人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

(インタビュー編)2022年 ホセ・クーラ、音楽監督としてペリェシャツ・フェスティバルをスタート

2022-12-03 | 音楽監督として

 

 

前々回の記事で、クーラが音楽監督を務め、クロアチアの美しいペリェシャツ半島の町オレビックで2022年の夏に行われたペリェシャツ・フェスティバルの様子を紹介しました。

今回は、フェスティバルに向けたクーラのインタビューから、抜粋して紹介したいと思います。

写真だけで、このペレシャッツ半島、開催地のオレビックの美しさ、海のきれいさは一目瞭然ですが、この地の魅力にクーラもかなり惹きつけられたようです。

 

 


 

 

 

≪ オレビックを初めて見たとき、言葉を失い、妻に言った ――ここで死にたい、と

 

 

「なぜオレビックなのかという質問には、こう答えよう。私はもうすぐ60歳(2022年12月5日で満60歳)になるし、キャリアは40年、地球上のあらゆる場所に行き、あらゆる観客の前で歌ってきた。私の仕事で上に行くのは難しいが、すべてをやり尽くした。振り返ってみると、そんな生き方は本当に異常だったと思う。全部合わせると何千回もの公演になる。ここにはたくさんのものがあるが、私にとって大事なのは目の前にあるものだ」

 

「私が40年間いたような過酷な環境では、ただペダルを踏むだけで、人生や世の中で他に何が起こっているかを気にすることなく、すべてがあまりにも速く過ぎていく。そして、コロナはすべてをストップさせた。暗黒の数ヶ月の後、私は少しずつ、ペダルを踏むのをやめ、外には全く普通の世界があることに気づいた。自然か、神か、いずれにせよ、私たちに警告を与えてくれたのだと、私はそれを受け入れた。そして、オレビックという場所での公演の招待を受けた。聞いたことはなかった。ドゥブロヴニクは誰もが知っているが、そこでとまっている」

 

「昨年(2021年)9月、私たちはドゥブロヴニクに降り立ち、それから何時間も車を走らせた。『いったいどこに行くのだろう。乗車時間はどれくらいか。架空の場所なのか、それとも本当にそこに行くのか......』と思っていた。そして、最後のカーブで衝撃的な光景が目の前に現れた。天国に着いたかと思った...。私は口を開いたまま、妻に『ここで死にたい!』と言った。彼女はちょっと困った顔をして、『OK、でもまだその時じゃない』と言った」

 

「その時、ドゥブロヴニク交響楽団と一緒に演奏した。素晴らしかった。でも、まだすべてがコロナ対策下で、マスクをして、人も少ない状態だった。私は2、3日残って、この地を探検した。人々は全くのびのびとしていて、私はすでにここでの将来を想像していた。ある晩、レアル対バルセロナの試合を見ていたら、夜11時に携帯電話が鳴った。ニコラ・ドブロスラビッチ知事からだった。彼は、フラン・マトゥシッチとそのチームがオレビックで何か企画しようとしていると聞いたと興奮気味に話してくれた。それから徐々に、フェスティバルを作るのは素晴らしいことだと判断し、まずはそこから始めて、後に半島の文化の中心地を作り、周辺の町も含めてやっていこうという決断をした。それが始まりだ」

 

――オープンでコミュニケーション能力の高いクーラは、推測の余地を与えない。その文章は、彼のパフォーマンスと同様、鋭く、明快である…

 

「私たちは(多くのフェスティバルがあるなかでの)最も遅くスタートしたので、オレビックからペレシャッツ半島における新しいイベントを開始し、認識してもらえるように、新しい何かを始め、最初からすべてをやり直さなければならない。今年はオレビックだけだが、ペレシャッツ半島の残りの部分とコールチュラ島を含めることを計画し、希望している。クラシック音楽だけでなく、ジャズ、ロックンロール、そして食事や美しい風景など、注目を集めるものがたくさんあるはずだ。そして、”毎年恒例の楽しいひとときだった”と、帰ってから言ってもらえるように」

 

――この40年間、クーラは自分が何者であるかを証明してきた。だから、もう自分を証明する必要はない、と彼は言う。今こそ、彼の経験をレガシーとして残すべき時がきている

 

「肩ひじはらず、みんなで協力し合いたい。私はこの地域の一員になり、最低でも半年はここで暮らしたいと願っている。ライバルになってはいけない。世界には、十分過ぎる争いがある。理想主義者かもしれないが......」

 

 

 

 

 

 

 

――彼にはうわべだけの謙虚さはない。そして、注目を集め、舞台のスポットライトを愛するすべてのアーティストがそうであることを、彼は教えてくれる

 

「自分のことをスターと言えるかどうかはわからない。それは多くのことを意味するとともに、何も意味しない表現だ。それが自分の光の一部を分かち合うという意味なら、私は自分自身をそう特徴づけたいと思う」

 

――そう語るクーラは、これまでの彼のキャリアにおける数千回の公演で、あらゆることを見てきたし、やってきた、そして、その中には失敗も含まれているが、それは同様に重要であったと言う

 

「そんなふうに働き、生きてきたことに後悔はない。しかし今となっては、どうしてそんなことができたのだろうと思う。妻であり同僚であるシルビアも、何十年も一緒にいて、今では私を火星人のように思っている。しかし、コロナはすべてを変えた。"昔の私"はもういない。リズムを刻むのを止めて、ライトが顔を照らすのを止めたとき、見えてくるものがある。例えば、犬たちの散歩を始めたら、彼らが不思議そうな顔をした。“本当?こんなこと知ってるの!”といってるみたいに」

 

――実はオペラ歌手になりたかったわけではないと、懐かしそうに笑う

 

「歌手になりたいと思ったことはなかった。私は大学で作曲と指揮を学んだが、その科目のひとつに歌があった。それを学ばなければ、いい指揮者にもなれない。歌の教師と一緒にレッスンをしていた時、音楽院の学部長がホールを通りかかってそれを聞いた。彼はすぐに私をオフィスに招き、こう言った。『君は自分の声がどんなものかわかっている?稀なドラマチック・テノールを学校から失ってしまうことを自覚している?君は歌わなければならない!』と。 私はオペラが嫌いだと彼に言った。私はその時19歳で、冷静に理由を伝えた。『一生、マントを着て舞台に立っているのはいやだ』と。すると彼は、『わかった、歌手にならなくてもいいが、いい指揮者になるために、歌を勉強すべきだ』とアドバイスしてくれた。私はそれに同意し、歌を習い始め、そして今に至っている」

 

「キャリアに大きな影響を与えた1つの出来事といえるものはないが、40年間も濃密に生きていると、多くのいろんな瞬間があるし、失敗もある。間違いは人を成長させる。私はしばしば、間違った時に間違った場所にいて、間違った決断をした。しかし私はそれらを通じて学んだ。私は今でも理想主義者だが、若い頃はロマンチックな理想主義者で、動くものすべてを撃っていた。そして今は、どんなものにも弾丸を撃ち込む価値があるかどうか、慎重に考えるようになった。今はストイックになったが、ロマンチストであることに変わりはない。さらに、正しいことを指し示してくれる人に囲まれていることも重要だ。私のようなキャリアを積んでいると、誰もがうなずいて、頭を下げてくるが、それはあなたを慕っているから、ではなく、あなたがお金を持ってきてくれるから、なのだから」

 

「私の周りに信頼できる人が数人いるが、彼らへの私の指示はいつも同じで、『もし私が間違っていたら言ってほしい』だ。ここにいる妻シルビアには、いつも私は助けられているし、彼女は家でも正直に本当のことを言ってくれる。また私は彼らに、ステージ上で私が哀れにみえるようになったら、言ってほしいと頼んでいる。特に私のように、ステージの照明の前に立ち、注目の的であることが好きな人間にとって、エレガントに退くことは難しい」

 

――クーラは指摘し、自身の目標を語る

 

「20代の役を60歳の私が演じ、歌うのは、非常に痛々しい。ステージの上で正直になり、自分の年齢の範囲外のキャラクターを演じずに引っ込むか、ばかげたことをして自分自身と観客をがっかりさせるのか、そのどちらかだ。どうやったら私のこの年齢で、10代のジレンマを演じられるのか。愚かだし不必要だ。時が来たら『もういい』と言わなければならない。私の夢のひとつは、『トゥーランドット』で私と同年代の皇帝を演じ、それによって私のキャリアを堂々と終わらせることだ。舞台アーティストにとって、舞台を去ることはとても難しいことだ。だからこそ、このフェスティバルのような他のプロジェクトで "リサイクル "される必要がある。一旦、このフェスティバルを軌道に乗せ、スタンダードを作れば、アーティストが主役になることを期待している。いつもポスターに描かれている自分を見ていたいというエゴは私にとってそれほど大きくない。私は裏方になり、それをとても楽しみにしている」

 

(「Dubrovački vjesnik」 2022年7月 より抜粋 )

 

 


 

 

息をのむほど美しい海に囲まれた場所でのフェスティバル、本当に、一年に一度、クーラを囲んで集まれればどんなに楽しいことかと思います。

一方、今回のインタビューは、クーラが自分自身の「引退」についても語るという、ちょっとファンとしては寂しい思いをしてしまう内容もありました。もちろん、この10年間ほどで、クーラはじょじょに、世界中を旅する多忙なオペラ歌手から、本来の指揮や作曲を中心の活動へ、またこのような音楽監督や演出などへと、軸足を移してきました。歌手として表舞台に出る回数はかなり減っています。これはもともとの将来展望であり、意図してきたものではありますが、もしかするとコロナ禍がそれに拍車をかけ、多くの出演がキャンセルになった結果、シフトの切り替えが前倒しになってしまったのではないかという残念な思いも少し残ります。

しかしまだまだ60歳。来年以降も、イタリアの歌劇場での椿姫の指揮、マルタでのトスカの演出、そしてライフワークとなっているアルゼンチン歌曲や自作曲のコンサートなど、すでに公表されている公演もあります。今後も、あらたなチャレンジや、さまざまな多面的な活動をすすめてくれるだろうと思います。できるかぎり見届けたいと願っています。

 

 

 

*画像は報道などからお借りしました。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« (動画編)2022年 ホセ・クー... | トップ | (録画)2022年 ホセ・クーラ... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。