金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

金生遺跡・大配石とチャイナの歴史

金生遺跡・大配石とチャイナの歴史

縄文時代後期とチャイナの歴史年表対比


金生遺跡はチャイナの龍山文化頃になりそうなので、立春、立秋を観測する大配石から、八節の暦は縄文人の発祥として良いように思う

 

 

北杜市全域を観測装置とする、大配石のこの観測装置では、現代の太陽暦の暦日に一致している。


引用ーーーーーーーーーーーーーー

ts.way-nifty.com/makura/2005/11/post_5da6.html
中国:世界最古の天文台遺跡見つかるというニュースを見ました。=========中国山西省臨汾市の陶寺遺跡で、世界最古の天文台遺跡が発見されたと報じた。約4100年前に造られたとみられ、メキシコのマヤ文明の天文台遺跡よりも二千数百年古いという。

2005.11.07
最古の天文台
中国:世界最古の天文台遺跡見つかるというニュースを見ました。
=========
中国山西省臨汾市の陶寺遺跡で、世界最古の天文台遺跡が発見されたと報じた。約4100年前に造られたとみられ、メキシコのマヤ文明の天文台遺跡よりも二千数百年古いという。
天文台は直径約40メートルの土で固めた半円形で、直径約60メートルの外円が取り囲んでいる。中心には高さ4メートルの計13本の石柱が立てられており、日の出の方角を観察しながら季節の移り変わりを理解するのに使ったとみられる。


 中国社会科学院考古研究所が、この遺跡で1年半にわたって模擬天文観察を行ったところ、中国で現在も広く使われている旧暦と1、2日の誤差しかなかった。発見された天文台は観測以外に祭祀(さいし)にも使われた。
(上記ニュースより抜粋)
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世界最古の山西気象台発掘作業、年末終了
2004年 10月 11日9:05 / 提供:
 山西省襄汾県陶寺遺跡にある気象台の考古発掘作業が進行中、年末まで全面的に終え、展示される。

 中国社会科学院考古研究所の考古専門家4人と一部の天文学者は同気象台が西暦紀元前2100年の原始社会末期に建設されており、定評のある英国巨石陣気象台より500年早く、これまで世界最古の気象台だと評価した。

 03年、考古学者は陶寺城遺跡を発掘した際、陶寺早期城跡、宮殿区および中核建築区北部出入口、早期墓地、祭祀区土台といった重要な遺跡を確認した。陶寺文化中期に使用され、晩期に消えた建築は「ヨウ典」で記載されていた気象観測記録を実証、中国古代気象観測の考古依拠を4100年前に遡及。気象台建築は古代首都建築の必要な建築要素で、同発見は陶寺城跡の性質調査に重大な意義がある。

 考古専門家によると、同気象台は円形、04年5月に東部の半分を発掘、季節などの原因で発掘作業に休止符を打った。同気象台は3階段の土台構造からなり、経緯測定器を円心とし、裏から外へ半径はそれぞれ18メートル、24メートルと50メートル。第1輪内は土台11ヶ所、団扇のかたちで排列、石柱は長さ90センチメートル、幅70センチメートル、石柱間の距離は15~20センチメートル。

 また、土台の上、以前は石柱11本が立ち、石柱高さ約5メートル。古代人は石柱間のすきまから太陽と周囲の山の切線を観測、当時の節気を確定。専門家らは実地摸擬観測を行い、現在の旧暦時間と比較し、古代の節気精確性がきわめて高いという定評を下した

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今夏は中原龍山文化。「中原(ちゅうげん)」の範囲は中国史の各時代によって異なるのだが、新石器時代は黄河中流域を指す。

f:id:rekisi2100:20181205205637p:plain

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p115

中原龍山文化
楽器と犠牲
楽器
犠牲
中原龍山文化
前回に書いた通り、中原龍山文化というのは「中原(黄河中流域)における(本家の)山東龍山文化に併行する時代(龍山文化期、龍山時代)の文化群の総称だ」。

中原龍山文化圏の個々の地域は前の仰韶文化を継承していたが、以上のような状況で山東半島からの龍山文化を一部受け入れたか、あるいは黒陶技術を受け入れた以外は名ばかりの龍山文化だった、と思われる。

西江清高氏は以下のように説明する。

中原地区の龍山文化期には、同時期の長江中・下流域や山東地区のような大きな地域的社会の統合は成立していなかったと考えられる。確かに山西南部の陶寺類型のように統合度が高い社会も生まれていたが、のちの二里頭文化の母体となる嵩山南北の王湾三期文化や東南部の王油坊類型のように、顕著な中心集落がなく、分節的な小地域単位が競合するような地域もあり、中原地区にはさまざまな地域システムが並び立っていた。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢/山川出版社/2003/p44(西江清高氏の筆)

上のような説明に対して、宮本一夫氏は異論を唱える。

宮本氏は中原龍山文化の中期に山西南部の陶寺遺跡が中原の中心集落であったと主張する。

陶寺遺跡の中期は城壁は南北1500m、東西1800mという新石器時代の最大の規模を誇る(宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p373)。

大きさだけでなく、中身も他地域に引けを取らない。

城壁の内部は宮殿区・貴族層居住区・一般民居住区・(可能性として)手工業工房区・墓地といった区画に分かれれている。さらに祭祀遺構は天文観測が為されていたことが認められている。これは暦を首長が直接管理していたことを表している。

宮本氏は「このように機能文化した集落構造は、基本的に殷周社会と同じものである。こうした段階を初期国家段階と呼ぶ研究者も早晩出現するであろう」と書いて、陶寺遺跡が堯(伝説の三皇五帝の一人)の所在地とする説を紹介している。(以上、p258-259参照)。

ネット検索すると以下のような記事があった。

中国社会科学院はこのほど北京国務院プレスセンターで、山西省臨汾市襄汾県・陶寺遺跡の発掘成果に関する記者会見を開き、発掘調査の重大な収穫を発表した。中国社会科学院考古研究所の王巍所長は、「陶寺遺跡は『堯の都』であったと推定される。堯舜時代はもはや伝説ではなく、確実な史実によって証明された」と述べた。央広網が伝えた。[以下略]

出典:山西省・陶寺遺跡、伝説の「堯の都」か 2015年06月26日 --人民網日本語版--人民日報

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① 漢民族の由来(wikiより)
シンガポール日本文化協会会長 顔尚強によれば、「漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていた。漢民族という名称は漢王朝(BC 206~AD 220)の時代から今日まで使われてきてはいるが、今でも本土の中国人は中国のことを華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。学者によると、周王朝(BC 1066~BC 256)の創立者である周武王が商王朝(殷王朝ともいわれる。BC 16世紀~BC 1066)の末代の商紂王を討ち取った後中原に定住し、その一族を中国の伝説上の先聖王である神農・黄帝・堯・舜をちなんで「華族」と称した。また夏王朝(BC 21世紀~BC 16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている」という。

 

すなわち、漢民族は自らを華夏族と呼び、自分達のルーツは周王朝(BC 1066~BC 256)と夏王朝(BC 21世紀~BC 16世紀)であると言う。夏と周に挟まれた殷(商)王朝(BC 16世紀~BC 1066)は異民族であったと言う(参考)。


② 夏王朝の時代的な背景(宝貝と玉文化、参考)

縄文後期は温暖期だったので、湖北省の稲作民が華北に北上した。この時期の華北の遺跡から発掘された温帯ジャポニカの痕跡が、その事実を示している。この時期の中国の著名な遺跡には、山西省の汾河流域の陶寺遺跡(BC2300~BC2000頃)、夏王朝期の遺跡だった洛陽盆地の二里頭遺跡(BC1800~1600年頃)がある。

縄文後期後半に温暖期が終了すると、華北から稲作民が南下し、アワ栽培者の殷王朝(BC16世紀~BC11世紀)が生まれ、その前期の鄭州時代(二里岡遺跡)の遺跡と、後期の安陽時代(殷墟)の遺跡が発掘されている。殷代に寒冷化が進んで華北に稲作民がいなくなると、殷は黄河南岸の鄭州からアワ栽培の中心地だった安陽に遷都したと考えられる。 

寒冷化してアワ栽培地に北上したのは、寒冷化すると降雨が増え、黄河以南の温暖な地域の森林化が進んだから、石器の農具しか持たなかったアワ栽培民は森林の脅威に負け、乾燥した北部にアワ栽培地が移動したからだと考えられる。その観点で言えば、安陽はアワ栽培地の南限に近く、最も生産性が高い地域だったと推測される。 

コメは森林地域での栽培が可能だったのは、単位面積当たりの収量が多いから広大な森林を開墾する必要がなく、湿田では連作も可能だった上に、アワ栽培民より豊かだった稲作民は、一足早く青銅器時代を迎えていたからだと考えられる。稲作民の豊かさが交易活動を活発化させていたから、森林を開墾するための磨製石斧などが流通していた可能性もある。

その様な事情から殷代の中国では、アワ栽培地と稲作地の中間地にある淮河流域は、石器の素材が得られない広大な沖積地だったから、稲作民とアワ栽培民を隔てる広大な森林に覆われていたと考えられる。


③-1 夏王朝の実在(wikiより)

 

従来、史書に記された夏の実在性を確実に示す考古学上の発見が無く、伝説上の王朝とされてきた。

しかし、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、殷の建国(二里岡文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした殷はこの二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがってこの二里頭文化が、史書のいう夏の時代に相当することになる。

しかし二里頭の都市文化は、文字の出土資料もなく、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかも不明である。考古学的に「『夏』と後世に呼ばれた政権が実在した事」が証明された事と、史書のいう「『夏王朝』が実在した事」を混同してはならない。

現代の中国史・考古学学界では夏王朝が実在したものと見なされている。

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歴史の世界を綴る
2018-12-24
中国文明:二里頭文化④ 二里頭遺跡と新石器時代末期の違い/「夏王朝」の関係
中国_中国文明
二里頭文化は文字資料が無いため、よく分かっていない部分が多い。
二里頭文化が中国文明の黎明期と考えられているが、新石器時代と二里頭文化は何が違うのだろうか?

また、二里頭文化を夏王朝とする研究者がいるが、その真偽はどうなのか?

二里頭文化期と新石器時代末期の違い
二里頭文化と「夏王朝」の関係
二里頭文化期と新石器時代末期の違い
現代中国のここ数十年の急激な発掘・研究により、後期新石器時代末期において中国各地で文化が発達し、その中の幾つかの大集落は都市文明の段階にまで到達していた。

特に新石器時代で最大の集落と言われる陶寺遺跡は中国では「最古の帝都」「堯の都」と言われている。

日本の学会で新石器時代末期を初期国家段階とするか首長制社会段階とするかというような議論がどのように為されているのか分からないが、たとえば吉本道雅氏は以下のように書いている。

国家とそれ以前の社会を分かつ指標としては、階級分化のほかに、都市・冶金術・文字の出現などを挙げうるが、龍山期[新石器時代末期―引用者]にはこれらの要素はほぼ出揃っている。

出典:概説 中国史 上(古代ー中世)/昭和堂/2016/p24(吉本道雅氏の筆)

これに対して、宮本一夫氏はまだ首長制社会段階であったとする。

その理由としては要するに首長権の系統を維持することができなかったとする(宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p356)。おそらく世襲できなかった、王朝を建てることができなかった、だから国家段階ではない、と言いたいのだと思う。

そして宮本氏は、二里頭文化期から初期国家の段階に入ったとする。その理由は各地の「社会組織維持のための精神基盤」すなわち祭祀儀礼を取り入れた、新しい祭祀儀礼として「宮廷儀礼」というものを確立したことを挙げている。(p356-357)

宮廷儀礼は自然信仰(五穀豊穣など?)と祖先信仰を合体させた祭祀になってるという(p316)。

精神面(宗教・思想)は上の説明で良いとして、具体的な面、つまり軍事や経済の面ではどうだろう?

これらのことに関する情報を見つけられなかったので私が勝手に考えると、青銅器がキーワードになると考えられる。

銅鉱山・製造技術を独占すれば、持てる者と持たざる者の格差は圧倒的なものになる。ステータスシンボル(威信財)としての青銅器だけではなく、武器としても他を圧倒する力となっただろう。

これが初期国家段階への進化を可能にしたのではないだろうか。

いずれにしろ、二里頭文化は先史時代から歴史時代*1への過渡期であり、宮本氏によれば「本格的な初期国家の段階は殷王朝の統治から」(p358)ということだ。

二里頭文化と「夏王朝」の関係
現代中国では、二里頭文化の王朝を『史記』などの古い文献に出てくる夏王朝だと断定している。日本の研究者は賛否が分かれる。

そもそも二里頭文化の発見者である徐旭生は夏王朝の王都(夏墟)を、文献上の夏王朝に関する伝承を元にして探し当てたのだ*2(佐藤信弥/中国古代史研究の最前線/星海社/2018/p65-68 参照)。

「二里頭文化=夏王朝」説を否定する落合淳思氏は以下のように書いている。

なお二里頭文化の王朝は、文献資料に記された「夏王朝」と同一視されることもあるが、両者は想定される時代が近いものの、内容に食い違いが大きい。

例えば、文献資料では夏王朝の支配が「九州」であったとされているが、「九州」には沿海地域の?州・青洲・徐州、あるいは長江流域の揚州・荊州・梁州などが含まれており、黄河中流域のみを支配した二里頭文化の王朝の実態とは異なっている。また、最後の王である桀が暴君であったとする伝説が知られているが、紂王の「酒池肉林」伝説と酷似しており、それを模倣して作られたものにすぎない。

ようするに、「夏王朝」は後代に作られた神話であり、二里頭文化に実在した王朝とは直接の関係がないのである。日本では、このことがよく理解されており、便宜上「夏王朝」と呼ぶことはあっても、文献資料の記述をそのまま受け入れている研究者はほとんどいない。しかし、中国ではいまだに文献資料の権威が強く、桀王の説話などを信じている研究者も見られるので注意が必要である。

ちなみに、二里頭文化に実在した王朝については、名前が伝わっていない。そもそも、二里頭文化に続く「殷王朝」も自称ではなく殷を滅ぼした周王朝による命名であり、おそらく王朝の名前を付けるということ自体が周代に始まった文化であると考えられる。

出典:落合淳思/殷―中国史最古の王朝/中公新書/2015/p18-19

 

できれば日本の研究者に後期新石器時代最大の大集落である陶寺遺跡(山西省)と二里頭遺跡の比較をしてもらいたい。

陶寺遺跡は、中国では「最古の帝都」「堯の都」と言われている。遺跡の面積は56万m2(0.56km2)以上。

近年発見された宮城は13万m2だと言う。(山西陶寺遺址 發現陸現存最早宮城 2017/06/09 | 兩岸 | 中央社 CNA )。

*1:文明誕生の前後、文字資料の有無の違い

歴史の世界を綴る
2018-12-24
中国文明:二里頭文化④ 二里頭遺跡と新石器時代末期の違い/「夏王朝」の関係
中国_中国文明
二里頭文化は文字資料が無いため、よく分かっていない部分が多い。
二里頭文化が中国文明の黎明期と考えられているが、新石器時代と二里頭文化は何が違うのだろうか?

また、二里頭文化を夏王朝とする研究者がいるが、その真偽はどうなのか?

二里頭文化期と新石器時代末期の違い
二里頭文化と「夏王朝」の関係
二里頭文化期と新石器時代末期の違い
現代中国のここ数十年の急激な発掘・研究により、後期新石器時代末期において中国各地で文化が発達し、その中の幾つかの大集落は都市文明の段階にまで到達していた。

特に新石器時代で最大の集落と言われる陶寺遺跡は中国では「最古の帝都」「堯の都」と言われている。

日本の学会で新石器時代末期を初期国家段階とするか首長制社会段階とするかというような議論がどのように為されているのか分からないが、たとえば吉本道雅氏は以下のように書いている。

国家とそれ以前の社会を分かつ指標としては、階級分化のほかに、都市・冶金術・文字の出現などを挙げうるが、龍山期[新石器時代末期―引用者]にはこれらの要素はほぼ出揃っている。

出典:概説 中国史 上(古代ー中世)/昭和堂/2016/p24(吉本道雅氏の筆)

これに対して、宮本一夫氏はまだ首長制社会段階であったとする。

その理由としては要するに首長権の系統を維持することができなかったとする(宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p356)。おそらく世襲できなかった、王朝を建てることができなかった、だから国家段階ではない、と言いたいのだと思う。

そして宮本氏は、二里頭文化期から初期国家の段階に入ったとする。その理由は各地の「社会組織維持のための精神基盤」すなわち祭祀儀礼を取り入れた、新しい祭祀儀礼として「宮廷儀礼」というものを確立したことを挙げている。(p356-357)

宮廷儀礼は自然信仰(五穀豊穣など?)と祖先信仰を合体させた祭祀になってるという(p316)。

精神面(宗教・思想)は上の説明で良いとして、具体的な面、つまり軍事や経済の面ではどうだろう?

これらのことに関する情報を見つけられなかったので私が勝手に考えると、青銅器がキーワードになると考えられる。

銅鉱山・製造技術を独占すれば、持てる者と持たざる者の格差は圧倒的なものになる。ステータスシンボル(威信財)としての青銅器だけではなく、武器としても他を圧倒する力となっただろう。

これが初期国家段階への進化を可能にしたのではないだろうか。

いずれにしろ、二里頭文化は先史時代から歴史時代*1への過渡期であり、宮本氏によれば「本格的な初期国家の段階は殷王朝の統治から」(p358)ということだ。

二里頭文化と「夏王朝」の関係
現代中国では、二里頭文化の王朝を『史記』などの古い文献に出てくる夏王朝だと断定している。日本の研究者は賛否が分かれる。

そもそも二里頭文化の発見者である徐旭生は夏王朝の王都(夏墟)を、文献上の夏王朝に関する伝承を元にして探し当てたのだ*2(佐藤信弥/中国古代史研究の最前線/星海社/2018/p65-68 参照)。

「二里頭文化=夏王朝」説を否定する落合淳思氏は以下のように書いている。

なお二里頭文化の王朝は、文献資料に記された「夏王朝」と同一視されることもあるが、両者は想定される時代が近いものの、内容に食い違いが大きい。

例えば、文献資料では夏王朝の支配が「九州」であったとされているが、「九州」には沿海地域の?州・青洲・徐州、あるいは長江流域の揚州・荊州・梁州などが含まれており、黄河中流域のみを支配した二里頭文化の王朝の実態とは異なっている。また、最後の王である桀が暴君であったとする伝説が知られているが、紂王の「酒池肉林」伝説と酷似しており、それを模倣して作られたものにすぎない。

ようするに、「夏王朝」は後代に作られた神話であり、二里頭文化に実在した王朝とは直接の関係がないのである。日本では、このことがよく理解されており、便宜上「夏王朝」と呼ぶことはあっても、文献資料の記述をそのまま受け入れている研究者はほとんどいない。しかし、中国ではいまだに文献資料の権威が強く、桀王の説話などを信じている研究者も見られるので注意が必要である。

ちなみに、二里頭文化に実在した王朝については、名前が伝わっていない。そもそも、二里頭文化に続く「殷王朝」も自称ではなく殷を滅ぼした周王朝による命名であり、おそらく王朝の名前を付けるということ自体が周代に始まった文化であると考えられる。

出典:落合淳思/殷―中国史最古の王朝/中公新書/2015/p18-19

 

できれば日本の研究者に後期新石器時代最大の大集落である陶寺遺跡(山西省)と二里頭遺跡の比較をしてもらいたい。

陶寺遺跡は、中国では「最古の帝都」「堯の都」と言われている。遺跡の面積は56万m2(0.56km2)以上。

近年発見された宮城は13万m2だと言う。(山西陶寺遺址 發現陸現存最早宮城 2017/06/09 | 兩岸 | 中央社 CNA )。

*1:文明誕生の前後、文字資料の有無の違い

*2:ただし、当初本人は殷王朝初代湯王が置いた都「西亳(せいはく)」だと主張していた
*2:ただし、当初本人は殷王朝初代湯王が置いた都「西亳(せいはく)」だと主張していた


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