紅葉の錦紙の随に」という詩が収録されています。
私の小学校、担任教師の意向で小5、6の間に百人一首のカルタ取りが行われていたんですが、
道真さんの詩は末尾の「随(まにま)に」というかわいい響きから覚えられやすく、
この札だけは取れる、取りたいという意味で大人気でした
ちなみに私の得意札はこの詩と小野小町の「花の色は〜」と、僧正遍昭の「天津風〜」でしたね
こちらは本殿裏手の境内社たちです。
写真から見て左から牛社、十二社、老松社、地主社です。
特に一番右の赤い社殿である地主社はこの地に北野さんが建つ前からある神社で、
この地が都の守護を司る四方の中の北西「乾」の地にあり、
大変重要な場所とされていたことから、古今東西の天神地祇を祀ったこの地主社が祀られていました。
そしてこの北野の地の方向、ひいては地主社に天皇が祈りを捧げるとき、
北極星が輝いていたとされ、また太陽、月、星の運行が天皇・国家・国民の平和と安寧を祈る
「三辰信仰」に結びついたとされています。
北野という地名は北極星から来ているのかもしれません
ちなみにこの三辰信仰によく似たものとして、
日神(天照大神)、月神(月読命)、星神(天御中主神)を大日如来、不動明王、虚空蔵菩薩に置き換えた信仰があり、
仙台市宮城野区にある青麻神社を本宮として東日本に分社があります。
本殿左手にも合祀社があり、写真でも御霊社や早鳥社など見慣れない末社があります。
ちなみに御霊社は道真さんの眷属神の御霊、早鳥社は倭建命さまを祀ってるんだそうです。
また、この写真中央の道の先に文子天満宮という末社があるのですが、
この「文子」というのはこの地に住んでいた巫女多治比文子という方のことで、
天慶五年(942年)にこの少女に道真さんからこの場所に自分を祀るよう託宣があり、
北野天満宮より先んじて祀られました。それがこの文子天満宮と言われています。
社殿前にある飛梅です。やはり神紋にもなっている通り、梅の伝承は有名ですね。
まぁこの企画で神社回ってると松の由縁の方が多かったですが・・・
ちなみにこの神社で2月25日に行われる「梅花祭」の神饌には
「梅花御供」という梅の花の咲いた枝の挿さった特殊神饌が上げられるそうです
それでは最後にこちらのHP載せておきます