歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


※この記事は、平成29年9月21日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は惰性で続いていた平成28年の大人気NHK大河『真田丸(さなだまる)』の感想ですが、ついに最終回です!
だらだらとやっているうちにいつの間にか9月となり、今年の大河ドラマ『おんな城主直虎』も後半に入ってしまいました 笑
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


『真田丸』についての他の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『真田丸』第49回―伊達政宗の天下取り

関連記事:
『真田丸』第48回―有楽斎を慮る

関連記事:
『真田丸』第46回―良い家康、悪い家康


というわけであらすじ
大坂夏の陣(おおさかなつのじん)で対峙する徳川(とくがわ)家と豊臣(とよとみ)家。緒戦は有利に展開する豊臣方だが、大野治長(今井朋彦)が豊臣家の馬印(うまじるし)を城に持ち帰ったことで雑兵(ぞうひょう)が「秀頼(中川大志)が退却した」と勘違い、一気に崩れ立つ。これで戦の大勢が決定し、豊臣家は敗北する。
という感じです。




もう感想はいいや、ということで、今回は最後のナレーションで言及された松代真田藩(まつしろ・さなだ・はん)が輩出した偉人佐久間象山について書きましょう。

どういう人物か簡単にいうと、幕末に江戸で「五月塾(さつきじゅく)」という塾を開き、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などの師となった人物で、故郷の松代藩のほか幕政(ばくせい)にも影響を与えた人物です。

この象山の出自ははっきりしないのですが、面白いのが尾張佐久間(おわり・さくま)氏の末裔であるという説。
これは象山自身が唱えていた説のようです。

尾張佐久間氏といえば佐久間盛重、盛次、信盛、盛政、安政を初め、柴田勝家の養子勝政などを輩出した一族ですね。もちろん織田(おだ)家臣です。

このうち盛次の四男勝之は信濃長沼(しなの・ながぬま)藩を治めていましたが、改易となり、その家臣が勝之の兄安政の婿養子となって、紆余曲折を経て象山へとつながるわけです。

婿養子が続く血筋なので胡散臭さ満載ですが、わが家も有名武将の家も含めて武家の血筋なんてみんな胡散臭いものです 笑

今回の大河ドラマは時代的に豊臣家が描かれる時間が長かったので織田家の佐久間氏の様子は描かれませんでしたが、幕末にいたっても真田家と織田家の縁は続くんですね。(参考:Wikipedia

面白いものです。


↓佐久間右衛門尉信盛が登場する合戦はこちらです。

関連記事:
雑賀・根来合戦から学ぶ―つまらない職場を楽しくする方法

関連記事:
長篠の合戦―プライドよりも信頼関係を重視せよ

佐久間大学允盛重と右衛門尉についての関連記事:
『麒麟がくる』第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽

今回登場した人物のフルネーム
・大野 修理大夫〔通称不明〕 (氏不明) 朝臣? 治長
おおの しゅりのだいぶ〔通称不明〕 (氏不明) あそん? はるなが
・羽柴 右大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀頼
はしば うだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ の あそん ひでより
(実際は文献上で「羽柴」と記載されたものは見つかっていないそうです)
・佐久間 修理 平 国忠〔象山〕
さくま しゅり たいら の くにただ〔しょうざん〕
・勝 安房守〔通称は麟太郎〕 物部 朝臣 義邦〔のち安芳〕〔海舟〕
かつ あわのかみ〔通称はりんたろう〕 もののべ の あそん よしくに〔のちやすよし〕〔かいしゅう〕 
・吉田 寅次郎 平? 矩方〔松陰〕
よしだ とらじろう たいら? の のりかた〔しょういん〕
・坂本 龍馬 紀 直陰〔のち直柔〕
さかもと りょうま き の なおかげ〔のちなおなり〕
・佐久間 大学允 平 朝臣 盛重
さくま だいがくのじょう たいら の あそん もりしげ
・佐久間 久六郎 平 盛次
さくま きゅうろくろう たいら の もりつぐ
・佐久間 玄蕃允 平 朝臣 盛政
さくま げんばのじょう たいら の あそん もりまさ
・佐久間〔保田〕 備前守〔通称は久六郎〕 平 朝臣 安政
さくま〔やすだ〕 びぜんのかみ〔通称はきゅうろくろう〕 たいら の あそん やすまさ
・柴田 三左衛門 源 勝政
しばた さんざえもん みなもと の かつまさ
・佐久間 大膳亮〔通称は源六郎〕 平 朝臣 勝之
さくま だいぜんのすけ〔通称はげんろくろう〕 たいら の あそん かつゆき

参考
架空と現実の雑記帳
☆お気楽♪電影生活☆
渡る世間は愚痴ばかり

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※この記事は、平成30年4月1日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は去年の大河ドラマ『おんな城主直虎』の感想シリーズということで、第41~45回までの感想を書きます。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

まずはあらすじ。

草履番(ぞうりばん)として徳川(とくがわ)家中で働く井伊万千代(菅田将暉)と小野万福(井之脇海)だったが、後輩を育てることを条件に小姓(こしょう)への取立ての約束を取り付ける。かくしてやってきた後輩は中年のノブ(六角精児)という男であり、育てにくさに怒りを爆発させる万千代だったが、ノブは実は以前徳川家中にいた本多正信であると判明。正信の知恵により武田勝頼(奥野瑛太)の侵攻に備え、井伊谷(いいのや)の材木を提供する案を徳川家康(阿部サダヲ)に話す万千代だったが、おとわ(柴崎コウ)の分別により、その手柄は近藤康用(橋本じゅん)のものとなってしまう。

長篠(ながしの)の戦いで留守居(るすい)を命じられた万千代・万福は酒井小五郎(タモト清嵐)の嫌がらせにより武器庫の番を命じられるが、見事に武具を磨きあげ、凱旋(がいせん)後の家康に賞賛される。長篠の戦場では織田(おだ)・徳川連合軍が見事に勝利し、手際よく柵を作った手柄で元井伊(いい)家臣の中野直之(矢本悠馬)と奥山六左衛門(田中美央)が織田信長(市川海老蔵)から茶碗を賜る。万千代は他の小姓からの妨害工作をなんとか打開しようと画策していた。

武具(ぶぐ)の手入れの手柄で小姓に上がった万千代。他の小姓の妨害も潜り抜け、岡崎(おかざき)城への遣いをすることになる。一方井伊谷では、長篠の戦いで使った材木の伐採による出水(でみず)が発生し、おとわの知恵により、信長より拝領した茶碗を売って新しく木を植えることになった。

万千代が小姓として務め始めてしばらく経ったころ、ついに万千代と万福は初陣(ういじん)を許され、駿河(するが)田中(たなか)城攻めの陣へと随行することを許された。しかし特に何もすることがなく自身の今後を危惧する万千代であったが、武田(たけだ)の間者(かんじゃ)から家康を守り、捕縛するという功を立て、1万石の領地をもらうこととなる。一方井伊谷ではおとわの母祐椿(ゆうちん)(財前直見)が最期のときを迎えようとしていた。祐椿の計らいで対話することになったおとわと万千代。しかし、二人の考えには大きな隔たりがあった。

家康を襲った間者が嫡子(ちゃくし)信康(平埜生成)の家臣であることが判明し、罰せられる岡崎衆。一方で家康の元には三男長丸(ながまる)が誕生し、嫉妬と焦りに駆られた瀬名(菜々緒)は信康に側室をもつことを勧める。しかし、その話が信康の正室(せいしつ)五徳(ごとく)姫を通して信長の耳に入り、信康を死罪にせよという命令が下ってしまう。

瀬名についてもっと知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
徳川家康の生涯を貫く思想―山岡荘八『徳川家康』第4巻




第41回は「この玄関の片隅で」。
下記「昼寝の時間」さんもおっしゃっていますが、菅田将暉氏の万千代登場によってまた新しい大河ドラマが始まったような雰囲気となり、新鮮で野心的で非常に面白くなってきました。

そして、家康の側にいた鷹匠(たかじょう)、つまり万千代・万福の後任の草履番が本多正信ということが発覚し、その出会いというか、流れは非常に自然なように感じて素晴らしかったのですが、気になるのは「ノブ」という呼称。


関連記事:
長篠の合戦―プライドよりも信頼関係を重視せよ

関連記事:
第一次高天神城の合戦-場を俯瞰する


以前書いたように、明治時代に姓名はひとつずつ、と決められる以前は基本的に「正信」のような実名(じつみょう=諱(いみな)、忌み名)を普段使いする習慣はなかったので、「正信」の「信」を切り取って通称にすることはまずなかったと考えられます(署名することはありました)。

参考記事:
武家や公家の名前について

ですので、「ノブ」ではなく仮名(けみょう=通称)の「弥八郎」の方が自然なのですが、「ノブ」で視聴者にヒントを出す狙いがあったのかもしれません。
ちなみに、徳川家の「鷹匠上がりの『ノブ』」で正信だ!」と気づくほどの歴史マニアは「弥八郎」でも十分に「正信だ!」と気づきます 笑

それと、大久保忠世(渡辺哲)が登場しましたが、彼は当時あんなに爺さんではありません。
天文元年(1532年)生まれですから、信長と同じくらいで当時は満43歳くらいです。
ちょっと残念。


大久保忠世についての関連記事:
第二次高天神城の合戦-勝者の戦法を徹底的にトレースせよ

同関連記事:
三方ヶ原の合戦―最強の能力「豹変力」

同関連記事:
一言坂の戦い合戦に学ぶ―がむしゃらになれ


第42回は「長篠に立てる柵」。
こちらも面白く拝見させていただきました。
万千代が酒井小五郎に意地悪される場面も、程よく手柄を横取りされそうになり、しかし、家康はきちんと万千代の仕業と洞察してスカッとさせるあたりが素晴らしいですね。

やきもきさせる展開を作ったら、きちんとスカッとさせてくれないと面白く思えません。


しかしひとつだけ気になったのが、信長が来ただけで岡崎城の本丸大広間が一瞬で南蛮(なんばん)化したこと。
漫画か!いや、欧米か!笑
リアリティがなさ過ぎてちょっと興ざめしました。

あと、酒井小五郎は忠次ではなく忠次の嫡子の家次ですね。

第43回は「恩賞の彼方に」。
ということで、面白いのであんまり書くことがないです 笑
後に武勇も武略も政治も外交もこなす井伊直政の片鱗がよく描かれて楽しいですね。
やはり、野心的な主人公(主人公ではないけど)がいた方が物語は面白い。

それと、後の展開がわかっているからなのかもしれませんが、築山・信康事件(つきやま・のぶやすじけん)の伏線が描かれているようで、そこもよかったと思います。


松平信康の登場する記事:
苦難の時代の幕開け―山岡荘八『徳川家康』第5巻

同上:
『麒麟がくる』第21回―松平蔵人の親族

同上:
石川数正は裏切り者ではない


第44回は「井伊谷のばら」。
万千代の出世劇がスカッとします。
武田の間者を見抜いたという演出もよかったですし、信康事件への伏線としてもよかった。
この辺は「空白」部分ですので、大いにフィクションで固めてもらっていいと思うのですが、うまくはまった展開だと思います。


ただ、このころ万千代がもらった領地は井伊谷だというのが通説です。
近藤康用は井伊谷を治めていません。
やはり史実を捻じ曲げるのはいただけない。
大河ドラマを見てそれが史実だと思い込む人が多いのですから、製作陣はその辺は責任重大ですし、歴史を捻じ曲げてしまったら訂正して謝るべき。

フィクションは空白部分でやってください。


ちなみに田中城は遠江ではなく駿河ですからね。
(劇中ではちゃんと駿河と言われていたような気がします)

第45回は「魔王のいけにえ」。
というわけでついに信康事件が幕を開けるわけですが、今回の止むに止まれぬ展開というのは遣る瀬無いものではありますが、ドラマとしては無難でよかったと思います。
家康は信康を憎んでいなかったけど、信長の徳川家削減のための命令で仕方なく信康を切腹させた、というのは新しい説でも何でもないのですが、下手に陳腐な創作されるならこのように通説をしっかり踏んでもらったほうが面白い。

しかし残念だったのが、家康の母於大(おだい)の方(栗原小巻)が鬼母のように描かれてしまったこと。
松平(まつだいら)家から離縁され、久松(ひさまつ)家に嫁いだあとも自分の血を薄めて写経し、家康(当時の竹千代(たけちよ))の無事を祈ったという逸話も伝わる人で、仏のような人というイメージがあったので残念です。
(劇中では演技の裏側に遣る瀬無い思いがにじんでいたとは思いますが)

もうひとつ残念だったのが、於義(おぎ)丸(のちの結城秀康)の存在がなかったことにされていること。
気賀(きが)の中村与太夫(=中村正吉。本田博太郎)を描いておきながら、於義丸を出さないのはちょっと意味がわからない。
見ている方としては気賀の中村が出てきたのだから当然於義丸のエピソードも描かれるのかと思ったので肩透かしだった。

というわけで、いろいろ不満はありますが前よりはよっぽど面白くなってきました。
あと5回で終わりなので感想がんばります 笑

今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・本多 弥八郎 藤原 正信
ほんだ やはちろう ふじわら の まさのぶ
・武田 大膳大夫〔通称は四郎〕 源 朝臣 勝頼
たけだ だいぜんのだいぶ〔通称はしろう〕 みなもと の あそん かつより
・徳川 三河守〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
とくがわ みかわのかみ〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・近藤 石見守〔通称は平右衛門〕 藤原 朝臣 康用〔信用〕
こんどう いわみのかみ〔通称は平右衛門〕 ふじわら の あそん やすもち〔のぶもち〕
・酒井 小五郎 源 家次
さかい こごろう みなもと の いえつぐ
・中野 越後守〔通称不明〕 藤原 朝臣 直之
なかの えちごのかみ〔通称不明〕 ふじわら の あそん なおゆき
・奥山 六左衛門 藤原 朝忠
おくやま ろくざえもん ふじわら の ともただ
・織田 参議〔通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ さんぎ〔通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・徳川〔松平〕 次郎三郎 源 信康
とくがわ〔まつだいら〕 じろうさぶろう みなもと の のぶやす
・大久保 新十郎〔七郎右衛門、官職なし〕 藤原 忠世
おおくぼ しんじゅうろう〔しちろううえもん、官職なし〕 ふじわら の ただよ
・結城〔羽柴、松平〕 三河守〔通称なし〕 藤原〔豊臣、源〕 朝臣 秀康
ゆうき〔はしば、まつだいら〕 みかわのかみ〔通称なし〕 ふじわら〔とよとみ、みなもと〕 あそん ひでやす
・中村 (官職・通称不明) 源 正吉
なかむら (官職・通称不明) みなもと の まさよし

※画像は内容とは関係ありません。

参考
第41回
昼寝の時間
ドラマ@見とり八段
莓ワールド!
第42回
ドラマ@見とり八段
みはいる・BのB
坂の上のサインボード
第43回
莓ワールド!
昼寝の時間
みはいる・BのB
第44回
昼寝の時間
莓ワールド!
ドラマ@見とり八段
第45回
ドラマ@見とり八段
真田のよもやま話
みはいる・BのB

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※こちらの記事は、令和2年5月16日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は今年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』第13~14回)に関しての楽しみ方を解説したいと思います。

大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【『麒麟がくる』の楽しみ方】
・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―美濃の情勢/織田家の状況
・第5~6回―当時の京都の情勢・第7~8回―尾張国内の政治情勢/当時の三河情勢
・第9~10回―土岐一族とは/織田家の血縁関係・第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽


まずはあらすじ。



第13~14回のあらすじ


土岐美濃守頼芸(尾美としのり)からの暗殺未遂の報復として、斎藤山城守利政(本木雅弘)は頼芸のかわいがっていた鷹をすべて惨殺した。

恐怖を感じた頼芸は美濃(みの)を去り、近江(おうみ)へと向かった。

これにより土岐(とき)氏対斎藤(さいとう)氏の戦を避けることに成功した山城守だったが、その一連の行動は長男・新九郎高政(伊藤英明)の父への反感を育てることとなってしまった。

一方で、山城守は愛娘・帰蝶(きちょう)(川口春奈)の婿である織田三郎信長(染谷将太)の人物に興味をもち、面会を申し入れた。

突然の面会打診に戸惑う信長であったが、帰蝶の知恵を宿した眼が光る。

信長との面会のため、尾張(おわり)・聖徳寺(しょうとくじ)を訪れた斎藤山城守。

寺での面会の前に、小屋に隠れて信長の様子を観察し、取るに足らないやつだと判断したら寺を囲んで殺す、と明智十兵衛(長谷川博己)に告げた。

果たして現れた信長は、300はいるであろう大鉄砲(てっぽう)隊を引き連れ、常識はずれな派手な格好をしていた。

度肝を抜かれた山城守は寺へ向かい、信長を待つが一向に現れない。

しびれを切らして帰ろうと思った矢先、信長は現れた。

先ほどとは打って変わって、きれいな正装で、近習(きんじゅう)もつれずたった一人で現れた。

その信長のふるまいと、寺内でのやり取りに心を打たれた山城守は信長をいたく気に入った。

稲葉山(いなばやま)城に戻った山城守は、織田(おだ)家が今川(いまがわ)家に攻められているという情報に接する。

すぐに援軍を送ろうとするが、長男・高政らが反対する。

山城守は反対を押し切って織田家への加勢を派兵する。

一方、側室であり高政の母である深芳野(みよしの)(南果歩)が突然の自殺を遂げた。

悲嘆にくれる山城守は、高政に責められ、ついに高政に家督(かとく)を譲ることを承諾するのであった。

ということで、




第13回「帰蝶のはかりごと」の感想


面白かったです!

他の方も書いていらっしゃいますが、山城守と(新九郎)高政の奥でのやり取りは緊張感がすさまじく、「これぞ大河の醍醐味!」という印象です。

「不穏な空気」についての参考記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『麒麟がくる』第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽

大河ドラマは歴史を扱っているだけに、描くべき事象が多すぎて焦点がぼやけることが多いです。

しかし今作は、ある程度いろいろな事象を描いておきながら(新九郎)高政の父への反感が増していく様子を丁寧に描いていて、素晴らしいと思いました!

あとは、これは下記「シネマの万華鏡」さんがすでにおっしゃっていますが、やはり帰蝶が伊呂波太夫(いろはだゆう)(尾野真千子)を使って根来衆(ねごろしゅう)を集めるというのちょっと無理がある気はしました笑

しかし、非常に面白い設定なので、僕は全然ありだと思いました!

あとはどうでもよいのですが、尾野真千子さん好きです笑



第13回の楽しみ方―戦国最強の傭兵団―


今回は帰蝶の話に登場した「根来衆」について説明しようと思います。


関連記事:
雑賀・根来合戦から学ぶ―つまらない職場を楽しくする方法

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石山合戦から学ぶ―「理念」のもつパワー

関連記事:
大航海時代に日本が侵略されなかった理由(5)―日本とヨーロッパの戦力差(後編)


物語中に突然登場して、「鉄砲隊」みたいな話をしていたので、どうやら鉄砲に関係した人たちらしいということはわかったと思います。

しかし詳細説明がなかったので、この辺を補足させていただこうと思います。
(物語の進行上、説明してられなかったのだと思います)

そもそも「根来衆」とは何者か。

「根来衆」とは、紀州(きしゅう)根来寺(ねごろじ)(和歌山県岩出市(わかやまけん・いわでし))を拠点とした傭兵(ようへい)集団です。

↓根来寺と那古野城の位置関係
※クリックで拡大されます。



日本の戦国(せんごく)時代にも、ヨーロッパみたいな傭兵団がいたんだ、と思った方もいるかもしれませんが、いました。

※ただし、『ベルセルク』に登場する「鷹の団」の初期のような旅する傭兵団ではなく、あくまで紀州根来寺を拠点としていました。


関連記事:
ベルセルク1~4巻

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ベルセルク5~8巻

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ベルセルク9~12巻

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ベルセルク13~16巻


もともと彼らは根来寺というお寺を守る僧兵(そうへい)(=武装した坊さん)集団でした。

では、なぜお寺の僧が武装する必要があったのか?

紀州はもともと管領(かんれい)家である畠山(はたけやま)家が守護(しゅご)に任命されていました。

政治情勢が比較的安定していたころは、おそらく守護畠山家による治安維持機能が働いていたと思うので、自衛する必要は大きくはなかったと思われます。

しかし、応仁(おうにん)元年(1467年)の応仁の乱のころから戦国の嵐が吹き始め、紀州根来も巻き込まれていきました。

守護の畠山家は守護の仕事そっちのけで、家督争いにご執心。

守護による治安維持が行われないんだから、悪い人たちはやりたい放題です。

そんな中、根来寺は自分たちの身を守るために武装し始めたようです。
(近くの雑賀衆(さいかしゅう)も同様です)

彼らは次第に大名(だいみょう)クラスの勢力をもつようになり、天文(てんぶん)12年(1543年)、革命的な出来事が起こります。

そう、九州大隅(きゅうしゅう・おおすみ)種子島(たねがしま)に鉄砲が伝来したのです。

どこから聞きつけたのか、根来衆の津田監物(算長)は種子島に渡り、2丁あった内の1丁を購入し、根来に持ち帰ります。
※津田監物がもともと種子島の住人だったという説もあります。

監物は根来にいた刀鍛冶(かたなかじ)・芝辻清右衛門に鉄砲をわたし、生産を依頼。

天文14年(1545年)に第1号が完成したのでした。
※伝来してたった2年で生産するというのは世界的に見ても驚異的なスピードと言われています。

参考記事:
大航海時代に日本が侵略されなかった理由(5)―日本とヨーロッパの戦力差(後編)


こうして根来衆は独自に鉄砲を大量生産することに成功。
※清右衛門はのち堺(さかい)に移り、堺が鉄砲の大産地となる端緒となります。

噂を聞きつけた大名から傭兵として依頼がかかり、雑賀衆と並んで戦国最強の傭兵団へと成長していきました。
※このころは具体的にどの合戦に参加していたのか不明

そして、のちに織田三郎にも協力していくことになります。




第14回「聖徳寺の会見」の感想


「聖徳寺の会見」、素晴らしかったです!
言葉少ないやり取りで、言葉の裏に多くの意味・気持ちをにじませての会話、非常に日本人らしく心に染み入りました!

ただ、前田利家(入江甚儀※1)、佐々成政(菅裕輔※2)が登場しましたが、やはり(いみな)と通称の問題で言いたいことがありますね。しつこいようですが 笑
※1入江甚儀:来ましたね!僕は『軍師官兵衛』のころから彼を見込んでいます!
※2菅裕輔:あの「ガースー」の息子さんとのことです!


なぜ利家を「又左衛門」(略称「又左(またざ)」)という通称で呼ばせない??

柴田「権六」と同じで、せっかく親しみやすい通称があるのにもったいない…

成政の通称「内蔵助」はあまり一般的ではありませんが、やはり通称の方がいいです。

何度も言いますが、「諱」は日常生活ではほとんど使いません。

まぁそれを措いても面白かったのでよしとしましょう笑

ついに聖徳寺の会見が終わり、村木砦(むらきとりで)の戦いも終わって山城守が家督を譲りましたね!

先が楽しみです!




第14回の楽しみ方―村木砦の戦い―


上記感想ではあまり触れませんでしたが、今回は「村木砦の戦い」について説明したいと思います。

戦が起こったのは尾張・三河(みかわ)国境のギリギリ尾張側の村木砦というところなのですが、大河を見ているだけだと織田家がどれだけピンチなのかわかりづらかったと思います。

↓まずは下の地図をご覧ください。(村木砦の戦い以前の周辺勢力図)
※クリックで拡大されます。



第11回で三郎信長は「緒川(おがわ)城を今川にくれてやる」、みたいなことを言っていました。

緒川城は水野(みずの)家の城で、山岡荘八氏の小説『徳川家康』の記事でも書いていますが、当主の水野下野守(信元)は親織田派です。

参考記事:
これぞ徳川家の柱石・三河武士の死にざまだ!!(山岡荘八『徳川家康』第2巻)

ですから緒川城(と、水野家の所領の刈屋(かりや)城)はもともとは織田方だったのですが、第11回の和議で今川方に売られてしまいます。

参考記事:
『麒麟がくる』第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽

しかし下野守の心は織田方にあったようで、織田弾正忠〔備後守〕信秀の死後、また織田方に鞍替え(くらがえ)しています。

それと前後して、今川氏は調略によって織田家臣の山口教継と彼の拠る鳴海(なるみ)城を味方につけることに成功しています。

これによって織田方は熱田(あつた)の目と鼻の先に敵勢力を臨む形となってしまい、窮地に陥りました。

緒川城・刈屋城の水野家がいなければ、すぐにでも末盛(すえもり)城辺りを攻められていたかもしれませんが、水野家の鞍替えによって九死に一生を得ます。

しかし今川家は戦略上重要な緒川城を攻めるために、緒川城のすぐ北に「村木砦」を建設します。

今回の「村木砦の戦い」は言わずもがな、この村木砦から今川勢を追い出すための戦いです。

三郎改め上総介信長は今川勢の背後をつくために、松平(まつだいら)家の一族である大給(おぎゅう)松平家(@大給城)を味方につけます。

しかし、知多(ちた)半島の付け根に位置する寺本(てらもと)城の裏切りに遭います。

それによって那古野(なごや)城と緒川城との連絡(海路)を断たれたため、熱田を発し海に出た上総介は、寺本城を避けて遠回りして緒川城に上陸し、村木砦の陥落に成功しました。

↓村木砦の合戦時の勢力図
※クリックで拡大されます。



ちなみに、斎藤山城守からの援軍は上掲地図上の「志賀(しが)・田幡(たばた)の陣」と書かれた位置に滞陣しました。

地図で見るとわかりやすいと思うのですが、見事に清須(きよす)城を牽制して、那古野城を守る位置にいますね。

こんな風に、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!

最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・土岐 美濃守〔通称不明。左京大夫〕 源 朝臣 頼芸
とき みののかみ〔通称不明。さきょうのだいぶ〕 みなもと の あそん よりのり〔よりあき〕
・斎藤 山城守〔通称は新九郎〕 藤原 朝臣 利政〔道三。他多数〕
さいとう やましろのかみ〔通称はしんくろう〕 ふじわら の あそん としまさ〔どうさん。他多数〕
・斎藤 新九郎 藤原 高政〔義龍〕
さいとう しんくろう ふじわら の たかまさ〔よしたつ〕
・織田 上総介〔通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 信長
おだ かずさのすけ〔通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の のぶなが
・明智 十兵衛 源 光秀
あけち じゅうべえ みなもと の みつひで
・津田 監物 橘 算長
つだ けんもつ たちばな の かずなが
・芝辻 清右衛門 (氏不明) (諱不明)
しばつじ せいうえもん (氏不明) (諱不明)
・前田 又左衛門 菅原 利家
まえだ またざえもん すがわらの としいえ
・佐々 内蔵助 源 成政
さっさ くらのすけ みなもとの なりまさ
・水野 下野守(通称は藤四郎、藤七郎) 源 朝臣 信元
みずの しもつけのかみ(通称はとうしろう、とうしちろう) みなもとの あそん のぶもと
・山口 左馬助(通称不明) 多々良 朝臣 教継
やまぐち さまのすけ(通称不明) たたらの あそん のりつぐ
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
第13回
2020、映像メディアは死んだ ~ テレビドラマ・映画・Web動画をめぐって
シネマの万華鏡
散文的で抒情的な、わたくしの意見
第14回
ゆーくんはどこ?
ぴえーるのテレビブログ
今日は何の日?徒然日記

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・○○(武将、合戦等)について語ってほしい
・大河ドラマ(『軍師官兵衛』以降)について語ってほしい
・今、○○について悩んでいるが、どの武将を参考にしたらいいか

…等々

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※こちらの記事は、令和3年1月11日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第37弾として、「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】
第1回 今山の合戦第5回 長良川の合戦
第6回 桶狭間の合戦第8回 金ヶ崎城の合戦
第10回 二俣城の合戦第11回 一言坂の合戦
第12回 三方ヶ原の合戦第13回 野田城の合戦
第14回 叡山焼き討ち第18回 長篠の合戦
第22回 江古田原沼袋の戦い第24回 権現山の戦い
第26回 石山合戦第29回 第一次国府台の戦い
第30回 上月城の戦い第31回 河越城の戦い
第32回 三木合戦 第34回 備中高松城の戦い
第35回 本能寺の変第36回 山崎の戦い


※『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の邦光史郎氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

他人と何かひとつのことを推し進めるには「信頼関係」が重要です。

この「信頼関係」とは何かというと、「この人は私の利益を尊重してくれる」もしくは「私の権利を侵害しない」と思えることではないでしょうか。

相手にこう思ってもらうにはどうすればいいでしょうか?

世の中には小手先のテクニックがはびこっています。

相手にハードルの低い要求をして「YES」と言わせ続けることで断りにくい状況を作り、最終的な交渉でも「YES」と言わせる「YESセット」

逆に大きな要求を先にして「NO」と言わせ続けることで軽い罪悪感を与え、その後に本命の要求をして「YES」と言わせる「NOセット」等々。

営業テクニック関連の記事を読みたい方は、下記タップをクリックしてください:
戸次川の戦いに学ぶ―逸って決断してはいけない

そういったテクニックの有用性は確かにありますが、それだけでは相手の心からの信頼を得ることはできません。

交渉の場を去ったあと、相手が「あれ?私、なんでYESっていったんだろう?」という疑問にさいなまれることも少なくないはずです。

今回は「賤ケ岳の戦い」に勝利した羽柴筑前守秀吉〔以降「(羽柴)筑前守」〕の動きから、そういった小手先のテクニックではない、心からの信頼を得る方法を学びたいと思います。

羽柴筑前関連の記事:
小牧長久手の戦いに学ぶ―勝ちすぎてはいけない

同関連記事:
『麒麟がくる』第31回―浅井家の来歴

同関連記事:
山崎の戦いに学ぶ―大事なことをひとつ決める




賤ケ岳の戦いまでの流れ


天正(てんしょう)10年(1582年)6月2日、「本能寺(ほんのうじ)の変」によって織田前右大臣信長〔以降「(織田)右府」〕は明智日向守光秀〔以降「(明智)日向守」〕によって討たれました。

関連記事:
本能寺の変に学ぶ―覚悟を決める

その後、備中高松(びっちゅう・たかまつ)城にいた羽柴筑前守秀吉はわずか10日間で230kmの道のりを戻り、6月21日「山崎(やまざき)の戦い」で明智日向守を破りました。


関連記事:
備中高松城攻めの戦いから学ぶ―変化を受け入れる

関連記事:
山崎の戦いに学ぶ―大事なことをひとつ決める


織田(おだ)家中でのイニシアティヴをとった羽柴筑前守は6月27日に尾張・清須(おわり・きよす)城にて織田家後継者を決める会議を開きます。
いわゆる清須会議です。

この時、織田家の筆頭家老(ひっとう・がろう)柴田修理亮勝家〔以降「(柴田)修理亮」〕は織田右府の三男である侍従信孝〔以降「(織田)侍従」〕を推しましたが、羽柴筑前は右府の嫡孫(ちゃくそん)である三法師(さんぽうし)〔のちの岐阜中納言秀信〕を推します。

羽柴筑前は「右府の仇を討った」という強みと、織田家重臣であった丹羽五郎左衛門長秀、池田紀伊守恒興を味方につけることにより、自らの意見を通すことに成功します。
※この時、筑前は長年の拠点であった近江・長浜(おうみ・ながはま)城を柴田修理亮に譲っています。

しかし水面下では修理亮と筑前守の対立は解消せず、10月、修理亮は筑前守の清須会議の制約違反を責め立てます。

11月、この時期修理亮の領する越前(えちぜん)は雪に埋もれ、大軍の進軍が困難であったため、修理亮は与力(よりき)であった前田又左衛門利家〔以降「(前田)又左」〕、金森五郎八長近〔以降「金森五郎八」〕、不破彦三勝光〔以降「不破彦三」〕を筑前の元に派遣し、和睦(わぼく)をします。


関連記事:
大河ドラマを楽しむ方法(12)(『麒麟がくるまでお待ちください』第2~3回)

関連記事(不破彦三の父・河内守光治について触れています):
『麒麟がくる』第15~16回―織田一族の関係性と斎藤新九郎高政の重臣たち


これがかりそめの和睦と見抜いていた筑前は、12月に近江・長浜城を攻め、城将であり修理亮の養子であった伊賀守勝豊〔以降「(柴田)伊賀守」〕を降伏させています。
※この時、柴田伊賀守は筑前の調略(ちょうりゃく)にあい、城ごと寝返ったと言われています。

筑前はそのまま美濃(みの)に侵攻し、修理亮とともに反筑前の動きをとっていた織田侍従を降伏させます。

明けて天正11年(1583年)1月、羽柴(はしば)、柴田(しばた)、丹羽(にわ)、池田(いけだ)と並ぶ織田家の重臣であった滝川左近将監一益が柴田修理に同調し、北伊勢(きた・いせ)で挙兵します。

筑前は伊勢へ軍勢を向け、滝川左近が落とした諸城を落城させています。
※詳しくは下記「今日は何の日?徒然日記」さんをご覧ください。
※この時の戦いで蒲生忠三郎賦秀〔のちの氏郷〕が活躍しています。


そして2月、ついに柴田修理は前田又左、甥の佐久間玄蕃允盛政ら諸将を率いて越前を進発します。


関連記事:
鶴岡八幡宮を味わう(1)―太鼓橋と舞殿

関連記事:
『真田丸』最終回―松代藩の偉人佐久間象山





賤ケ岳本戦


天正11年(1583年)3月、近江に到着した柴田修理は琵琶湖(びわこ)の北方、柳ケ瀬(やながせ)に布陣します。

一方の羽柴筑前は伊勢から取って返し、余呉湖(よごのうみ)を挟んで南側にある木ノ本(きのもと)に布陣しました。

4月に入り、柴田・滝川(たきがわ)と呼応した岐阜(ぎふ)織田侍従が再び挙兵したため、羽柴筑前は近江に兵を残して自らは美濃に向かいます。
しかし揖斐川(いびがわ)が氾濫していたため大垣(おおがき)城で足止めを食らいます。

そしてそのころ近江では佐久間玄蕃の部隊が羽柴方の中川瀬兵衛清秀隊を急襲。瀬兵衛を討ち死にさせています。

この報を知った筑前は美濃・大垣城から52kmの道のりをわずか5時間で舞い戻ります。

修理亮の撤退命令をきかず前線に陣取っていた佐久間玄蕃隊と柴田三左衛門勝政隊は羽柴筑前の急襲を受け、崩れます。

それを受けてか、修理亮に従っていた前田又左、ついて金森五郎八、不破彦三が相次いで退却を始めます。

これによって柴田軍はあっという間に崩れ、柴田修理自身も退却を始めます。




柴田軍が崩れた要因


この戦いで柴田軍が崩れた要因はいろいろあると思います。

・前線の佐久間玄蕃が撤退せず、戦線の乱れを招いたこと。
・前田、金森、不破の相次いで退却し、柴田修理本体へ羽柴軍が殺到したこと。


この中で今回フォーカスするのは「前田、金森、不破」の退却です。

この話はだいぶ昔から言われていることなので目新しい説ではないのですが、この3名は戦に先立つ柴田と羽柴の和睦交渉の時、柴田方として羽柴筑前を訪問した3名です。

この3名、実はこの時に羽柴筑前の調略を受けていたという話があり、それを踏まえての退却だったという説があります。

また、前哨戦である長浜城の戦いの時も、柴田修理の甥である伊賀守勝豊は筑前に内応(ないおう)したとされています。

情勢的に羽柴筑前の方が有利だったのかもしれませんが、これほどまでに調略を成功させるために筑前はどのような手を使ったのでしょうか?




相手の心に寄りそう


ここから先は僕の考えになります。

上記の羽柴筑前がやったような調略って、テクニックの側面ばかりがフォーカスされているような気がするんですよ。

そのテクニックとは、まず、羽柴筑前は自分が偉く見えるような演出をします。

そのうえで謁見(えっけん)時に相手の苦境などを慮る発言をし、上段から相手のところに降りていって「頼りにしておるぞ」などと言って肩を叩き、相手の自尊心を満たします。

その時に、内応を示唆(しさ)する言葉をかけるんです。

こういったテクニックがすべて演技なのか、嘘なのか。
演技だとしたら、羽柴筑前は大詐欺師ですよ。大ペテン師です。

羽柴筑前はのち、すべての大名(だいみょう)家を従えて天下を統一する人です。
軍事的なパワーもあったでしょうし、策略もあったでしょう。

しかし、それだけですべての大名を従えることはおそらく不可能でしょう。
どこかしらで反乱の絶えない状況となるはずです。

おそらく、彼の言葉には本心も多分に含まれていたと思うんですよね。

では、どうすれば嘘や演技ではなく、本心で相手の心をつかむことができるのか。

それはよく言われていることですが、「相手を知ること」です。

重要度によりあらかじめ相手のことをリサーチするかどうかは変わりますが、少なくとも会話によって相手のことを深く知る努力をします。

・この人のゴールはどこにあるのか。

・この人は何を求めているのか。

・この人は何に価値を置いているのか。

・この人は何をしたら喜ぶのか。

・この人は自分のどういう部分を誇りに感じているのか。


そういったことを、会話の中に質問を織り交ぜていき、探っていきます。
なんなら直接質問してもいいと思います。

こうすることによって、自分の中に相手に与えられるものがあれば相手に与えることができます。
そして、信頼関係が構築されていきます。

関連記事:
上月城の戦いに学ぶ―信頼の貯金を作る

世の中、何も対立や競争ばかりではないんですよね。

自分の余っているものを与え、相手の余っているものをもらう。

これが本来の交易であり、相手も自分も発展する道です。

それをやるためには相手の話を「聴いて」、相手の欲しいものを洞察していく必要があるんですね。
※これ、恋愛にも共通してますよね。


関連記事:
恋愛は玉砕してでもした方がいいと思う

関連記事:
生涯未婚率の向こう側にある根本的な問題


このような努力をして、誰もが繁栄できる世界を構築できたら素敵だなと思っています。

ということで、今回は「相手の心に寄りそう」ということについて説明させていただきました。

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・羽柴〔木下〕 筑前守〔通称は藤吉郎〕 平〔豊臣〕 朝臣 秀吉
はしば〔きのした〕 ちくぜんのかみ〔通称はとうきちろう〕 たいら〔とよとみ〕 の ひでよし
・織田 右大臣〔右府。総見公。通称は三郎、上総介〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ うだいじん〔うふ。そうけんこう。通称はさぶろう、かずさのすけ〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・明智〔惟任〕 日向守〔通称は十兵衛〕 源〔大神〕 朝臣 光秀
あけち〔これとう〕 ひゅうがのかみ〔通称はじゅうべえ〕 みなもと〔おおが〕 の あそん みつひで
・柴田 修理亮〔通称は権六(郎)〕 源 朝臣 勝家
しばた しゅりのすけ〔通称はごんろく(ろう)〕 みなもと の あそん かついえ
・織田〔神戸〕 侍従〔通称は三七〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信孝
おだ〔かんべ〕 じじゅう〔通称はさんしち〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶたか
・織田 中納言〔通称は三郎。幼名は三法師〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 秀信
おだ ちゅうなごん〔通称はさぶろう。幼名はさんぽうし〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん ひでのぶ
・丹羽〔惟住〕 五郎左衛門 良岑〔大神〕 長秀
にわ〔これずみ〕 ごろうざえもん ながみね〔おおが〕 の ながひで
・池田 紀伊守〔通称は勝三郎〕 源 朝臣 恒興〔信輝、勝入〕
いけだ きいのかみ〔通称はかつさぶろう〕 みなもと の あそん つねおき〔のぶてる、しょうにゅう〕
・前田 又左衛門 菅原 利家
まえだ またざえもん すがわら の としいえ
・金森 五郎八 源 長近〔可近〕
かなもり ごろうはち みなもと の ながちか〔あり
ちか〕

・不破 彦三 藤原〔源〕 勝光〔直光〕
ふわ ひこぞう ふじわら〔みなもと〕 かつみつ〔なおみつ〕
・柴田 伊賀守〔通称は伊介〕 源 朝臣 勝豊
しばた いがのかみ〔通称はいすけ〕 みなもと の あそん かつとよ
・滝川 左近将監〔通称は彦右衛門〕 紀 朝臣 一益
たきがわ さこんのしょうげん〔通称はひこうえもん〕 き の あそん かずます
・蒲生 忠三郎 藤原 賦秀〔教秀、氏郷〕
がもう ちゅうざぶろう ふじわら の やすひで〔のりひで、うじさと〕
・佐久間 玄蕃允〔通称は理助、理介〕 平 朝臣 盛政
さくま げんばのじょう〔通称はりすけ、りすけ〕 たいら の あそん もりまさ
・中川 瀬兵衛 源 清秀
なかがわ せべえ みなもと の きよひで
・柴田 三左衛門 源 勝政
しばた さんざえもん みなもと の かつまさ
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)
応仁の乱以降の畿内史
前哨戦である亀山城の戦いについて
今日は何の日?徒然日記

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※こちらの記事は、令和3年11月3日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「実生活に活かす戦国合戦術」第52弾として、「大坂夏の陣(おおさかなつのじん)」について、実用的視点で学んでいこうと思います。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】
江古田原沼袋合戦権現山の戦い
第一次国府台の合戦川越城の合戦
志賀城の合戦郡山城の合戦
厳島の合戦四万十川の合戦
今山の合戦耳川の合戦
金ヶ崎城の合戦一言坂の合戦
三方ヶ原の合戦叡山焼き討ち
江古田原沼袋の戦い②石山合戦
雑賀・根来合戦第一次国府台の戦い②
三木合戦本能寺の変
九戸城の戦い文禄・慶長の役
関ヶ原の戦い長谷堂城の戦い
大坂冬の陣


※『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の檜山良昭氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。


普段の生活で、望まない状況に陥ることってあると思います。

仕事でうまくいかないとか、友人関係がうまくいかないとか、彼女にフラれたとか。

そんな時、どうしてますか?

状況が受け入れられなくてパニックになって、あらぬ行動をとってしまうこともありますよね。

みんな同じなんですね。

それは仕方のないことではあります。

他人のせいにしてしまいたくもなります。

しかし、ジタバタしてしまって状況がさらに悪化したことってありませんか?

他人のせいにしてその人を責めてみて、解決しましたか?

今回は、そんな状況に陥りつつも危機を脱した人の話です。




大坂夏の陣までの流れ


慶長(けいちょう)19年(1614年)12月、方広寺鐘銘事件(ほうこうじ・しょうめい・じけん)に端を発して徳川(とくがわ)家と羽柴(はしば)家(豊臣(とよとみ)家)(※)の戦いに発展した大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)は、徳川方の勝利に終わりました。

※「羽柴」は名字で、「豊臣」は氏(うじ)に当たります。織田信長や徳川家康など、安土桃山時代の人物は「氏」ではなく「名字」で呼称するのが普通です。当ブログでは、それに合わせて豊臣家の人物についても基本的に「羽柴」を用います。

羽柴藤吉郎秀吉の名前について知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称


徳川方が提示した講和の条件としては、

・羽柴家の所領を減らす
・当主・右大臣羽柴(豊臣)秀頼の生母・淀君(よどぎみ)が人質として江戸(えど)に行く
・大坂城に集まった浪人衆(ろうにんしゅう)を処罰する


などの案は退けられ、大坂城の「二の丸(にのまる)三の丸(さんのまる)の破却と堀の埋め立て」のみとなりました。

参考記事:
大坂冬の陣に学ぶ―自分のプライドを自分でたたき折る

徳川方は早速二の丸、三の丸の破却と堀の埋め立て工事を始めましたが、大坂城にいた浪人衆はその様子を見て怒り心頭。

慶長20年(1615年)2月、浪人衆は怒りに任せて埋め立てた堀を再び掘り返し始めました。

3月には羽柴家が再び浪人を集めている、伏見(ふしみ)への放火を計画している等の噂が立ち、大御所(おおごしょ)徳川家康は、大坂城にくすぶる火種を消すには羽柴家を滅ぼすしかないと決意。

羽柴家に対して大坂城の退去か、浪人の解雇を要求します。

しかし羽柴家は拒絶。

4月になり、大御所は九男である左中将義利〔後の尾張義直〕の婚儀(こんぎ)のためと称して名古屋(なごや)へ向かい、各大名(だいみょう)鳥羽・伏見(とば・ふしみ)に集結するように命じます。

名古屋滞在後には駿府(すんぷ)に戻らず、京都・二条(きょうと・にじょう)城に入ります。

その頃、羽柴家の大野主馬首治房や後藤又兵衛基次らが大和(やまと)を攻め、開戦が決定的となります。
(樫井(かしい)の戦い)




大坂夏の陣


5月に入り、大和から向かってくる徳川軍を迎撃すべく、後藤又兵衛、薄田隼人正兼相、明石全登、真田左衛門佐信繁〔幸村〕、毛利豊前守吉政〔勝永〕らが進軍しますが、連携が取れず確固撃破されます。

この戦いで後藤又兵衛、薄田隼人が討ち死にし、真田左衛門佐や毛利豊前守は兵を退きます。
(道明寺・誉田(どうみょうじ・こんだ)の戦い)


後藤又兵衛の登場する記事:
『真田丸』第49回―伊達政宗の天下取り

同関連記事:
『真田丸』、第一次上田合戦に勝てない(第45回)

同関連記事:
『真田丸』第42回―織田有楽斎がいい!


同時に、河内(かわち)方面の徳川軍を迎撃すべく木村長門守重成と長宗我部土佐守盛親らが出撃。

羽柴軍が敗れ、木村長門守が討ち死にします。
(八尾・若江(やお・わかえ)の戦い)


木村長門守関連の記事:
『真田丸』第44回―木村重成推し

同関連記事:
『真田丸』第43回―木村重成に注目すべし!


翌日には徳川軍が大坂城の眼前に迫り、天王寺・岡山(てんのうじ・おかやま)で両軍が衝突します。

真田左衛門佐や大野主馬の部隊が奮戦し、数に優る徳川軍を圧倒。

一時、左衛門佐の部隊が大御所の部隊を混乱に陥れ、大御所は切腹を覚悟したと言います。

しかし、最終的には徳川軍は態勢を立て直して羽柴軍に逆襲をかけ、真田左衛門佐が討ち死にします。
(天王寺・岡山の戦い)


真田左衛門佐関連の記事:
第二次上田城の戦いに学ぶ―「負けない戦」の大切さ

同関連記事:
『真田丸』第48回―有楽斎を慮る

同関連記事:
『真田丸』第47回―大蔵卿局について


この戦いに敗れた羽柴軍は大坂城に退去しますが、大坂城は先の冬の陣の講和で裸同然にされていました。

瞬く間に城は落ち、淀殿(よどどの)〔淀君〕や右大臣秀頼、毛利豊前守等が自害し、戦いが終わります。




覚悟して手放す


この戦いにおける羽柴方の失敗は、前回と同様「自分達のプライドを折れなかったこと」となりますので、ここで解説するのは止めておきます。

参考記事:
大坂冬の陣に学ぶ―自分のプライドを自分でたたき折る

ここで取り上げるのは、道明寺・誉田の戦いや八尾・若江の戦いで勝利しつつも、天王寺・岡山の戦いで真田左衛門佐に本陣まで切り込まれた大御所の心境についてです。

大御所はこの時切腹を覚悟したといいますが、その「覚悟した」というのが大事です。


参考記事:
本能寺の変に学ぶ―覚悟を決める

関連記事:
田辺城の戦いに学ぶ―不都合な現実を直視する

関連記事:
摺上原の戦いに学ぶ―次善策を用意する


不都合な現実が起こるとジタバタしたくなるものです。

仕事で失敗して責められたり、友人関係がうまくいかなかったり、彼女とうまくいかなかったり。

もちろん、そうなる前に対策しておくことが重要なのですが、それができなかった場合や間に合わなかった場合はどうでしょう?

自分の力でどうにかなりますか?

これは天災などにも言えることですが、世の中には自分の力では動かせないものが少なからず存在します。

「失敗したという事実」

「他人の気持ち」


こういったものは「自分の力で直接動かせないもの」の典型です。

それらに対してジタバタと抵抗してみても敵わないんですよね。

過去に起こった失敗を取り消そうと思ってあれこれと言い訳をしてみても、相手が抱く自分への印象が悪くなるだけです。

壊れてしまった友人関係が、元に戻る可能性は極めて低いです。

過去にやってしまった失言や失態を取り消してくれといっても、いくら謝っても、友人が自分に抱く悪印象は塗り替えようがありません。

「信頼の貯金」について:
上月城の戦いに学ぶ―信頼の貯金を作る

これは、彼女にフラれた時も同様です。

他人の気持ちを直接動かすことはできないんです。

だったら、覚悟をしてその状況を受け入れ、「手放す」しかないんです。

大御所は左衛門佐に切り込まれた時、覚悟して「手放し」ました。

切腹を覚悟したというのはそういうことです。

しかし、日ごろの「積み重ね」があったのか、忠臣(ちゅうしん)たちが混乱から回復して身を挺して大御所を守りました。

この「積み重ね」が「事前の対策」に当たります。

望まない状況に陥った時、結局ものをいうのが日々の「積み重ね」なんですね。

他人が喜ぶようなことを普段からしているか、他人から気持ちのいい人と思ってもらっているか。

覚悟して「手放し」た時にそういった「積み重ね」がモロに出てきて、状況が改善することもあります。

しかし、改善しないこともあります。

望まない状況に陥った時、それはこれまでの自分の行いの結果だと覚悟して受け入れ、「委ね」ます。

真田左衛門佐に切り込まれた時の大御所は、まさにそんな状況だったと思います。

ということで、今回は「覚悟して手放す」ということについて説明させていただきました。

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・前征夷大将軍 徳川 前右大臣〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
さきのせいいたいしょうぐん とくがわ さきのうだいじん〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・羽柴 右大臣〔権中納言、内大臣。通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀頼
はしば うだいじん〔ごんのちゅうなごん、ないだいじん。通称はとうきちろう〕 とよとみ の あそん ひでより
(文献上「羽柴」を名乗った例はありませんが、名字に該当するものは「羽柴」です)
・大野 主馬首 (氏不明) 治房
おおの しゅめのかみ (氏不明) はるふさ
・後藤 隠岐守〔通称は又兵衛〕 藤原 朝臣 基次
ごとう おきのかみ〔通称はまたべえ〕 ふじわら の あそん もとつぐ
・(尾張)徳川 左近衛権中将〔通称不明〕 源 朝臣 義利〔義俊、義直〕
(おわり)とくがわ さこんえごんのちゅうじょう〔通称不明〕 みなもと の あそん よしとし〔よしとし、よしなお〕
・薄田 隼人正 (氏不明) 朝臣 兼相
すすきだ はやとのかみ/はやとのしょう (氏不明) あそん かねすけ
・明石 掃部頭 源 朝臣 景盛〔守重、全登〕
あかし かもんのかみ みなもと の あそん かげもり〔もりしげ、ぜんとう/てるずみ/たけのり〕
・毛利〔森〕 豊前守〔通称不明〕 (氏不明) 朝臣 吉政〔勝永〕
もうり〔もり〕 ぶぜんのかみ〔通称不明〕 (氏不明) あそん よしまさ〔かつなが〕
・真田 左衛門佐〔通称は源二郎、源次郎〕 滋野〔源〕 朝臣 信繁〔幸村〕
さなだ さえもんのすけ〔通称はげんじろう、げんじろう〕 しげの〔みなもと〕 の あそん のぶしげ〔ゆきむら〕
・木村 長門守〔通称不明〕 源 朝臣 重成
きむら ながとのかみ〔通称不明〕 みなもと の あそん しげなり
・長宗我部 土佐守〔通称は右衛門太郎〕 秦 朝臣 盛親
ちょうそかべ とさのかみ〔通称はうえもんたろう〕 はた の あそん もりちか
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参考
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・今、○○について悩んでいるが、どの武将を参考にしたらいいか

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※こちら記事は、令和2年4月6日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「実生活に活かす戦国合戦術」第15弾として「一乗谷(いちじょうだに)城の合戦」について書きます。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

第1回 今山の合戦
第2回 耳川の合戦
第3回 沖田畷の合戦
第4回 小豆坂の合戦
第5回 長良川の合戦
第6回 桶狭間の合戦
第7回 稲葉山城の合戦
第8回 金ヶ崎城の合戦
第9回 姉川の合戦
第10回 二俣城の合戦
第11回 一言坂の合戦
第12回 三方ヶ原の合戦
第13回 野田城の合戦
第14回 叡山焼き討ち

『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の能坂利雄氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

合戦の概要がわからなければ何を学べるかわからないので、まずは合戦概要です!




合戦に至るまでの流れ


元亀(げんき)元年(1570年)4月の金ヶ崎(かねがさき)城の合戦により、織田上総介信長と朝倉左衛門督義景・浅井備前守長政連合軍の戦いが始まりました。


金ヶ崎城の戦いについて知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
金ヶ崎城の合戦―過去の実績にこだわらない

関連記事:
『麒麟がくる』第31回―浅井家の来歴


同年6月の姉川(あねがわ)の合戦により、「織田(おだ)軍強し」の評判を作った織田軍でしたが、それは浅井(あざい)・朝倉(あさくら)軍の武将たちを動揺させる効果をもたらしました。

参考記事:
姉川の合戦-即座に方針転換する

浅井・朝倉軍の武将たちの間に「このまま浅井(朝倉)の殿様についていって良いのだろうか」という疑念が生まれたということですね。

こののち同年9月の「志賀(しが)の陣」にて織田軍に一泡吹かせたかに見えた浅井・朝倉軍でしたが、織田軍によって浅井方の拠点は次々と落とされていき、翌元亀2年(1571年)9月の上総介の叡山(えいざん)焼き討ちによって力強い味方を失うことにより、ますます動揺が走りました。


関連記事:
『麒麟がくる』第32回―森可成とは?

参考記事:
叡山焼き討ち―問題が山積みのときの対処法


元亀3年(1572年)7月ごろには朝倉家の重臣であった前波九郎兵衛尉吉継、富田弥六郎長繁が織田家に寝返っています

同年10月、武田信玄が上洛(じょうらく)戦を開始したことで、勢いづいた将軍家(しょうぐんけ)足利義昭が挙兵し、朝倉左衛門督もそれに呼応して北近江(きた・おうみ)に出陣しますが、木下藤吉郎秀吉の部隊に敗退し、越前(えちぜん)に撤退しています。

参考記事:
二俣城の合戦―「見る」のではなく「観る」

その後元亀4年(1573年)4月に信玄が死去、7月に足利将軍家が敗退・京都(きょうと)から追放されたことにより、上総介は主力軍を浅井・朝倉討伐に差し向けることが可能となりました。

関連記事:
野田城の合戦―統率力と「イメージ(印象)」の力




朝倉義景の自刃


元亀4年改め天正(てんしょう)元年8月、ついに織田上総介は3万の軍を率いて北近江、小谷(おだに)城を攻めます

西方山本山(やまもとやま)城を擁する阿閉淡路守貞征が浅井家を裏切り、織田方についたことによって、織田軍は小谷城の西~北側への進出が可能になりました

余呉(よご)に出陣していた朝倉左衛門督は田上山(たがみやま)に陣を移し、一部の兵を小谷城のすぐ北の大嶽(おおづく)城〔砦〕に出張らせます。

上総介は、大嶽城の北にある山田山(やまだやま)に陣取ることで、朝倉方の田上山と大嶽城の連絡を断ち、大嵐に乗じて大嶽城を落とします。
さらに丁野(ようの)城も落としましたが、この二戦では敢えて朝倉方の逃走兵を追撃せず、朝倉本陣(ほんじん)に奔らせます

↓参考図(小谷城周辺の動き)※青系は織田方、赤系は朝倉方の動きです。



敗戦の知らせをもたらすことによって、朝倉本軍の撤退を促すためです

これにより案の定左衛門督は撤退を開始

上総介は予定通りの追撃戦を開始し、疋壇(ひきだ)城へを向かう朝倉軍を刀根坂(とねざか)でさんざんに討ち果たします。

朝倉軍は主戦力だった武将たちを失い、左衛門督は命からがら居城(きょじょう)一乗谷城へと帰還します。

しかし、手勢はわずか500名ほど。
これでは戦らしい戦もできないということで、従弟の朝倉式部大輔景鏡の助言で大野(おおの)郡に退却することにしました。

関連記事:
『麒麟がくる』第25回―朝倉氏の系譜

軍勢を立て直すために、六坊賢松寺(ろくぼう・けんしょうじ?)に逃げ込んだ左衛門督でしたが、式部大輔の裏切りにより寺を囲まれ、ついには自刃(じじん)して果てました

↓参考図(田上山撤退から自刃までの動き)






実生活に活かす要素は?


上総介の浅井・朝倉軍切り崩しのやり方からも学べることは多いと思うのですが、やはり負けた朝倉左衛門督からの方が断然学べることは多いと思います。

彼が負けた要因というのは直接的な兵力というよりも用兵に難があったからだと思うんです。

特に武田信玄出兵時のタイミングは上総介をやっつける絶好の機会だったと思います。

上総介の盟友徳川三河守家康は信玄に次々と城を落とされ壊滅の様相を呈していたし、上総介自身は信玄が怖くて主力を近江・越前に差し向けられませんでした。


関連記事:
二俣城の合戦―「見る」のではなく「観る」

関連記事:
一言坂の戦い合戦に学ぶ―がむしゃらになれ

関連記事:
三方ヶ原の合戦―最強の能力「豹変力」


そのタイミングで足利(あしかが)将軍家は挙兵し、ここで浅井・朝倉軍が頑張れば上総介を相当追い詰めることが可能だったと思うんですよね。

しかし、左衛門督が木下藤吉郎との一戦に敗退したことですぐに撤退してしまったことで、この包囲網の一端が瓦解しました。

浅井備前守からしてみれば、朝倉頼みで織田家を裏切ったのにこんな仕打ちをされて、「マジ勘弁してくれよ」と泣きべそ状態だったと思います。

左衛門督がこんな行動をとってしまった理由の一つとして、嫡男(ちゃくなん)と愛妾(あいしょう)の死によって政治への興味をなくし、次に迎えた側室(そくしつ)におぼれたことがあると言われています。

そんなこんなで決断らしい決断もしないし、戦に積極的じゃないし、実際負けてるし…の連続で家臣や一族にすら愛想をつかされた結果が賢松寺での自刃です。

だから今回は経営者とか役職等のリーダーレベルでの教訓ですね。

・決断すべきときには経営者〔役職者〕の椅子をかけて決断すべし!!

ということですかね。
「椅子をかけて」ってのは、ミスったら経営者とか役職を辞めてくださいねってことですね。

僕も何回かこういう立場になったことがありまして、決断を迫られたことはたくさんありますが、いざというときに決断するのは結構怖いものです。
しかし、決断すべき時に決断しないと部下たちの気持ちがどんどん離れていきます

反対に、部下たちの話を一生懸命聞いたうえで、集団として最良と思われる決断を、「自分のクビをかけて下した」という行動は人々をひきつけます。

会社の長や部門の長までいかなくても同じです。
課の長、係の長、一家の長、すべて、自分のクビをかける覚悟がなくては人はついてこないということですね。

「覚悟する」って言葉にすると軽いのですが、要は恐怖のシーンを想定して受け入れることです。

自分の目論見が破綻する覚悟、できてますか?

というわけで、みんなで覚悟して難局を乗り切りましょう!

今回は以上です!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・織田 上総介〔右近衛大将、右大臣。通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ かずさのすけ〔うこんえのだいしょう、うだいじん。通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・朝倉 左衛門督〔通称は孫次郎〕 日下部 朝臣 義景
あさくら さえもんのかみ〔通称はまごじろう〕 くさかべ の あそん よしかげ
・浅井 備前守〔通称は新九郎〕 藤原 朝臣 長政
あざい〔あさい〕 びぜんのかみ〔通称はしんくろう〕 ふじわら の あそん ながまさ
・前波〔桂田〕 九郎兵衛尉〔官職不明〕 日下部 吉継〔長俊〕
まえば〔かつらだ〕 くろうひょうえのじょう〔官職不明〕 くさかべ の よしつぐ〔ながとし〕
・富田 弥六郎 源 長繁
とだ〔とんだ〕 やろくろう みなもと の ながしげ
・武田 大膳大夫〔通称は太郎〕 源 朝臣 晴信〔入道信玄〕
たけだ だいぜんのだいぶ〔通称はたろう〕 みなもと の あそん はるのぶ〔入道しんげん〕
・征夷大将軍〔将軍家〕 足利 権大納言〔通称不明〕 源 朝臣 義昭
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 あしかが ごんのだいなごん〔通称不明〕 みなもと の あそん よしあき
・木下 藤吉郎 平 秀吉
きのした とうきちろう たいら の ひでよし
・阿閉 淡路守〔通称は万五郎〕 阿閉 朝臣 貞征
あつじ あわじのかみ〔通称はまんごろう〕 あつじ の あそん さだゆき
・朝倉〔土橋〕 式部大輔〔通称は孫八郎〕 日下部 朝臣 景鏡〔信鏡〕
あさくら〔つちはし〕 しきぶのたゆう〔通称はまごはちろう〕 くさかべ の あそん かげあきら〔のぶあきら〕
・徳川 三河守〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
とくがわ みかわのかみ〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
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参考
熊谷一哉の徒然なるままに
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※こちらの記事は、平成19年2月2日に書かれたものです。

1998年ごろからビッグコミックか何かで連載が始まった、小山ゆう氏作の人気漫画。
確か2001年ごろには映画化された。
というのは漫画、映画双方とも大ヒットしたので、多くの方が知っていると思う。




ストーリーを簡単に言えば、徳川(とくがわ)政権初期、戦国(せんごく)時代の余韻で再び戦乱を起こす者たちを暗殺するために集められた子供たちの中に「あずみ」という主人公がいて、彼女の喜怒哀楽を描いているわけです。


徳川家康に興味のある方は、下記リンクをタップしてください:
小牧長久手の戦いに学ぶ―勝ちすぎてはいけない

同関連記事:
徳川家康の生涯を貫く思想―山岡荘八『徳川家康』第4巻

同関連記事:
言葉と人間の本質を見極めた「人間学」―山岡荘八『徳川家康』第3巻


僕は高校生の頃この漫画に出会って衝撃を受けました。『がんばれ元気』『おれは直角』『お~い竜馬(りょうま)』でもその威力を発揮していた小山ゆうの十八番「登場人物いじめ」の究極。

関連記事:
歴史を好きになったきっかけ(旧記事名:W杯進出おめでとう!)

主人公あずみは作者小山氏の手によって、最初から一貫していじめられまくる。
自らの手で仲間を殺し、別の仲間が死に、育ての親が死に、親友が死に、恋人が死に・・・。

最初の方はいいのだが、近頃は「いい加減いじめすぎだろう」と思わないことはない(笑

そして『あずみ』を語る上でぜひ言及しておきたいのが映画版の話。
邦画が近頃人気を盛り返してきているが、その理由のひとつとして僕が声高にいいたいのが「若手俳優の積極的な採用」というのがある。
90年代にどん底まで落ち込んだ邦画人気だが、その人気回復とほぼ同時に若手俳優の抜擢が顕著になってきている気がするのだ。
しかも、近頃の若手俳優は「顔がいい」「スタイルがいい」という外側の魅力だけでなく、これまで劇団出身(所属)の演技派俳優の十八番だった「アツい演技」という魅力も身に着けている方が多い。
そして、若手俳優は若いのでおそらく出演料が安いのだ。
つまり、演技派の若手を多く採用することで、低予算でいい映画が作れるようになったのではないか。

この『あずみ』の映画版は、彼ら若手俳優躍進の一助になった映画ではないか、と僕は踏んでいるのである。

出演陣を見てみると、主演上戸彩もそうだが、小栗旬、成宮寛貴、小橋賢児、金子貴俊、瑛太など今では第一線の人気演技派若手俳優のオンパレードだ(当時から売れていた方もいるが)。

そういう意味で、映画版の『あずみ』は邦画界の人気回復に多大なる貢献をした映画だと僕は思っているw


永山瑛太氏の活躍した作品:
『西郷どん』第46~47回―不覚にも感動しました

同関連記事:
『西郷どん』第43~44回―嵐の前の静けさ

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※こちら記事は、平成29年7月27日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回はまた『哲学ニュース』の記事「大航海(だいこうかい)時代に日本が侵略されなかった理由wwwww」について検証してみようということで、

第1回  ヨーロッパと日本の距離について
第2回  日本から産出された資源について
第3回  日本の産業について
第4回  日本とヨーロッパの戦力差(前編)
第5回  日本とヨーロッパの戦力差(後編)
第6回  1501年時点での日本の統一状態について
第7回  1549年時点での統一状態について

に続いての第8弾です。

今回は…




織田信長が天下統一目前で倒れた本能寺の変の直前について調べてみます。

陸奥
  大浦為信、南部晴政→晴継→信直、葛西晴信、大崎義隆、伊達輝宗、相馬義胤、蘆名盛隆、佐竹義重
(文字が小さく二氏判別不能。大浦氏が勃興。岩城氏、白川(結城)氏が戦国大名としては姿を消す)


南部家関連の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
九戸城の戦いに学ぶ―事態を過小評価しない

伊達家の登場する記事:
『青天を衝け』第8回―岩瀬忠震の出自

同関連記事:
摺上原の戦いに学ぶ―次善策を用意する


出羽
  安東愛季、戸沢盛安、小野寺景道、大宝寺(武藤)義氏、最上義光、伊達輝宗
(戦国大名としては由利氏、砂越氏が姿を消す)
常陸
  佐竹義重
(戦国大名としては古河公方足利氏が姿を消す)
下野
  佐竹義重、北条氏政
(戦国大名としては古河公方足利氏、芳賀氏、宇都宮氏、壬生氏、佐野氏が姿を消す)
下総、武蔵、相模、伊豆
  北条氏政
(戦国大名としては古河公方足利氏が姿を消す)
上総
  里見義頼、北条氏政
安房
  里見義頼
上野、甲斐、信濃、越中、飛騨、美濃、尾張、能登、加賀、越前、近江、伊賀、伊勢、志摩、若狭、丹後、丹波、山城、大和、紀伊、但馬、播磨、摂津、河内、和泉、因幡、淡路、美作、備前
  織田信長
(戦国大名としては、山内上杉氏、尾張斯波氏、甲斐武田氏、村上氏、高梨氏、小笠原氏、木曾氏、江馬氏、三木氏、本願寺氏、斎藤氏、能登畠山氏、朝倉氏、若狭武田氏、浅井氏、六角氏、北畠氏、細川氏、三好氏、興福寺、河内畠山氏、山名氏、別所氏、赤松氏、浦上氏が姿を消す。各国で織田氏が伸張)
駿河、遠江、三河
  徳川家康
(戦国大名としては今川氏が姿を消す。松平家康が徳川に改姓)
越後
  上杉景勝
(越後長尾氏が上杉氏に改姓)
伯耆
  織田信長、毛利輝元
(戦国大名としては尼子氏が姿を消す)
備中、備後、出雲、石見、安芸、周防、長門
  毛利輝元
(戦国大名としては大内氏が姿を消す。各国で毛利氏が伸張)
讃岐(さぬき)
  織田信長、長宗我部元親
(戦国大名としては三好氏が姿を消す。織田氏、長宗我部氏が台頭)
阿波
 同上
土佐
  長宗我部元親
(戦国大名としては安芸氏、本山氏、一条氏が姿を消す)
伊予
  河野通直、長宗我部元親
(戦国大名としては宇都宮、西園寺氏が姿を消す。長宗我部氏が伸張)
豊前の一部、豊後、肥後の一部
  大友宗麟〔義鎮〕
(戦国大名としては大内氏が姿を消す)
豊前の一部、筑前、筑後、壱岐、肥前の大半、肥後の一部
  龍造寺政家
(戦国大名としては松浦氏が姿を消す)
肥前の一部
  有馬晴信、龍造寺政家
(戦国大名としては松浦氏が姿を消す)
肥後の一部
  相良忠房
日向
  島津義久
(戦国大名としては伊東氏が姿を消す)
薩摩、大隅
  島津義久
(参考:戦国武将勢力地図、Wikipediaの各ページ)


信長関連の記事:
『麒麟がくる』第37回―足利家について(2)

同関連記事:
『麒麟がくる』第36回―足利家について(1)

同関連記事:
『麒麟がくる』第35回―細川藤孝について


という訳で、知識としては織田信長が天下統一目前の状態で、中国の毛利、四国の長宗我部と統一が進み、九州は大友、龍造寺、島津がしのぎを削っていたのはわかりきっていた訳ですが、こうやって調べてみるとまた新鮮ですね。

大名家の数で言うと、1549年時点の68家から比べて26家と、かなりの数の大名がいなくなっています。
(織田家内の大名格の家臣などはカウントしていません)

そしてさらに新鮮だったのが、東北の群雄割拠があまり変わっていないということ。
環境的要因でしょうか?
他の地方のように一強と呼べる勢力が現れなかったのでしょうか?

まぁ、他の地方でこのくらい統一が進んでいれば南蛮人が攻めてきたとしても大勢力同士で手を組むことは可能かもしれませんね。

このあと本能寺の変でまたしても日本中は大混乱に陥るわけですが、この前にも後にも南蛮人が攻めてこなかったのは運がよかったとしかいいようがないかもしれませんね。

この勢力図分析、もう少しやります 笑

参考
しばやんの日々
ナチュラリストの散歩道
るいネット
こん

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※こちらの記事は、平成19年3月2日に書かれたものです。

『覚悟のススメ』、『蛮勇引力』などの名作を描いた山口貴由氏がまたすごい漫画を描いてくれました。
南條範夫原作の時代小説『駿河城御前試合(するがじょうごぜんじあい)』の第一話「無明逆流れ」をもとにした、残酷無惨時代劇『シグルイ』。


『覚悟のススメ』について知りたい方は、下記リンクをクリックしてください:
覚悟のススメ 完全保存版第1巻

『蛮勇引力』について:
蛮勇引力

関連記事:
『シグルイ』10巻

関連記事:
『シグルイ』9巻

関連記事:
『シグルイ』8巻




江戸(えど)時代寛永(かんえい)年間、駿府(すんぷ)城主であり将軍家光(しょうぐん・いえみつ)の実弟徳川忠長(とくがわ ただなが)が切腹を命じられた。数々の凶行に走った忠長だが、切腹の直接の原因となったのが駿府城にて行われた「真剣」による御前試合。全十一試合行われ、参加者二十二名中半数以上が死亡。

その第一試合が隻腕(せきわん)の竜、藤木源之助(ふじき げんのすけ)と盲目破足(はそく)の竜、伊良子清玄(いらこ せいげん)という二人の怪物であった。
そして、この試合にいたるまでの二人の因縁が描かれる…。


今までさんざん残酷な漫画を描いてきた山口貴由氏であったが、これまでの作品にはちょっとした気の緩みや、「エロ」による「遊び」的な部分が感じられることがあった。
しかし、この『シグルイ』は全く力の抜けた部分が感じられない。物語の冒頭から張られた綱が、ピンと張り詰め、少しもたゆまない。
「たゆまない」という言葉がこれほどふさわしい漫画は少ないであろう。

さらに「たゆまない」どころか、太い綱があまりの力で引っ張られ、今にもぶち切れそうな漫画である。
その綱がぶちきれる間に何人もの登場人物が、腹を裂かれ、腕をちぎられ、頭部を破壊されて死んでいく。
しかしそれは、山口氏のこれまでの漫画に見られた単なるサディズムではない。
性的描写も少なくない。いやむしろ、男性の肉体美という性描写を含むのなら、ほとんどが性的描写で構成されている。もちろん女性の性描写もある。しかし、そこには「快楽」が感じられない。「生」と「死」の張り詰めた緊張感しか存在しない。

これが山口氏の「覚悟」であるのだろう、と実感した。
「劇画界のサムライ」、山口貴由の決死の覚悟を見届けたい方はぜひ。

「チャンピオン レッド」で連載中。
※令和5年3月25日注:現在は連載が終了しています。


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※こちらの記事は、平成31年1月26日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「合戦における戦術について」シリーズの第6弾ということで「川中島(かわなかじま)の合戦」について書きます。
『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の澤田ふじ子氏の記事を参考にしています。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


参考
第1弾 勝弦峠の合戦
第2弾 戸石城の合戦
第3弾 長森原の合戦
第4弾 三分一原の合戦
第5弾 栃尾城の合戦

まずはどのような戦だったのかというと




一般的には第一次~第五次までの五度の戦があったとされていますが、有名な武田信玄〔晴信〕と上杉謙信〔長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎〕との戦いですね。

第一次は天文(てんぶん)22年(1553年)に武田晴信が北信濃(きた・しなの)の村上義清を追い詰めて起こった戦いです。
義清に助けを請われ、それを受け入れて北信濃への影響力を守ろうとした長尾景虎が晴信と衝突した戦いですが、本格的な戦いは行われていません。

この戦いによって村上義清の北信濃への影響力がほぼ無力化し、武田晴信が影響を及ぼし始めます。


村上義清についてもっと知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
戸石城の合戦―相手の心理を推し量る

関連記事:
各合戦の動員人数について(17)上田原の合戦

関連記事:
各合戦の動員人数について(14)瀬沢の合戦


第二次は天文24年(1555年)、北信濃の豪族(ごうぞく)が武田(たけだ)方へ寝返ったことによって旭山(あさひやま)城が武田方へ帰し、それを抑えるべく景虎が葛山(かつらやま)城を築城したことで、晴信は旭山城への援軍として犀川(さいがわ)まで出兵し、川を挟んで長尾軍と対峙しました。

この合戦も大きな戦いは行われませんでしたが、武田家は着実に北信濃への影響力を強めています。

第三次は弘治(こうじ)3年(1557年)、葛山城に進出した晴信を抑えるべく景虎が出陣したことによって起こります。
この戦いも晴信と景虎の間には直接的な戦いは行われず、晴信の着実な北信濃侵攻がなされます。

第四次がもっとも有名な戦いですね。
永禄(えいろく)3年(1560年)、上杉政虎(長尾景虎が改名)が北条氏を攻めている最中に信玄(武田晴信が改名)が川中島に海津(かいづ)城を築いたことにより、政虎は北信濃にとって返し起こった戦いです。

政虎は海津城を抜いて妻女山(さいじょさん)に陣を敷きますが、それに対する信玄は千曲川(ちくまがわ)の対岸にある塩崎(しおざき)城に入ったと言われます(諸説あり)。

この状態で塩崎城と海津城で政虎を挟む形となった武田軍ですが、信玄はなぜか海津城に移動します。
ここでかの有名な「啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)」の登場ですね。

武田家の本体は妻女山や海津城に北側の八幡原(はちまんぱら)にあらかじめ陣取っておき、海津城から出発させた別働隊に妻女山を襲わせ、逃走してきたところを八幡原の本体と挟み撃ちにする、という作戦です。

しかし、政虎方はこれを事前に察知し、武田家の別働隊に襲われる前に八幡原目指して北上します。
武田家の本体は目の前にいるはずのない上杉軍が現れたことで面喰らい、多大な損害を受けますが、妻女山を襲おうとした別働隊の合流により持ち直し、上杉方は善光寺(ぜんこうじ)に敗走しました。

第五次は永禄7年(1564年)に飛騨に進出しようとした信玄を妨害するために上杉輝虎が出兵したことにより起こりますが、こちらも本格的な武力衝突は起こらずに終わっています。

というわけで、戦術についてですが、個々の戦いを取り上げるのはまた別の機会にした方がいいと思うので、全体像について。

こうやって五度の戦の全体像を俯瞰してみると、まるっきり「碁」ですね。

どこの城に味方勢力を置いて、囲まれたら豪族は寝返って、また囲み返して取り返して…みたいな感じです。

そして特に感じるのは両軍の撤退のうまさです。
以前にも書きましたが(三分一原(さんぶいちはら)の合戦)、撤退というのは非常に難しいです。

関連記事:
三分一原の合戦―有力者を味方にする

人はいつまでも「もっと戦えばいつか勝てるかも」という希望を捨てられないもので、「これ以上戦っても損害が増えるだけ」という判断をなかなかできません。

さらに、いったん敗走するとなるといち早く逃げ帰りたいと気持ちが焦り、戦略が荒くなります。

そうなると軍勢の秩序は乱れ、追っ手に狩られまくってしまいます。

それに対して、この戦いでは両軍ともに「やベー、やべー、どうしよう。マジやべー。おれ死ぬかも。マジどうしよう」と動揺する前に冷静に「これ以上戦っても無駄」と判断したことにより戦略的に退却しています。


「撤退」についての関連記事:
天目山の戦いから学ぶ―撤退のベスト・タイミングとは

同関連記事:
『麒麟がくる』第31回―浅井家の来歴

同関連記事:
野田城の合戦―統率力と「イメージ(印象)」の力

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金ヶ崎城の合戦―過去の実績にこだわらない


2人とも「戦上手」と呼ばれる所以でもあるでしょうね。

というわけで、この戦いで際立っているのは
・地勢を俯瞰(ふかん)して碁石を打つかのように拠点を攻略する戦局眼
・状勢を冷静に判断し、退却のタイミングを見誤らない判断力

ということになるでしょうか。
改めて考えると勉強になります。

今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・武田 大膳大夫〔通称は太郎〕 源 朝臣 晴信〔入道信玄〕
たけだ だいぜんのだいぶ〔通称はたろう〕 みなもと の あそん はるのぶ〔入道しんげん〕
・長尾〔上杉〕 平三〔官職はのち弾正少弼〕 平〔藤原〕 (朝臣) 景虎〔政虎、輝虎。入道謙信〕
ながお〔うえすぎ〕 へいぞう〔官職はのちだんじょうののしょうひつ〕 たいら〔ふじわら〕 の あそん かげとら〔まさとら、てるとら。入道けんしん〕
・村上 左近衛少将〔通称不明〕 源 朝臣 義清
むらかみ さこんえのしょうしょう〔通称不明〕 みなもと の あそん よしきよ

参考
今日は何の日?徒然日記
KIDの日常
明治・大正名所 探訪記

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