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ハメッド・アブデル=サマードが根源的なイスラム批判をする

Hamed Abdel-Samad | Islam und Islamkritik (NZZ Standpunkte 2017)

ハメッド・アブデル=サマード
NZZ紙( Neue Züricher Zeitung 新チューリッヒ新聞)とのインタビュー
題名:イスラムを巡って

Hamed Abdel-Samad interview mit NZZ
Erik Gujar エリック・ギュイヤール (NZZ)
Katja Gentinetta カティヤ・ゲンティネッタ (NZZ)

経歴
ドイツに帰化したエジプト人。有名なイスラム批判者。1972年カイロ郊外の生れ。1995年ドイツに初入国。エアフルト、ブラウンシュバイク、ミュンヘン大学に勤務。著書『イスラムファシズム』
イスラム批判の罪状により宗教法廷のファトゥー(判決書)で死刑が宣告されており、常時私服警官2名の保護下にある。
なおNZZはドイツ語圏スイスの最有力紙です。

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ハメッド・アブデル=サマードのNZZとのインタビュー

NZZ:お父様がイスラム教のイマーム(導師)であり、自分がイスラム批判者であるという、この転換の切っ掛けは何だったのですか?

AS:幾つもモーメントが有りました。それに自分自身の性格もあります。攻撃されると反撃したくなる喧嘩っ早さですね。子供の頃からこのコーランが本当に神の言葉だという証拠が有るのかとか、何故神は難しくて守れないような規則を人間に押しつけるのかとかを疑問に思っていました。慈悲深い神がなぜ地獄などという恐ろしい世界を造ったのか。
思春期になるとこれに加えて楽器の演奏やセックスによる快楽の充足が何故いけないのかなども疑問に思われました。一番の問題はこうした事柄について公の議論が学校を初めどこでも行われず、規則は神の意志だから守れという決め付けしか教えられていないことです。

カイロ大学生の頃イスラム同胞団青年部主催のサマーキャンプに参加したことがあります。荒れた砂地での行軍でした。へとへとになり渇きに耐えての行軍でした。同胞団の上位者がそこへ、みずみずしいオレンジを持って現れます。ジュースが飲めると期待していた我々は裏切られました。オレンジには穴が開けられ握り潰されて果汁は砂漠に吸い込まれていったのです。自然に反した思考であり行動です。人間を外部から操作しようとする行動です。

人間の中には規則の押しつけを嫌い自由に憧れる性格の者がいて、少数派ですが、私もこの少数派に属しているようです。私の祖母は日に5回のお祈りを欠かさない信心深い女性ですが、これは祖母自身の決めたことであり、誰に押し付けられたお祈りでもありません。自分が自由に決めた訳ですからこういうのは良いのです。
宗教は本来個人のものであるべきなのにイスラムは夢とか恋愛とか飲み物とかいった個人領域に踏み込みすぎる傾向があります。

NZZ:イスラムには宗教としての面と、法や社会組織としての面の二面性が有るわけですね。

AS:神から直接人に下された最後の言葉という建前ですが、実際にはマホメッドがその場その場で決定した場当たり的行動規範書です。
メッカ時代は他人の情けにすがって生きなければならない時期でしたからアラーの神は慈愛深い存在として描かれています。メジナ時代になると教祖自身が戦闘指揮官、政治家、裁判官、奴隷商人など一人何役へと変わってきます。それに応じて神の性格も無慈悲峻厳なものになります。ユダヤ人200名の処刑を命じたのはアラーの神自身でした。
信者と不信者に対する扱いがはっきり異なるようになります。不信者に対する凶暴性からモハメッドの暴力に対する見解が読み取れます。しかし現代ヨーロッパのイスラム融和派の人々はコーランの優しい部分を引き合いに出してイスラムが常に暴力的ではないと擁護するのです。そしてイスラムそれ自体はテロと無関係だと主張します。しかしコーランに書いてあることを文字通りに実行するとテロリストにならざるを得ません。

NZZ:イスラム原理主義についてどうお考えですか?

AS:イスラム原理主義 Islamismus が20世紀後半に生れた欧州植民地主義に対抗する思想だという考えは間違っています。イスラム原理主義は実はイスラム誕生の古い昔からある考えの現代焼き直し版に過ぎません。イスラムは神が人間に与えた最上のもので、これを実行する信者は他の人間に抜きん出ているという強烈な優越感がこの思想の根底にあります。
過激派がドイツ社会に残る差別や社会不適応の結果生まれたという議論も無理があります。ロシア人移民やベトナム移民も同じ状況に置かれていますが不適応は起こしていません。

NZZ:ヨーロッパの人権思想と衝突しないドイツ(ヨーロッパ)イスラムの可能性についてはどうですか?

AS:過去のイスラム改革運動は全て失敗しています。改革というのは自己に足りない分を他者から学び受け入れる訳ですが、イスラムの建前は神直接の教えですから不足しているわけがない。したがって原理的にイスラム改革は不可能不必要です。マルチン・ルターはイスラムには生れません。改革者は神が不十分であると主張するのですから、涜神の罪を犯すことになり必ず悲惨な最後を遂げることになります。
当初私はシャリアの中の暴力的な箇所が無効であるという宣言をすれば済むだろうと考えていましたが、そんな簡単なものではありませんでした。
イスラムでは改宗は罪です。アラーが世界を造ったのは人類全てをイスラム化し、アラーを讃えさせるためですから、イスラムを捨てて無神論者になったり他の宗教に改宗したりすることは最大の反逆行為とされ、原則上は死刑にあたいします。

NZZ:改革者に死刑宣告を出すようなこのイスラムというものは宗教なのですか?法律なのですか?

AS:宗教の中に暴力も含まれます。イスラムでは法や生活規範でもあるシャリアが最も重視されます。イスラム圏は西のモロッコから東のインドネシアまで広大ですが社会の匂いというか雰囲気に共通のものがあります。共通化させているもの、それが法・規範集であるシャリアです。
ドイツに住んでいるイスラムはドイツの法とイスラム法(シャリア)の2つの法に従うわけですが、若年層では50%以上がシャリアが優先されると考えています。

NZZ:原理主義が若いイスラム移民を引きつけるのは何故でしょう?

AS:自分の行動がウンマ(イスラム共同体)建設に役立っているという高揚感、使命感が得られることでしょうか。移民2世3世にとっては自分のアイデンティティーになります。これはイスラムに改宗する若いドイツ人の場合にも言えることです。今の世の中高揚感や使命感は日常生活では得られませんから。
ムスリム青年層の心は無力感と全能感の間を揺れ動いています。学校の宗教の時間が役に立たないのもこれのせいで、ムスリムは自分の宗教が批判されることに我慢ができません。他の考えを受け入れられないのです。イスラム批判をするとナチ扱いされてしまう。信教の自由は全てを許容するものではない。シャリアは民主主義とは無関係です。自由に物が言える環境を取り戻すことが最良の対抗策になります。
マホメッドを批判するとスキャンダル、キリスト批判は何でもあり、これはおかしい。思考禁止状態です。いつでもどこでも何でも公然と物が言える自由な社会を維持すること、これが過激イスラムへの最良の対抗手段だと思います。

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