故下竹原啓高 指宿白水館会長の遺稿ブログ

故下竹原啓高 指宿白水館会長の遺稿ブログ

指宿の豪商 濱崎太平次の研究家であり、海外PRにて薩摩のお宝は薩摩伝承館にありと、その名を世界に轟かせた、故下竹原啓高 指宿白水館会長の遺稿を少しずつアップさせて頂いております。運営団体 下竹原啓高会長の想いを次世代へ伝承する会。

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さて、薩摩藩の懐具合に光を当てて見ましょう。

 

明治維新の丁度40年前、1828年頃の薩摩藩は、500万両【現在のお金になおすと、約一兆円】もの借金を抱え、事実上、破綻して居ました。年間17万両の可処分所得しか無い、薩摩藩は、500万両【36年分の所得に相当する】もの借金を抱え、年利5%の金利25万両【500億円】の返済も出来ず、その借金は膨らむ一方でした。

 

この事は、例えば実質可処分所得が10百万円のサラリーマンが、3.6億円もの借金【年利5% : 金利だけで年間18百万円】を抱えて居るに等しい状態で、雪だるま式に借金が拡大する、財政破綻状態にあり、金利の支払いはおろか、薩摩藩が抱えて居た、藩士達への給料の支払いもままならぬ状態でした。

 

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この膨大な借金は、江戸幕府の外様大名虐めの一環として、薩摩藩に木曽川の治水工事【1754年2月~1755年5月 : 約300億の負債】をさせた事、1200人もの大名行列【最大時は1800名】で参勤交代させた事で、莫大な旅費を浪費させた事、更に、蘭璧 : 島津重豪【しげひで】が、自分の娘 : 茂姫を第11代将軍 徳川家斉の正室に嫁がせた、将軍の岳父としての面子も有り、大した収入の裏付けがないまま、膨大な交際費を使い、加えて、学問好きな重豪が、天文館・造士館・医学館・開成所といった研究所や、学校を次々と設立した事などにより、薩摩藩は膨大な借金を抱えることになりました。

 

しかし、こういった様々な研究所・学校によって、その後の産業革命や、明治維新で大活躍する人材が育成される事になりました。

天文館の計算に基付く、うるう年の計算が、江戸幕府の研究所が計算した物よりも、遥かに精度が高かったと言われています。

 

重豪は、自分の息子たちを後継者のいない大名家に養子に出し、血縁関係を強化しました。

あまりにも、浪費癖が酷かった、父親 島津重豪に意見し、財政改革を断行しようとした重豪の息子で、重豪の次の藩主だった斉信は、重豪の逆鱗に触れ、更迭され、斉信の側近たちは切腹させられました。

 

 


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