●徳川忠臣伝4 榊原康政 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

岡崎城から北へ。

徳川家の菩提寺・大樹寺を経て、豊田市へ。

豊田市上郷の上野城址

城址といっても小高い丘の居館・城砦跡、ここに榊原康政生誕之地の碑が立っている。

 

「松本から来られたんですか」

「あ、はい」

「城址の説明板を撮られていたので…」

と、すぐ近くの公民館の方が話しかけてきた。

榊原康政の誕生地碑を撮りにきたんです」

「そうですか、嬉しいです。碑の設置や榊原氏関連の史跡保存など、地元として気をつかってきたものですから。

康政さんの誕生碑はこれだけじゃないんですよ。近くの天道院というお寺さんの境内にも古いものがあります」

「そうなんですか、よかった、教えてください」

 

さすが、この地で康政さんは出世頭として称えられていたのか。

榊原康政、といえば。

私はかの姉川合戦で、側面の不意打ちにて朝倉勢に突っ込み、戦況を好転させ勝利に導いた戦いという逸話が印象深い。

また小牧長久手合戦。

「本家織田家を滅ぼしたは秀吉!」との、秀吉を侮辱非難する張り紙を戦場一帯のそこここに張り付け、秀吉を憤慨させたという逸話が小気味よい。

 

激怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したとか。

榊原家は、徳川陪臣の身分だったが、康政の聡明さが家康に見込まれ、小姓に取り立てられ、その後ぐんぐん出世した。

姉川、三方ヶ原、小牧長久手、長篠、伊賀越えなど、常に家康の傍らにいて支えた。

 

家康の関東国替えでは、上州・館林城十万石を拝領、関東総奉行に任ぜられている。

 

館林市内の善導寺は、榊原家の菩提寺で、ここに康政は眠っている。

 

宝篋印塔の康政の墓塔が大きく威圧されそう。

康政以降、榊原家は全国の白河、姫路、村上、高田藩と移封されたが、

藩内にしばしば不祥事があっても、先祖・康政の大功に免じて、多くは大目に見られ、改易などはなかったという。

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