2021年9月20日月曜日

人は何も決めていない。意識(意思)の話。

散歩をしていると何故か頭が活性化される。

なんだか前向きな思考になるし、色々なアイデアも湧いてくる。

私はこれまでその理由が「ただ単に運動して頭に血が巡っているから」という風に考えていたが、最近の脳科学についての研究をいろいろ漁ってみると、どうやら一概にそれだけではないように思えてきた。

一説によると、意識とは会社の社長のような決定権を担う存在などではなく、社史編纂係のような割と受動的な立場のものであるという。

実は我々は自分の意識(意思)で何も決定しておらず、体の感覚やその他の機能によって決定された行動のログを受けとって、あたかもそれが意思により決定されたかのように認識させられているのだ。

つまり、ここでの意識(意思)とは、会社の誰かが決定した結果を記録し、それを社内報で発信する担当であり、社の活動に対する決定権など何一つ有していないことになる。


例えば、蜂に刺されて手に「痛み」を感じるという認識は、

①まず触覚によって感知された刺激が脳に伝わり、

②そして身体的な反応(血流増加、瞳孔拡大、発汗、表情の歪みなど)を経て

③それが意識に痛みとして記録されるのだという。

つまり①から②の間、我々は痛みを感じていない。意識として認識されるのは必ず体の反応の後なのだ。(言い換えれば、体の反応が無ければ何も感じないということで、いくらお化け屋敷で脅かされても、体の反応が無ければ脳は脅威を感じないということだ)

そして③のあとに蜂を払いのけようとして手を動かすのだが、脳の電気信号をモニターすると不思議な事に意識を司る領域が反応するのは実際に手が動かされたコンマ何秒か後らしい。

我々の手は、意識(意思)で手を動かそうと思う以前に既に動いているのだ。

これは意識(意思)で手を動かそうと思って手が動いたのではなく、意識以外の何らかの指示で手が動かされていることを示している。

一体なんだろう?


手を動かしたという行為が意識に伝えられると、そこで意識はあたかも自分で決定して手を動かしたかのようにコンマ何秒か前の出来事をたった今自分の意思で行ったかのように時間を書き換えて認識して(させて)いる。(過去を今と誤認させる)

パソコンで例えると、人間が決定のマウスボタンを押した時間と、それが記録としてメモリーに書き込まれる時間には僅かなズレが生じるはずだが、パソコン本体は後者の時間を決定時間とみなし、あたかもその決定がその時間に自身の能動的に発した行為として見なしているようなものだ。

人間の意識とは、実際の決定行動とその認識の時間差を埋め(ごまかし)、自分の行動は全て自らの意思決定の結果であるという錯覚をもたらすためのものなのだ。

能動的、主体的とは一体なんなのだろうか?

そしてその主体とは一体誰なのだろうか?


話頭を転じて、良く知られているように熱湯に触れて手を引っ込めるというような「反射的な行動」はどうだろうか?

この場合、意識は無視される。

なので我々は自分の意思で手を引っ込めたという風には認識できない。命にかかわるような出来事に対しては意識への記録という作業のプライオリティは低下するからだ。

意識を介さない行動は反射として認識される。


意識は、陰で決定を下すその他の感覚によって常に占有されている。

パソコンで言えば一時的に作業記憶を留めるメモリーのような物だ。

ボーッとして何もしていない時でさえも、「今私は暇である、どうしよう?」などという事を記録し続けている。

つまり逆説的にいうと、反射的な行動とは、意識の一時的な解放のことである。

そして私は思うのだが、もう一つのケースとして、習慣的あるいは単調な行動をしている場合も意識は解放されているのではないだろうか?


例えばこんな経験をしたことはないだろうか?


会社での仕事を終え、いつものように慣れ親しんだ道を慣れ親しんだ車で帰途に就く。

「あぁ、今日は大変だったな。でもまだ解決していない。明日どうしようか?あ、そういえばビールが無くなっていたな。今日は帰りにちょっとスーパーに寄らないと」

などと考えながら運転していると、いつの間にか家についていた。

道中、意識の中にはほぼ運転のことなど無かったのに、

かつ、スーパーに寄ろうと思っていたのに、

あの曲がり角でウィンカーを右に出して、ハンドルを右に切って右折するなどと、一瞬たりとも思わなかったのに、

きちんと帰宅出来ている。


或いは朝、家の玄関を出て数秒後、

「あれ?ちゃんと鍵閉めたっけ。覚えてないな、念のため確認しとこう」

と玄関まで戻って確認すると、きちんと鍵はかかっている。

かけた覚えはないが、結果としてちゃんとかかっている。


このような誰もが少なからず経験する出来事は、我々が意識で行動を決定しているのではないことを示唆しているような気がする。

そして、そのような場合(意識に行動記録が書かれない)には、意識はその他の感覚からの占有を解かれる。

そして占有を解かれた意識はどうするか?

自由に考えはじめるのである。

誰の束縛も受けていないその時、我々の意識は初めて自由意思を持つことを許される。


無意識の行動をすることで他感覚の束縛から意識を解放する。

これが、散歩をしているときにアイデアが溢れてくる一つの要因なのではないだろうか?

では同じように無意識で行う貧乏ゆすりや頭を掻いている時などでも同様なのか?という疑問に対しては、こう答える事が出来る。

それは脳を流れる血流の量に違いがある、と。

同じように無意識の行動でも、体を動かす散歩と指先足先をちょっと動かすだけの行動とでは脳の環境が異なっている。

血流促進によって脳に新鮮な酸素と栄養が行き渡った状態で、記録係としての役割から解放された意識の活動は最高のパフォーマンスを発揮するのだろうと思う。


人がまだ獲物を追っていた時代、何かを求めて歩く、或いは走るという行為は人の最大の武器であり、生命に関わる重要な行為だった。

なのでその最中は最も知恵が必要であり、最も創造的な行動が必要だった。

散歩で頭が活性化される要因は、このような太古の人類の必要に応じたものではないだろうか?

そう考えると、何かを思索中(例えば作文や数式を解くなど)に無意識に頭を掻いたり髪をいじったり貧乏ゆすりをするのは、脳が意識を解放する為の疑似的な散歩だとも考えられる。

そして、意思決定が意識の所業でないとすれば、思索をするから貧乏ゆすりが始まるのではなく、貧乏ゆすりを始めるから思索に集中できるのだ、とも言える。


ドーパミンの扇動的な行為といい、意識の虚偽的な作為といい、我々はまだまだ自分自身について分かっていない事が多い。

このように考えてみると、デカルトの有名な「我思う、ゆえに我有り」という言葉は、確かに我が意思だとすると我は有るのだが、それは(意思)決定する我=自我ではないということになる。

それでは我とは一体なんだろう?などという事になって、ますます収拾がつかなくなる。

不思議である。


というような無駄な事をつい考えてしまうのも散歩の最中であり、パスカルが「人間は考える葦である」とはよく言ったものだと思う。


それでは!


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